6、ブルームーン-2
「フェリ……」
サマンサの話や、ジャスティンとの会話で、フェリが彼女の命を奪ったのは知っていた。
けれどエルは、心のどこかで、フェリが否定するのを待っていたのかもしれない。
彼の口から出た真実の言葉に、エルは頭が処理を拒み、呆然と彼の傷口を見上げていた。
「自分の親を殺した悪魔と、もうこれ以上一緒にいないほうがいい」
「悪魔だなんて、フェリは……」
「エルは人間なんだ。光の下で、人として、生きるべきなんだよ」
そして彼は、エルから離れ、門扉のほうへと目をやった。
エルもつられて、門を見る。雲が晴れ、明るくなった視界では、門の前に立ち尽くす彼の姿がはっきりわかった。
「――ジャスティン!」
見慣れた長身。短い髪。広い肩幅、大きな足。いるはずのない彼が、肩で息をしながら、そこに立っていた。
エルがそちらに気をとられているうちに、フェリがローブを翻し、その場を去ろうとする。ジャスティンがそれに気づいて追おうとするときにはもう遅く、フェリは館とは逆の、山の木々へと姿を消してしまった。
「ジャスティン、どうして……」
「エルがちゃんと帰れるか、心配で、後をついてきたんだ。そうしたら姿を見失って、この廃屋にいるのに気づいて、そうしたら誰かいて……」
事情を説明するのも億劫な様子で、ジャスティンはエルの身体に傷がないかを細かく調べてゆく。目のいい彼のことだから、光のない闇の中でも、エルが誰と話しているのか気づいたに違いなかった。
彼が町で聞いていた、吸血鬼の容貌は、確実にフェリと一致する。銀の髪、赤い瞳、口もとの牙、若い青年の姿。太陽の腐蝕に関してはわからないだろうけど、銀の髪をした若い青年といえば、吸血鬼だとすぐに気づくものだ。
「襲われたのか?」
「襲われてなんて……」
「帰ろう、エル。ここにいたら危ない」
立ち尽くすエルが、恐怖ですくんで動けないとでも思ったのだろうか。ジャスティンはエルを抱きかかえようとする。
身体に伸びてきた手を振り払い、エルは千切れんばかりに首を振った。
「違うの!」
「今のうちに町に帰ろう。おれのとこ泊まるの嫌なら、隣町まで送るから」
「違うの!」
エルがどんなに言っても、ジャスティンは聞こうとしない。彼もまた、いるはずのない吸血鬼を見て、気が動転しているようだった。
「なんでエルも、吸血鬼が住んでるって言われてるのに、廃屋なんかに寄ったりしたんだ」
「違うの、ジャスティン。あたしの家はここなのよ!」
もう、隠せない。エルはジャスティンを見上げた。
「あたし、ずっとここに住んでたの! フェリと一緒にいたの! フェリに今まで、育ててもらってたのよ……!」
最後の声は、半ば悲鳴のようだった。
なぜフェリは、自分を置いて去ってしまったのか。そればかりが頭を渦巻いている。あれではジャスティンに、まるで自分が襲われていたように誤解されてしまうではないか。
でもフェリは、いつもそうだった。自分は吸血鬼だから。悪者だから。決して一緒にいるところを見られてはいけない。育てられたことを知られてはならない。常々そう、口にしていた。だからエルと一緒にいるところを見られたら、自分が悪者として振舞うのは当然といえば当然だった。
けれど。
「フェリは、あたしを襲ったりしないわ……」
彼は血を吸わない吸血鬼だった。薔薇とワインを好む吸血鬼だった。綺麗なものが好きな吸血鬼だった。
吸血鬼だけど、エルの育ての親だった。
「黙っててごめんなさい」
「エル……」
涙をこらえきれず、両手で顔を覆ってしまったエルを見て、ジャスティンは戸惑っているようだった。
彼が戸惑うのは当然だった。今までエルは、自分がすべてを理解していないからと、彼には重要なことはほとんど隠していたのだ。ジャスティンはエルがルーシー・ヘルネスの娘であることはおろか、ルーシーが妊娠していたことですら知っていない。情報に欠けた鎖の輪が多すぎて、エルがフェリに育てられる理由を理解できないのだ。
エルだって元はそうだった。自分はどうして吸血鬼であるフェリに育てられているのか、謎でしかたなかった。だから町に出て、すこしずつ情報を集めていたのだけれど。
今、切実に、知らなければ良かったと思っている自分がいる。
考えればわかったことかもしれない。自分が被害者に関係していなければ、フェリが自分の前にあらわれることなんてなかったはずだ。
エルはどこか、自分は何も関係ないと思っていた。書庫で読みふけった本のように、自分のことを、謎の多いフェリの周辺を探る、探偵かなにかのようなものだと勘違いしていた。
「エル。帰ろう」
思考の糸がごちゃごちゃにからまった頭の中を、ジャスティンの低い声が分け入ってくる。顔を覆ったままのエルを抱きしめる力は、いつになく強いものだった。
「おれ。なにもわからないけど、何も知らないけど、エルをここに一人おいていけない。フェリ伯爵と一緒にいさせたいとも思えない。一緒に、町に帰ろう」
「でも、あたし……」
「落ち着いたら、話してほしい。全部言えなくてもいいけど、おれは、フェリ伯爵は悪者だと思ってたんだ。その悪者がどうして今まで、エルを育てていたのか、全然わからない」
エルのことを知りたい。彼のその真摯な言葉に、エルはしばらく、胸を借りて泣いていた。
そしてようやく涙が止まったころ、ジャスティンはエルの手を引いて、町へと歩き出した。
○○○
家に戻ったジャスティンは、ソファーに沈み込んだエルが落ち着くようにと、ミルクを温めてくれた。
それがいつものフェリのようで、エルはまた泣きそうになる。けれど帰り道でいくぶん頭が落ち着いていたので、まぶたを二、三度ぬぐえば、甘いミルクをゆっくりと味わうことができた。
ジャスティンはジャスティンで、急かすわけでもなく、テーブルで店の伝票などを整理している。事態を把握しきれず、不安でいっぱいであるはずなのに、無言の背中はそんな様子は微塵たりとも見せなかった。
彼が一番、混乱しているに違いないのに。町で口うるさく言われ続けていたフェリ伯爵がまだこの町に潜んでおり、この目で見て、襲われていたと思っていたエルは彼が手塩にかけて育てた子供だというのだ。
その子供は今まで一緒にいて、夜をともに過ごした中だというのに、その一切を口にしていなかった。不安にさせて悪いのはエルのほうなのに、彼のほうが、エルを傷つけたといわんばかりな態度をとっている。
「……ごめんね、ジャスティン」
「なにが?」
「今まで、ずっと、黙ってて」
「すごい驚いた」
「ごめんね」
ひとつ深呼吸をして、エルはようやく、心を決めた。
「あたしね、赤ん坊のころからずっと、フェリに育ててもらってきたの」
自分が知っていることを、すべて、ジャスティンに話すことを決めた。
フェリが自分の育ての父であること。
エルが自分の素性を知らないこと。
フェリは血を吸わない吸血鬼であること。
彼の食す薔薇を買いに町に来ていたこと。
フェリに言われて、自分のことを偽っていたこと。
彼には一度も血を吸われたことがないこと。
他にもまだ、たくさんある。それを一言一言かみ締めるように話している間、ジャスティンは一切口を開かず、ただ黙って背中で聞いていた。
「あと、あたし、ルーシーさんのことでも、ジャスティンに黙ってたことがあるの」
「……こっちでも?」
「ルーシーさん、妊娠してたんだって」
傷だらけの遺体。おびただしいほど床に流された血。そして、ぽっかりと穴の開いた彼女の腹部。
エルのもたらした新しい情報に、ジャスティンはようやく、こちらを振り向いた。
「まさか……」
「さっき、フェリに言われたの。あたしは、ルーシー・ヘルネスの子供なんだって」
ジャスティンが顔をしかめるのも無理はなかった。
彼は今、エルと同じ考えに行き着いているに違いない。