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7、ロイヤル・ハイネス-7

『フェリ。血を吸って』

『ルー……』

『約束したでしょ。子供が産まれたら、あたしの血を吸うって』

 早く。ルーシーが、震える唇でささやく。フェリは呆然と、彼女の胸から流れる血を眺めることしかできなかった。

『生きてる血じゃないと、だめなんでしょう? 早くしないと、あたしも、長くないわよ』

 ふふふ、と彼女は強がり、ようやくこちらを向いた。フェリの唾液により、痛みはないのだ。まるで睡魔に襲われているかのように、まぶたが力を失い、彼女はそれと懸命に戦っていた。

『ルーシーが死んだら、エルは誰が育てるんだよ……?』

『そんなの、フェリに決まってるじゃない』

『僕が?』

 言われて、フェリは腕に抱いたエルを見下ろした。

 考えていなかった。ルーシーの血を吸ったあと、残された子供をどうするかなんて。十月十日も一緒にいて、まったく考えていなかった。

『考えてなかったの? あたしが死んだら、エルの血も吸うつもりだったの?』

『それは……』

 子供のことは、なるべく、考えないようにしていたのもあった。

 自分は、ルーシーとは、子供が産まれるまでの関係でしかない。産まれた子供のことは知らない。彼女のお腹にいる間だけ、エルはエルで、一度生まれてしまえばただの見知らぬ赤ん坊。

 そう、思っていた。

『血を吸う約束は、あたしのものだけだったのよ。エルの血まで吸ったら、あたし、許さないから』

『でも、僕は父親じゃない』

『名付け親よ』

 言われて、フェリは何も言えなくなった。

 ルーシーは、ちゃんと先のことまで考えていたのだ。自分がいなくなった後、誰がエルを守り、育てるのかを。そのために、フェリに名前を考えさせた。適当な名前であれ、それはフェリが名づけたことになるのだから。

『もう、こんなんだから、母乳は出ないけど……お金はたくさん残してあるから。他にも、いろいろ、用意してるから。ベッドの下に、あるの、エルのために使ってね』

『ルーシー……』

『あたしの子供だから、図太く生きるはずよ』

『ルーシー……』

 力がはいらす、宙でゆらめく手を、フェリは強く握り締めた。

『死なないでくれ』

『子育て、いや?』

『違う』

 こんな状況になってまで、軽口を言うなんて。彼女もそれはわかっているようで、ごめんね、と呟いた。

『もうだめよ。あたし、すごく眠いもの』

『それは唾液のせいだ』

『違う。自分のことは、自分が一番わかるわ』

 最後の力を振り絞り、彼女はフェリの頬に手を伸ばした。血塗れた指先が、フェリの頬に、赤い筋をつける。

『あたし、フェリに血を吸われて死ぬって決めてるの。フェリ以外の人に殺されるのは嫌なの』

『できないよ、僕にはできない』

『フェリが血を吸ってくれたら、あたしはフェリの命になるんでしょう? あたし、フェリの中で、一緒にエルを育てるから』

『ルーシー……』

『ごめんね。あたし、母親失格よね』

 彼女の涙の中に、かすかに、血が混じっている。その青い瞳は、次第に、瞳孔が開いていくようだった。

『あたしの、最後のわがままなの。お願いよ、フェリ……』

 浅くなってゆく呼吸の中、ルーシーの目はもう、何も見えなくなっているようだった。

 息ももう、浅くしか吸えていない。彼女がいつまで、話せるかもわからない。

『ルーシー――』

 フェリは、彼女の胸に唇を寄せた。

 首に傷をつける必要はなかった。これ以上、彼女の傷を増やしたくなかった。

 心の蔵に一番近い、胸の傷。そこからフェリは、血を吸った。

『ありがとう、フェリ……』

 ルーシーは、それ以上、何も言わなくなった。

 弱弱しいながらも、鼓動はまだある。手を乗せたところはまだあたたかい。

 あふれる血を、フェリはすすった。

 あれほど待ち焦がれていたはずなのに。甘美な味を求めていたのに。

 血は、何の味もしなかった。

 かぐわしいはずの香りも、ただ鼻をつく鉄のにおいでしかない。滑らかな舌触りもない。泥水を口にしているようで、まったく喉を通らない。

 けれど、フェリは飲み続けた。

 ルーシーが生きているうちに。この手で、すべての血を飲み干す。それが彼女との約束であり、彼女の望む最期だった。

 その約束だけは、なんとしてでも守らなければならない。

 血に濡れた彼女の胸に、ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。フェリの目から、透明な雫が落ちていた。

 これが涙なのだとフェリは知った。

 彼女の血を嚥下しようとするのに、呼吸がうまくできなくて、しゃくりあげてしまう。早く飲まなければ。気は急くのだけど、体がついてゆかず、おまけに声まで漏れてしまう。

 これが嗚咽なのだとフェリは知った。

 胸の痛みが、悲しみだと知った。

 涙が、彼女への愛おしさで流れるのだと知った。

『……フェ……リ……』

 最後の最後で、ルーシーは、フェリの頭に手を伸ばした。

 血にぬれた銀の髪を、二、三度指でなで、力を失い床に落ちた。その手はもう、動くことがなかった。

 最後の一口を、やっとの思いで飲み下す。そしてようやく、フェリは顔をあげた。

 膝も、腕も、顔も。ルーシーの流した血にまみれて、フェリは呆然と座り込んでいた。

 血だらけのルーシーを見ているのがたまらなくて、その美しい顔に飛び散った血をぬぐう。表情を隠す血糊がなくなり、いつもの見慣れた顔を見ることができた。さいわい、顔のどこにも傷はなかった。

 

 ルーシーは微笑んでいた。


『ルーシー……』

 涙を流すフェリの足に、なにかが触れた。

 それはエルの、小さな小さな手だった。

『エル……』

 フェリは、おそるおそる、エルを抱き上げた。

 まだへその緒も残っているのに。生まれるべき日ではないのに。それでもルーシーの残した命は、懸命に、生きようとしていた。目じりについた体液のようなもをのぬぐおうと指を伸ばすと、しかとつかみ、離さなかった。

 エルを抱えながらも、フェリには、これからどうしたらいいかさっぱりわからなかった。

 身体についた血を洗い流してあげなければ。では、このへその緒はどうしたらいいのか。ミルクはどうしたらいいのか。

 教えてくれる人は、誰もいない。

『僕にはできないよ……』

 それを聞いてくれる人ですらいない。

 うなだれるフェリの身体の中を、なにか熱いものがしみわたってゆく。口から、のどへ。のどから、胃へ、お腹へ。そして、胸の奥から、全身へと、熱い何かが染み渡ってゆく。

 それは、ルーシーの血だ。

 彼女の血の中に眠っていた、生きるための力だ。

 けれど、彼女はもういない。

 指先まで、爪の先まで行きわたる、彼女の残した命。彼女の生きるべきだった、命。

 エルを抱くはずだった、命。いつくしみ、愛すはずだった命が、今、フェリの身体を駆け巡り、吸収されようとしている。

 全身を爪でかきむしり、引き裂きたくなるのをこらえ、フェリは窓から、月を見上げた。

『――ぁぁぁああああああああっ!!』

 そして、狼のように、吠えた。

 腕の中で、エルが応えるかのように、力強い産声をあげ始めた。






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