8、アマランサス-3
本能は、血を求める。けれどフェリ自身は、血を拒絶する。
その葛藤を、一体何年続けたことだろう。
そして今。フェリの本能は、エルの血を吸えと囁いている。今、眠っている隙に。その白い首筋に牙をつきたて、血を飲み干せとわめいている。
ぶるぶると震える身体が、顔が、牙が。エルの身体に近づいてゆく。嫌悪しているはずの、あの血の味、におい。それを再び、求めようとしている。
「…………うぅっ」
再び襲う痛みに、フェリは身体を折った。
荒い息をつき、暗くなる視界の奥底で、金の髪をした女性があらわれる。彼女は青い瞳で、フェリを見ている。なぜ今、彼女の顔が浮かぶのか。
『フェリが血を吸ってくれたら、あたしはフェリの命になるんでしょう? あたし、フェリの中で、一緒にエルを育てるから』
彼女はきっと、死の間際に、本当にそう思っていたに違いない。
「ルーシー……」
けれど、フェリの中にルーシーはいない。
血は、ただの血だ。その中にある命も、ただの命だ。たとえそれが彼女の身体からとったものだとしても。彼女の中で生きていたものだとしても。
ルーシーは、どこにもいない。
「ルーシー……」
呟き、フェリは唇を噛みしめる。ふと、目に、エルの黒い髪に隠れた髪飾りがうつった。
ルーシーが好きだと言った薔薇に、よく似ている。フェリが好んだ薔薇に、とてもよく、似ている。
ルーシーの血を、継いだ子供。ルーシーが最後に残した命。それが、エルだ。
ルーシーは、エルの中で、生き続けている。
「エル……」
その命を、再び奪うことが、フェリにできるはずがなかった。
「ごめん。ほんとうに、ごめん」
最後の最後に、命を奪おうとまで、してしまった。そんな自分に、エルはなんとしてでも生きて欲しいと言った。
目じりに涙を残すその寝顔を、フェリはじっと、見つめる。そして額にかかる髪をはらう。
「愛しているよ……」
母によく似たそこに口づけ、フェリはその身体を抱き上げた。右腕はまだ、すこしだけ、力を残していた。
うまく動かない足に力をこめて、一歩一歩、慎重に歩く。エルはまだ起きない。もう窓から飛び降りる力も無く、遠回りながらも、フェリは裏口から館を出た。
門扉の影に隠れるように、花が残っていた。けれどそれは薔薇ではない。薔薇のように目を引くような、きらびやかさはない、質素で小さなアマランサス。Amaranthos――しおれないという意味に、フェリは一人苦笑する。
庭の薔薇たちは、すべて枯れてしまっているのに。そして自らも今、枯れてしまいそうになっている。
いつもエルと一緒に歩いた、町への一本道。空は深い藍から、次第に明るさを取り戻してゆく。なんとしてでも、日が昇る前に、たどり着かなければならない。
いつもはすぐに見えるはずの教会の十字架が、今日はとても、遠くにある。
もうすでに、空は明るくなっていた。けれど、たちこめる朝もやのおかげで、光がフェリにまで届かない。このもやが晴れるまでが、自分に残される、ほんのわずかな時間だった。
花屋の前で立ち止まり、フェリは窓を見上げた。
あの時。自分はこの手で、エルを抱きとめたのだった。
小さくて、生きているのかですら謎だったあの子が。生きていけるかですらわからなかったあの子が。今、自分の手におさまりきらないほど、大きくなった。黒い髪はルーシーのものとは違うけど、眠りに落ちるその寝顔は、彼女の血を引いている。自分はどれだけ、その寝顔に心動かされたことだろう。
耳をすませば、眠りの中にいる町の様子が伝わってくる。いくつもの吐息が重なりあう空気の中。フェリは花屋の窓の奥で、あわただしく起き上がる気配を感じた。
「――エル!」
ジャスティンが目覚めた。そして、エルがいないことに気づく。布団を跳ね除け、ベッドから飛び降りる。まぶたの裏に、そんな様子がありありと浮かんでくる。
彼は、カーテンを開けて、窓の外を見る。
そして、フェリと、その腕に抱かれたエルに気づく。
「――エル!」
ジャスティンは、突然あらわれたフェリに驚きはしたものの、腕の中で眠るエルに気づくとすぐに降りてきた。
閉め切っていた店の戸を開け、彼は半裸の状態で飛び出してくる。朝もやに包まれた中、何もはおらない上半身はさぞ寒かろうに、彼はそんなそぶりをまったく見せなかった。
「あんた……」
ジャスティンが、フェリを見て、複雑そうな表情を浮かべる。きっとエルから話を聞いているはずだけど、まだ頭の整理がついていない。もちろん聞いた話は、そんなにすぐに、考えがまとまるようなことではない。
それでも彼は、エルを差し出すと、すぐにその腕に抱きかかえた。「眠ってるだけだよ」と言うと、安堵の息をついた。
「おれ……」
ジャスティンは、太陽の腐蝕を知らない。傷が醜く引きつるフェリの姿を見て、困惑しているようだった。前日に会ったときよりも確実に、この傷はひどくなっているのだから、驚くのも無理は無い。
なんと声をかけたらいいのか分からない。表情がそう言っている。フェリはそれに微笑み、腐敗し続ける身体をふたりから離した。
「エルを、頼みます」
その一言で、彼は察したらしい。力強くうなずくとともに、朝もやが、少しずつ晴れ間を見せ始めた。
こまかな粒子の隙間から漏れ出す光に、フェリの肌が煙をあげる。不思議と痛みは感じず、むしろ、逃げ続けていた太陽のあたたかさというものをはじめて知り、心地よい眠気を覚えるようでもあった。
「あの、おれ……!」
なにか言わなければ。ジャスティンが焦って声をあげる。その腕の中で、エルが意識を取り戻したのか、もたげていた首を上げた。
一瞬、自分の置かれた状況がわからなかったのだろう。動かない。ジャスティンの胸に顔をうずめていたため、フェリからその表情はうかがえなかった。
「――フェリ!」
ようやく、気づいたようだ。エルがこちらを向いた。ジャスティンの腕を離れ、駆け寄ろうとしたけれど、うまく動かない身体は転びそうになって再び彼に支えられるだけだった。
フェリは、日の出を感じ、道の先にある教会を見る。きらめく噴水の先に、教会の屋根につけられた、大きな十字架が輝いている。
昇った太陽の光を、十字架が反射する。
その輝きが、フェリの身体を包み込んだ。
○○○
エルが最後に見たフェリは、太陽の光を全身に浴びていた。
目がくらむほどの真っ白な光は、彼の腐蝕のすべてをも包み込み、残された姿はまるで綺麗なままであるようだった。
その中で、彼は笑っていた。
目から涙が出るのも追いつかないほどの、わずかな時間の中。ジャスティンの腕に抱かれるエルを見て、彼は微笑んでいた。
それは、今まで見たこともないほどに穏やかで、慈しみにあふれた笑みだった。