6、ブルームーン-3
なぜフェリは、殺したルーシーの腹から、エルを引きずり出すなんていうむごいことをしたのか。
そしてなぜエルを育てているのか。
血を吸わないという彼の言葉から考えれば、エルの血を目的にしているわけでもない。そもそも彼はなぜ血を吸わなくなったのか。なぜ町から存在を消したのか。
ルーシーとフェリの間に何があったのか。
「エルの父親は、フェリなのか……?」
「育ての親はそうだけど、血までは、わからない。つながってないとは、昔言われたけどね」
すべてを訊く前に、フェリはエルの前から消えてしまった。
ジャスティンの疑問に、エルは答えることができない。なぜならそれをエルも知らないからだ。
自分が人間であることは知っていた。
知っているのはそれだけだった。
「ジャスティン、何か言って」
エルは、再び背中を向け、黙りこくってしまうジャスティンに、そっと声をかけた。
「あたしのこと、嫌いになったなら、言って」
彼の返事はない。それでも、エルは続けた。
「出て行けって言ったら出て行くから。顔も見たくないって言われたら、もう二度とこの町には来ないから」
それは、前々から覚悟していたことだった。
自分は普通の女の子ではいられないから。隠し事が多すぎるから。それを彼が知ったとき、拒まれたときのことを、ずっと考えていた。
拒まれるのが恐ろしくて、今まで黙っていたのもあった。
「なんでもいいから、何か言って」
エルは消え入りそうな声で、もう一度、言った。
けれど、ジャスティンは、黙ったままだった。
彼はふいに立ち上がり、エルの前に立った。その高い背は部屋の明かりを背負って黒く陰になり、表情がよくわからない。力なく垂れ下がっていた腕が動いたのを見て、エルはつかみかかられ、殴られることを呆然と考えていた。
しかしジャスティンはその手をエルに向けるでもなく、しばし宙を泳がせていた。そしてその手は彼の顔へと動き、その短い髪を乱暴にかきむしることに落ち着いた。
「……だめだ」
「ジャスティン?」
膝を床につき、彼はソファーに座るエルを見上げる。そしてカップを取り上げ床に置き、そのまま脈をたしかめるように、強く手首を握った。
「いざ、自分の身にそれが迫ってきたと思うと、やっぱりおれ、綺麗ごとは言えない」
綺麗ごと。
彼のその言葉に、エルはかすかに息を呑んだ。
「おれ、あの人がフェリ伯爵だって気づいたとき、真っ先に頭に浮かんだのは、嫌悪みたいなものだったんだ」
エルの手を、色が変わるほどに握りしめて言う姿は、まるで懺悔のようだ。彼はなにも罪を犯したわけでもない。けれどエルには、その懺悔をとめることができなかった。
「町のみんなから、たくさん悪い話を聞いたからかもしれない。だからもう、フェリ伯爵は悪いやつだって思ってるのかもしれない。でも、おれ、受け入れられないんだ」
ごめん。彼は息継ぎの途中、そう呟いた。
「たしかに、吸血鬼は、生きるために血が必要なのかもしれない。でも、血だけなら、殺さなくてもいいんじゃないかって思うんだ。人を殺してしまうのは、おれたち人間がまるで、牛とか豚みたいに、食べ物だとしか見られてないみたいで……」
たしかに自分たちは、牛や豚や鳥や魚を、殺して、食べている。今まで食べられる立場になったことはなかった。牛や豚から見れば、自分たちは吸血鬼と同じなのかもしれない。
けれど。
「考えてみたんだ。もし、今、町の人たちが襲われていたらって。花を買いに来てくれたお客さんが襲われたらって。もしサマンサさんが襲われたらって。そうしたらおれ、絶対、フェリ伯爵のこと許せない」
祈りをささげるように組んだ手に、彼は唇を寄せた。
「今までは、いなくなったと思っていたから、他人事だったんだ。どうせ自分の身には関係ないと思ってた。でも、いざ自分がその中にはいったら……だめだった」
しんと静まり返った部屋の中で、聞こえるのはジャスティンの声と、エルの吐息だけ。
彼は目を伏せて、自分の中で、頭を渦巻く言葉を手繰り寄せているようだ。綺麗ごとならいくらでも言えるし、嘘偽りだっていくらでもならべられるはずなのに。自分に対して、正直な気持ちを述べる彼に、エルはなぜか愛しさがこみ上げていた。
「でも、おれが知ってるのは、エルを育てる前の伯爵なんだと思う。だからきっと、今の伯爵は、昔の伯爵とは違うのかもしれない。そう考えてみるけど……でも、過去に人を襲っていたことは消せないよ」
なぜ自分は、この愛しい人にまで、こんな辛い表情をさせなければいけないのだろう。感情が交錯して、エルは自分が泣きたいのか、彼を抱きしめたいのか、よくわからなくなっていた。
「エルに出てけなんて言わない。この話を聞いて、エルのことが嫌いになったりもしない。でも、エルがあの館に戻ることだけは、どうしても、嫌なんだ」
「……どうして?」
ようやく口を出た言葉は、乾いてかすれて、自分でもうまく聞き取れない。ジャスティンはそれが聞こえたのか、聞こえなかったのか、目を伏せたまま言葉を続けた。
「おれ、すごく、独占欲が強いんだ。欲しいものは何でも欲しいし、好きな人にはそばにいてほしい。だから、エルを、家に帰したくない。自分の中でまだ整理のつかない吸血鬼のそばに、いてほしいと思えない。帰ってほしくない」
そして彼はふいに、立ち上がった。組みほどいた手を、迷わずエルの身体にまわす。力強く抱きしめられ、エルは身体がソファーから浮き上がった。
「一緒に暮らそう、エル。一緒にこの町に住もう。花屋で、じゅうぶん食べていけるから。困らせたりしないから。だから、一緒に暮らそう」
「ジャスティン……」
愛しい人の腕の中にいるというのに、エルの頭は、妙に醒めてしまっていた。
今は、彼の腕の中にいる喜びよりも、町の外れの館のことが気になっていた。
あの館に戻れない。
館に住む、フェリに会えない。
フェリの傷は大丈夫だろうか。太陽の腐蝕に対する治療法はないのだろうか。あのまま放っておいたら、彼の身体はどんどん侵食されてゆくに違いない。
腕を切り落としてしまうのだろうか。
顔の腐蝕はどうするのか。
そればかりが気になって仕方がない。
「エル……」
呼びかけるジャスティンの声も、考えの渦巻く頭の中では、響かずに消えてゆくだけだった。
○○○
ジャスティンの寝息が、深く、規則正しくなったのを確認して、エルは目を開いた。
自分を抱きしめる彼の腕から、そっと、抜け出す。途中聞こえた寝言に一瞬どきりとしたけれど、彼は起きなかった。
はだけた布団を肩までかけなおし、エルはソファーにかけていた服を手早く着込んだ。部屋のカーテンを細くあけ、満月の位置を確認し、夜明けまでまだ時間があることを知った。
エルはもう一度、ジャスティンの寝顔を見る。彼はきっと、このまま朝まで起きないだろう。
「ごめんね……」
呟き、エルはその額に口づけをした。
朝、目覚めたとき、腕の中にエルがいなかったら。ジャスティンは驚き、そして悲しむに違いない。その様子がありありと頭に浮かぶのだけど、エルはもう、決めてしまっていた。
フェリの元に帰ろう。
草木も眠る丑三つ時、という表現がまさしく当てはまるほどに、外の世界はしんと静まり返っていた。
かたく閉ざされた門扉はいつのまにか針金を巻かれ、簡単には開かないようにされていた。それでエルは、フェリが館に戻っていることを確信する。
ワンピースのすそをたくしあげ、脚がむき出しになるのも気にせず、エルは門扉をよじ登る。降りるときにすそが破れたけれど、気にせず、足早に庭を突っ切った。
庭の薔薇はすべて枯れていた。エルは薔薇を持ってこなかったことを後悔する。気ばかりが空回りして、そこまで思いつかなかったのだ。
門扉を閉ざされたわりに、裏口の鍵は施錠もなく、やすやすと中にはいることができた。階段に何か仕掛けがあるわけでもなく、いつもの部屋まで行くのに、そう時間はかからなかった。