7、ロイヤル・ハイネス-4
一瞬、フェリの行いを咎めているのかと思った。けれど、話すルーシーはそんなそぶりひとつ見せない。彼女の話をどう受け取っていいのかわからず、フェリはただただ困惑していた。
けれど、たしかに、彼女の言いたいことはわかる。
同じ仲間であった人間の血を吸うということは、自分の仲間を食べているということ。つまり共食いであり、カニバリズムであるということ。けれど実際の吸血鬼たちが、自分をカニバリストと思ってるかどうかは、フェリにはわからない。
フェリは生まれながらに吸血鬼だった。
だから、人の血は、食料であった。
『僕には、血を吸うことは生きることだったから……』
『そうよね。血がないと死んでしまうわよね』
フェリにとって人間は、血を身体の中に蓄えた、血の樽だった。
『血は、やっぱり、生き血じゃないとだめなの?』
『死体の血じゃ、意味がない』
『そっか……』
フェリはふと、ルーシーの血の味がどんなものか、考えてみようとした。
けれど、舌の上には、何の味も浮かばなかった。フェリの膝の上で横たわる彼女の姿ですら、想像するのが難しかった。
『生きるために、血を吸うのよね。あたしたしだって、生きるために、牛や豚のお肉を食べているわ。だからこそ、いただきますって、言うんだけど……』
どこか遠くを見るように視線を投げながら、彼女は呟く。ルーシーの言った『人間らしくない』という言葉に、フェリはひとり、納得してしまっていた。
フェリにとって人間とは。
はたして何だろう。
食料でしかないのだろうか。
ルーシーも食料なのだろうか。
そのお腹に宿る命も。
自分もたしかに、人間であった両親の血を、引いているはずなのだけど……
●
『なんかすごい、今日元気いいよ』
『ルーシーが?』
『お腹の子がよ』
フェリ、けっこう天然? ルーシーが笑う。そして窓際にもたれるフェリに手招きをした。
『触ってみない?』
『いいよ』
『触ったことないでしょ?』
『いいってば』
拒むフェリに、ルーシーはもうと唇をとがらせる。そして立ち上がり、背を向けるフェリに腕をまわした。
『なにを……』
『いいから、じっとして』
背中に、彼女の胸よりも先に、お腹があたる。逃げようとするのをたしなめられ、じっとしていると、背中になにかが動くのを感じがした。
ルーシーの手は、フェリの手にまわされたまま。背中にぶつかるようなものは何もない。そうだとすれば、考え付くのは、彼女のお腹に宿る命だった。
『わかる?』
『うん』
『元気でしょ?』
『うん』
『これで、子供がいないなんて言わせないからね?』
『……うん』
お腹が目立ち始めたことで、約束が延長されたことも、暗黙の了解になっているのだと思っていた。けれどルーシーは、フェリが何も言わないことにすこしばかり不安を抱いていたのかもしれない。認めた後も、抱いた腕を離そうとしなかった。
『フェリに、お願いがあるの』
『なに?』
ルーシーのお願いは、これで何度目だろう。最初はうんざりしていたフェリも、麻痺し始めたのか、素直に聞くようになっていた。
『名前をつけてほしいの』
さすがに今回ばかりは、『だれの?』とは言えなかった。
『男の子か女の子か、わからないけど、名前をつけてほしいのよ』
なぜそんな大事な役を、フェリに頼むのか。サマンサに頼むべきではないだろうか。フェリはそう言おうと思ったけれど、背中に伝わる胎児のやわらかな動きとあたたかさに、言うことができなかった。
『お願い、フェリ』
肩に、ルーシーの頬が触れるのがわかる。やわらかくて、そしてあたたかい。フェリが触れる人間はみな、次第に冷たくなってゆくばかりだったのに、彼女の身体だけは、いつもあたたかく、肌は脈を刻んでいた。
『……ルーシーの名前は、どう書くんだ?』
『スペル?』
問われて、彼女は宙に文字をなぞった。
L・U・C・Y
指先が動くたびに、豊かになってゆく胸があたる。彼女の髪がくすぐったい。それを意識しないよう、心を穏やかに保ちながら、フェリは指先を見つめていた。
『……エル』
『エル? それだけ?』
『いいんだ、エルで』
単に、ルーシーの頭文字をとっただけだった。彼女もそれを察したようで、苦笑が首もとをくすぐる。
『どっちが産まれても大丈夫な名前ね』
けれど、考え直せとは言わずに、それを受け取ってくれた。やたら背中にあたる感触がにぎやかになったのは、抗議なのか、喜びなのか、よくわからない。
『エルだって。よかったねー、名前決まったよ』
ルーシーのその呼びかけはもちろん、愛しい我が子のためのもの。
背中に伝わる胎動に耐えられなくなって、フェリは彼女の腕から逃げ、窓枠へと飛び乗った。
『帰るよ』
『もう?』
そのまま飛び降りようとするフェリを、ルーシーはあわててひきとめる。窓にぶら下がり振り向いたフェリの頬を包み込み、彼女は額に唇を寄せた。
ルーシーのおまじない。それはフェリがどんなに拒んでも、毎日されていることだ。ただしフェリからは、一度もしたことがなかった。
『おやすみ、フェリ』
『おやすみ』
おまじないのあとに声をかけられても、照れくさくてぶっきらぼうな返事しかできなくなってしまう。そんなフェリにルーシーはにやりと笑って再び口付けようとするので、あわててふりほどくのもいつものことだった。
道に誰もいないことを確認して、フェリは窓から下りる。二階だということも関係なく、猫のように身体をくねらせ、音もなく着地する。
ルーシーは、フェリの姿が見えなくなるまで、ずっと窓を開け、見守り続ける。だからフェリは足早に、商店街を去った。
そして持ち前の目で、彼女の部屋の灯りが消えたのを確認する。ルーシーが部屋の明かりを消し、ベッドに戻るまでの時間をしばらくそこで過ごし、ようやく館への帰路をたどるのだった。
●
『こんばんは、ルーシー』
いつもどおり花屋を訪れると、返ってくるはずの声がなかった。
『……ルーシー?』
彼女はフェリの椅子に腰掛けたまま、眠ってしまっていた。
今日はフェリが来るのも遅かった。待ちくたびれて、睡魔に負けてしまったのだろう。器用に背もたれを枕に寝る身体を、フェリは起こさないよう注意しながら抱き上げる。
人ひとりはいっているからだろうか。重い。出会ったころは細かった頬も、今はすこしふっくらとしている。お腹もすっかりまんまるになって、ゆったりとしたワンピースの上からでも十分確認できるほどに育っていた。
日に日に母へと近づいてゆく身体をベッドに寝かせ、風邪をひかないように布団をかける。ルーシーはなにか寝言を呟いているけど、起きる気配はまったくなかった。
自らもベッドの脇に腰かけ、フェリはルーシーの寝顔を見つめる。いつもは絶え間なく表情を変えているけれど、眠っているときはさすがに怒ったり笑ったりはしない。血色のいい頬と長いまつげが印象的で、一度見るとなかなか目を離せない寝顔だった。
フェリが目にすることの多い人間の表情は、これだ。深い眠りに落ちているときの、無防備で安心しきった表情。至福のひと時を味わう、その幸せそうな寝顔は、どんな人間も総じて綺麗だと思える表情だった。
フェリはその至福のときを、永遠なものへと変えさせている。
『ルーシー……?』
呼びかけて、フェリは返事がないことを確認する。そして布団を肩まで下げて、長い髪を指で梳きながら、白い首筋をあらわにさせた。