1、アバランチェ−2
不思議と顔は赤くならなかった。この胸の中で渦巻くもやもやはやきもちなのか。自分自身のことだというのに、妙に冷静な自分がそう呟く。
「そっか、やきもちか……」
へぇ、と、今度は彼が余韻を残す番だ。すこし緑色の残るバナナを、大きな口であっという間に食べ終える。エルがちらりと視線をやると、目が合い、ぱっと笑顔を咲かせた。
「――買い付けで、いいもん見つけたんだ」
「いいもの?」
なぁに、と訊くと、ジャスティンは立ち上がり、なにやら店の奥でごそごそ探し始める。まだすべて片付けていないらしく、色とりどりのチューリップが、店先に出ないままちょこんと水にさされている。軽やかに羽を伸ばす葉が、彼の動きに合わせてゆれていた。
「これこれ。ピーチ・アバランチェ」
さしだされた花を見て、エルは思わず歓声をあげた。
「すごい、綺麗……!」
「だろ。人気だから、なかなか手にはいらないんだ。本当はスイートにしたかったんだけど、品切れで、今日はピーチなんだけど」
人気があるから、市場に出てもすぐに売切れてしまうらしい。小さな花屋のジャスティンが買い付けられたのはほんの数輪だけで、けれどそれだけでも十分に見ごたえのある花だった。
ピーチ・アバランチェ。それは、数多くある薔薇の名前のひとつだった。
真っ白な花弁が砂糖菓子のようにいくつもいくつも重なって、重なり合うところは光の加減か、オレンジの色が強く出ている。大ぶりの花びらが大輪を咲かせるのも貫禄があるけれど、これはこれで繊細な美しさがあり、エルの口から自然とため息が漏れていた。
「すごい、綺麗だね……これ、売るのもったいない」
「エルにやるよ」
「え?」
あわてて薔薇から視線をあげれば、ジャスティンはそっぽを向いていて、背中を見せたまま手をひらひらとふっていた。
「それだけじゃ売り物にならないし、今回はエルにあげるつもりで買ってきたんだ。いつも店番とかしてもらってるから、そのお礼も兼ねて」
「……いいの?」
「いいのいいの。エルはいつも同じアバランチェしか買ってかないから、たまには違うのも部屋に飾ってみろよ」
ぶっきらぼうな口調に、エルは思わず笑みがこぼれる。自然と口から声が漏れ、不審に思ったジャスティンがようやく振り向いた。
「……なんだよ。おれ、なんか変なことしたか?」
「ううん、なんにも」
言いながらも、エルは笑いがとまらない。
ジャスティンがこの薔薇を探す姿をすると、どうしてもおかしいのだ。もともとかわいらしい花が似合わない彼が、女の子ばかりあつまる市場で、これを買っていたとしたら。
「どうもありがとう」
こらえきれずに、唇から笑いがこぼれ続ける。それにすこし肩をすくめて、ジャスティンも笑った。
「今度買い付け行ったら、もっと買ってくるから。店先にだしたらこれ、すぐ人気出るだろ?」
照れ隠しに、仕事の話を始める。ぼりぼりと頭をかいて、ジャスティンはエルの手から薔薇をとりあげた。
「そんなに強く握ってたら、傷むだろ。隣町まで帰るのに時間かかるんだから、やすませとけよ」
エルはまた、笑う。
そして心の中で、ジャスティンにごめんと呟いた。
○○○
エルが隣町の子だというのは、嘘だ。
本当は同じ町の東のはずれにある、古びた洋館に住んでいるとは、誰にも話していない。
名前は、エル・シンプソン。“仔犬の町”の東に位置する小さな町で、店の数も少ない町で、両親と一緒に細々と暮らしている。誰かに素性を聞かれたらそう答えるようにしている。
本当は、父も母もいない。赤ん坊の頃から、一人の男性に育てられていた。
その男性がかつて町に恐怖をもたらした吸血鬼であることは、エルだけの秘密だ。
ほんの十数年前まで、町の人々を襲い、命を奪い、恐怖におびえさせていたフェスタリオン・クルール・ニギという名の吸血鬼。バンパイア伯爵からもじって『フェリ伯爵』と呼ばれる彼が、姿を消してなお、いまだに存在するということは、決して人々に知られてはいけない。
自分が事実上、吸血鬼の娘として育ったことなど、口が裂けても言えなかった。
「……あれ、おはようフェリ。今日は早いんだね」
寝室で目を覚まし、水を飲みに居間にやってきたフェリは、エルの呼びかけにあくびでこたえた。
彼はいつも、光を通さない暗室で眠っている。眠る時間は太陽が昇っている時間だけど、エルがまだ小さい頃は一緒に昼間に活動していた。太陽にさえあたらなければ、吸血鬼も昼間に活動できるのだった。
今日はまだ日が沈んだばかりで、いくらか空が明るい。東の空からは星が瞬き始めているけど、いつもならまだ、彼は眠っているはずの時間だった。
「おはよう、エル」
まぶたをこすりながら、フェリは猫脚の椅子に腰をおろす。たしか今日、彼が眠りについたのは夜明け前。エルが起きてからだ。目覚めるのもいつもなら日が完全に沈みきった頃なので、今日は夜更かしの早起きといえた。
「シチュー作ってるけど、食べる?」
「あとで食べるよ。ありがとう」
彼は吸血鬼。けれど、普通の食事もとる。十字架も聖水もにんにくも平気で、鋭い牙もさほど目立たない、伝説で聞くような吸血鬼とはだいぶ違う存在だった。
もちろん彼は不老不死で、エルが物心つく頃からこの姿だった。女性のように優しげな面立ちに、常に微笑んでいる唇は桜色。真っ白な肌の艶は決して枯れることがない。ただその髪だけは年齢に忠実なようで、月光を浴びれば銀色に光る、真っ白な髪をしていた。
エルを見てにこりと細められる瞳は、やはり吸血鬼というべきか、夜闇の中を紅に妖しく光る。細身の体つきも、その面立ちも、ジャスティンよりも年下なのではと思うほど若かった。
麻のシャツとズボンを上品に着こなし、テーブルに頬杖をついて再びうたた寝しそうな彼が、町で噂される吸血鬼の像と結びつかない。エルは思わず、しげしげとその姿をながめてしまう。
「……なぁに?」
「あ、ううん」
眠っているかと思えば、起きている。どんなときでも決して気を抜かないのが、長く生きてきた間に身についた術なのだろうか。
「今日、町にいってきて、薔薇買ってきたの。いつも庭のばかりじゃ、飽きるでしょ?」
花瓶にいけたばかりの、ジャスティンの店から買った薔薇の花束。それをエルはテーブルに置いた。
いつもは普通に麻の紙にくるまれている薔薇だけど、今日は珍しく花束にしてくれた。花びらの大きな、大輪の白薔薇。名前はアバランチェといい、エルがいつも買う品種だった。薄暗くなった部屋でも白みが強く、重なる花びらはわずかにグリーンを帯びている。その白を引き立てるように添えられた花は、青や紫など透明感のあるものだった。
「今日は……豪華だね」
「でしょ」
目をまるくするフェリを見て、エルは笑う。いつも微笑んでいるのもいいけれど、たまにはこうやって表情を崩してもらわないと、彼の感情が読み取れなかった。
「それにこの薔薇……ピーチ・アバランチェだね。よく手にはいったね。都市ならともかく、こんな田舎じゃなかなか手にはいらないよ」
博識な彼は、薔薇を一目見て品種を当てられるらしい。なんだ知っていたのかと、エルは内心がっかりした。
ジャスティンが花束にしたのは、この薔薇があったからだろう。肝心なところでぶっきらぼうになるのが、彼の不器用なところだ。
別れ際に花束を渡したときの、あの鼻と唇をむずむずさせる照れ隠しの表情を思い出して、エルはこっそりと笑った。
「じゃあ……ひとついただこうかな」
フェリが、いつもの白い薔薇を一輪、花瓶から抜き取った。
みずみずしい花弁をした、白い薔薇。それに彼はそっと、唇を寄せる。まるで香りを楽しむようなしぐさをしただけで、薔薇は見る間に枯れてしまった。
茶色く変色した花びらは、形を保ちきれずに、はらはらと舞い落ちる。真っ白なテーブルの上に、枯れた花びらが降りそそぎ、彼の手にはまだみずみずしさをのこす、まるで自分が枯れたことに気づいていないような茎と額だけが残された。
フェリは決して、血を食さない。人間と同じ食事だけで、日々を生きている。
けれど彼は、本物の吸血鬼。普通の食事だけでは、生きるために必要なエネルギーを作り出すことができない。だからこそ吸血鬼は血を吸うはずなのだけど、フェリは決してそれをしないと決めている。