7、ロイヤル・ハイネス-2
『お願い。子供まで殺さないでほしいの』
それは命乞いだった。
けれど、フェリが今までに見たことがない、命乞いだった。
自分の命はいくらでも差し出すから、子供だけは助けてほしい。言っていることはそうだ。けれどルーシーは、泣き叫ぶでも頭を下げるでもなく、その姿は半ば、刑の宣告のようでもあった。
『お願い』
思わずはいと言ってしまいそうになるぐらいの迫力がある。これが母親になる女性の強さなのだろうか。フェリは圧倒されてしまっていた。
彼女の目力がとても強い。澄んだ水底のような深い青は、低く燃え盛る炎のようにも見える。
『……わかった』
フェリは、そう言わざるを得なかった。
『ただし、どんなに待っても腹が出てこなかったら、僕も動かせてもらうから』
『わかったわ』
『逃げないように、毎日来る』
『毎日?』
ルーシーが、きょとんと目を丸くする。そして、先ほどの威圧も忘れてしまうほど、華やかに笑った。
『それは、にぎやかになるわね』
表情によって、与えられる印象がずいぶん変わる。顔を惜しげもなくくしゃくしゃにする、決して美しいとはいえないけれど、好感のもてる笑顔だった。
『いいわ。あたしは決して逃げない。逃げようとしたらすぐに血でも何でも好きにしていいわ。ただ、子供の命までは奪わないと約束して』
『わかった』
彼女が約束の証として求めたのは、意外にも指きりだった。
『やぶったら、この指切り落とすから』
『……わかった』
その細い指は、からめるととてもあたたかかった。そしてルーシーは、話を終えると立ち上がり、『じゃああたし、寝るから』と宣言した。
『考え事して眠れなかったのに、フェリと話してたら眠くなっちゃった。お腹の子のためにも、身体をいたわることにするわ』
恐れも何も見せずに、彼女はフェリの頬を両手で包み込む。フェリが驚いて離れようとする前に、ルーシーは額に口づけてきた。
『これ、あたしの両親がいつもやってくれてたことなの。いい夢をみられますようにっていう、おまじない』
『おまじない……』
『フェリが毎日来てくれるなら、あたしもこれ、毎日やってあげるからね』
フェリの断りの声も聞かずに、彼女ははやばやとベッドにもぐりこんでしまう。
『おやすみ、フェリ』
『……おやすみ、ルーシー』
こうしてフェリは、彼女に流されるまま、十月十日を待つ約束をしてしまったのだった。
●
『……腹はまだ大きくならないな』
『そんなちょっとやそっとで、目に見えてわかるわけないじゃない』
訪れるなりじろじろと腹部を観察するフェリに、ルーシーは大仰に顔をしかめてみせた。
『窓から入ってくるの、やめない? せっかく裏口のかぎあけといたのに』
『窓から入ったほうが早いじゃないか』
『次からちゃんと、ドアから入ってきて。ノックもしてね。あと、せめて、こんばんはって挨拶ぐらいはしない?』
『……こんばんは、ルーシー』
むすっとした表情で言ったフェリに、ルーシーはくすりと笑った。
『こんばんは、フェリ』
どうも、彼女といるといつもの調子が出ない。人とまともに言葉を交わすのが久しぶりなのもあるからだろうか。
通うのはいいけれど、フェリは家にいてもすることがなかった。けれどそのまま帰るのもつまらない。部屋を見回したフェリは、ふと、窓際に椅子がひとつ増えていることに気づいた。
『あ、それ、フェリの椅子ね』
『わざわざ、買ったのか?』
『まさか。物置から持ってきただけ』
どうやら昔、家族が使っていたものらしい。彼女の厚意をありがたく受け取ることにして、フェリはその椅子に腰掛けた。
座るとちょうど、使い古したソファーに座るルーシーと向き合う形になる。それにどう反応していいか困っていると、彼女はまた笑った。どうやらからかっているらしい。
『子供が産まれるまでは長いんだから、壁はってないで、仲良くしようよ』
ネグリジェの上にカーディガンを羽織って、彼女はキッチンへと足を運ぶ。寝室のドアを開け放って居間と一緒にしているのを見るととても不思議だったけれど、彼女に言わせれば『一人で暮らすならこれぐらいのほうが楽なのよ』とのことだった。
『夜ご飯、食べた? あ、フェリなら朝ごはんかな?』
『食べてない。というか、食べない』
『どうして?』
『人の食事は、あまり意味がないから……』
たしかに、空腹を満たすにはちょうどいい。けれど栄養としては不十分であり、命を延ばすにはまったくもって意味をなさなかった。
『だからそんな細っこい身体してるのよ。シチューあるから食べなさい』
『いや……』
『というか、作りすぎたから、食べて』
皿いっぱいに盛られたシチューに、フェリは思わず目を丸くする。作りすぎたというよりも、あらかじめ誰か来るのを考えて作っていた気がしてならない。
しぶしぶテーブルに移動してスプーンを握ると、ルーシーがほっと安堵の息をついた。それをフェリは見逃さなかった。
『吸血鬼って、やっぱり血しか栄養にならないの?』
『いや、そういうわけでも……』
言いかけて、フェリは舌をやけどしそうになる。あちちと呟くと、ルーシーは水をくれた。まるで自分が子供に戻ったようだった。
『血はいつでも手にはいるわけじゃないから、代用もいくつかあるんだ』
『ワインとか?』
『よく知ってるな。あと、薔薇もいいんだ』
『……薔薇?』
ルーシーが、テーブルに乗った、薔薇の入った花瓶を指差す。
『これ、食べれるの?』
『食べれるというか、生気をもらうというか』
あまりにも彼女が不思議そうに言うので、フェリは薔薇を一輪取り、唇を寄せた。そっと息を吸えば、薔薇は枯れ、花弁は自らを支えられずに舞い落ちてゆく。
一瞬のことに、ルーシーは目をしばたかせるだけだった。
『すごいわ……』
『血とは違うけどな』
これまでの訪問で、彼女に吸血鬼についていろいろ質問されていた。ルーシーは読書家で、吸血鬼の出る本もいくつか知っているようで、創作と事実の違いを知りたがったのだ。
『じゃあ、これからは、薔薇も用意しとくわね。店のも庭のもたくさんあるから、薔薇には困らないわよ』
どうやら当面、食事に関して困ることはなさそうだ。彼女はフェリが、狙った人物の血を吸うまで、他の人間には手をかけないことまで知っていたのだ。
『薔薇もいろいろ種類あるけど、やっぱり血みたいに真っ赤な色のほうがいい?』
『僕は白薔薇のほうが好きなんだ。赤薔薇は味が濃いから』
『品種によっても味が違うの?』
ふぅんと、ルーシーはおもむろに薔薇を手に取り、かじってみる。けれどすぐに顔をしかめてしまった。
『人は……おいしいと思わないと思うけど』
『うん、おいしくないや』
舌の上にはりついた花びらをはがし、彼女は口をゆすぐ。かじりかけの薔薇も、フェリが片付けた。
『……この薔薇、変わった味がする』
『やっぱり?』
花瓶にいけられた薔薇を、フェリは手に取る。それは花束として作られていたようで、添え色のカスミソウなども混じっていた。
薔薇を主にまとめられているようで、赤い薔薇のほかに、オレンジがかった白薔薇もはいっている。そのバラを口にするのはフェリも初めてで、普通の白薔薇とは違う、果実のような甘い香りが特徴的だった。
『それ、ピーチ・アバランチェっていうの』
『店で仕入れたのか?』
『ううん、他の町に出かけた人が、あたしにプレゼントしてくれたの。近場じゃあまり手にはいらないものだからって』
その薔薇を見る瞳の色が、甘く変わったのに、フェリはすぐ気づいた。うっすらと色づいた頬。愛おしそうに花弁を撫でる指。なるほどな、と思ったフェリは、あえて何も言わずに次の薔薇を手に取った。
人からもらった薔薇を食べられることに、ルーシーは嫌そうな顔ひとつしなかった。むしろ、もっとあるよと言うあたり、フェリのほうが気を使ってしまいそうになる。
『好きな銘柄とか、あったらそろえるけど?』