表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/36

7、ロイヤル・ハイネス-6

 たぶん、もうそろそろだと、彼女はそう予言する。やはり、月の満ち欠けと出産の関係性は本当なのかもしれない。

『でも、いざ産まれるとしても、フェリは館にいるから気づかないよね……』

『呼んでくれれば、聞こえる』

『本当?』

『なるべく、聞こえるようにしとく』

 耳をそばだてていると、町の情報が大量に入り込んできて、音の洪水が強い頭痛を生むことになる。けれど、初産で心細いルーシーのためだと思えば、ほんの数日ぐらい我慢できるだろう。

『約束ね?』

『あぁ』

 うなずくフェリに、ルーシーの表情が崩れて、今にも泣き出しそうな顔になった。今まで見たことのないその表情に、フェリはたまらず彼女を抱きしめた。

 思えば、彼女をこうして抱きしめたのははじめてのことだった。ルーシーから触れられることは何度もあったけれど、フェリはいつもそれを拒むばかりだったからなおさらだ。

 フェリの腕の中で、ルーシーはすこし、驚いたように身体を硬くしていた。けれどフェリの腕の力が、自分を守り抱いていることを知り、すぐに身体を預けるようになった。

『あたしのしてることは、間違ってるのかな……?』

 彼女の呟きに、フェリはなにも言えない。ただただ抱きしめ、彼女が自分の中にすべて押し込んでしまおうとするのを、口ではなく態度で諭しているつもりだった。

 決して涙を流そうとしない彼女がたまらなく切なくて、フェリはいつもしてもらうように、両手で頬を包み込む。額に口付けると、その眦から一筋、涙がこぼれた。

『フェリ……』

 フェリ、フェリと仔犬のように呼んでいたはずの声が、今は、消えてしまいそうなほどに小さい。いつものルーシーが、彼女なりの強さだということに、フェリはいまさらながら気づいた。

「大丈夫だ、ルーシー」

 その細く、今にも壊れてしまいそうな身体を、フェリは強く強く、抱きしめ続けた。


        ●

 

 それは満月の夜のことだった。

 日没に起床し、しばらくベッドの中で時間をやりすごし、夜が更けるのを待った。そしてようやくベッドから出て、身なりを整え、髪の色がますます白くなったなと、ぼんやりと窓ガラスに自分を映していた。

 天高く上った月を見上げ、雲ひとつない美しい夜空にひとり満足していたとき。フェリは不意に胸騒ぎを感じて、窓を開けた。

 耳をすまして外の空気に意識を集中させるけど、もう誰もが眠りについた時間だ。町から、話し声はほとんど聞こえない。大きないびき。夜の営みの声。夜更かしして語り合う、少女たちの楽しげな声。

 その中で、ひとつ、不穏な気配を感じるものがあった。

『……ルーシー?』

 他の音にじゃまされて、よく聞き取れない。けれどそれは、ルーシーの声だと思われる。それが小さな声なので、誰と何を話しているかまではわからない。

 サマンサだろうか。けれど、こんな夜中に会いにくるわけもない。産気づいたのだとしたら、こうも穏やかだろうか。初産で、慌てているのではないだろうか。

 それに、この胸騒ぎは何だろう。

 そろそろ彼女のもとを訪れようとしていたフェリは、すぐさま窓から外へと身を投げ出した。裏口から出るのが億劫だった。

 はやる気持ちを抑え、町へと向かう。木々が立ち並ぶ一本道は、風にふかれて、ざわめきが波の音のようにこだましている。

 なぜだか、いつもの道がとても長く感じる。いつもなら颯爽と風を切って走り抜けられるはずなのに、今日は向かい風。身体に強く吹き付け、フェリが町に行くのを拒んでいるようにも思える。

 その風が、甲高い悲鳴を連れてきた。


 ――フェリ!


『! ルーシー!』

 たしかに聞こえた声に、フェリは力強く大地を蹴った。

 風に乗って町から流れてくる香り。

 この血のにおいは何だろう。

『ルーシー!』

 フェリの発する、魂を吐き出すような叫びに応じるかのように、風が変わった。

 背中を押す風に乗り、フェリは銀の髪をふりみだし、町へと駆け出していった。



 町に着くと、血のにおいはいっそう強くなった。

 丘の上に立つ教会の十字架が、月明かりを反射して輝いている。

 フェリは十字架を恐れない。

 今はむしろ、十字架に祈っていた。

 ルーシーが無事であるように。

 この血の臭いは、生命の誕生のものであるように。

 一本道を走り続けたおかげで、フェリは裏口への道ではなく、戸の閉められた表へとたどり着く。カーテンの閉めきられた窓から、光が漏れている。跳んで窓からはいろうとしたフェリの目の前で、ふいにカーテンがあき、窓が開いた。

 逆光で、あらわれた人の顔はわからない。けれど背の高さと短い髪で、男だとわかった。

 その男は、フェリに気づかず、窓からなにかを投げ捨てた。

 フェリはとっさに、それを受け取る。

 びちゃりと、手が濡れた。鉄のにおいが鼻をついた。受け取ったものが、血まみれになっていることを知った。

『ルーシー!』

 自分でも驚くほどの大声が出て、男がびくりと反応する。そしてすぐさま窓から身を翻し、裏口から逃げようとする足音が聞こえた。

『ルーシー!』

 男を追うよりも、まずはルーシーの身の安全のほうが問題だった。血にまみれた何かを、引き裂いたシャツの袖でくるみながら、フェリは地面を蹴り、窓から部屋へと乗り込んだ。

 窓枠にかけた手が、ぬるぬるしたもので滑る。床も同様で、フェリはよろめき膝を突いた。

 それが血だと気づき、フェリは部屋のさんさんたる有様に愕然とした。

 水たまりのように床に広がったもの。壁に飛び散ったもの。それはすべて、血だった。つい先ほど、男がいたはずの窓枠まで、足跡地を踏みつけた足跡とともに、鮮血が幾本もの筋を引いている。

 そして血だまりの中心に、彼女の姿があった。

『ルーシー!!』

『フェ……リ……?』

 駆け寄り、抱き上げた身体は、血だらけでぬめり、腕から滑り落ちそうになった。

 部屋に広がる血は、すべて、彼女のものだった。

『何があった!?』

 訊くのはいいけれど、彼女は答えられない。あまりの痛みに息もできないようで、口をパクパクと動かしあえいでいた。

 すがりつくように手を握られ、フェリは血に濡れた彼女の頬をぬぐう。そして身体をかがめ、深く口づけた。

 舌をねじ込み、唾液を流し込む。傷口が多く、深すぎて、塗りこむよりこちらのほうが早かった。

 思えば、初めてルーシーと交わしたキスだった。

 痛みに苦しみ、悶えていたルーシーも、唾液が効き始めると落ち着きを取り戻していた。そしてフェリの顔を見て、はじめに口にした言葉は、

『エルが……』

 だった。

『父親が来て、産ませないって、ナイフで……』

 思い出して、錯乱しそうになるのを、フェリが必死になだめる。興奮すればするほど、彼女から流れる血の量が多くなってしまう。胸に深くつきたてられたと見られる傷は、彼女が呼吸するたびに、穴から血があふれ、流れ出していた。

『エル……エルが……』

『大丈夫だ』

 フェリは血にまみれた何かを、彼女の前に差し出す。まとわりつく血をぬぐえば、それは小さな手を懸命に泳がせた。

 フェリが抱きとめたとき、何かは、かすかな産声を上げた。

 それはエルだった。

『生きてる。生きてるよ』

『エル……』

 手の力もはいらないルーシーに、フェリはエルをさしだす。シャツの袖にくるまれたその小さな身体は、女の子だった。

『エル……』

 わが子を目にして、ルーシーは涙を流した。けれどその息は、刻一刻と力を失ってゆく。これだけの傷を負ってなお、意識を保っていられることのほうが、フェリには不思議でならなかった。

 彼女はしばらく、エルを見つめていた。そして息を整え、目は娘を見つめたまま、言った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ