5、マーガレット-5
エルがこのことを知るのも時間の問題だったのだ。
彼女は町に出るようになると、そこでフェリ伯爵についての話を耳にするようになった。ただそれを、フェリに直接口にしたのはただ一度きりのことだった。
フェリに言わなくなったとしても、情報を集めることはいくらでもできたはずだ。自分を育ててきた人物が、過去にいかなる所業を繰り返してきたかを、知ることはとても簡単だった。
けれど、ルーシーのことだけは、知らないままでいてほしかった。
もはやふたりの会話も耳から流れ出して、フェリはひとり、フードの中に顔を隠す。震える息をどうにか押し込めて、閉ざしたままのまぶたで天を仰いだ。
――ルーシー。
エルがその名を呼ぶたびに、胸が締め付けられる。息ができなくなる。気道を確保するためにのどをのけぞらせて、どうにか呼吸を保ち続けた。
エルが帰ってこないのは、その話を知ったからだろうか。たしかに、あまりにも惨たらしいことをしたフェリを知ったのだ。そんな者のもとに、帰ろうなんて思うわけがない。
はじめてエルをこの手に抱きあげたときのことを、フェリは昨日のことのように覚えている。すがるようにフェリの指を握った、今にも消えてしまいそうな弱弱しい命。その彼女は今、フェリに対して、強い拒絶の心を抱いているに違いない。
「……帰ろう」
吐き出すように呟き、フェリは店の屋根から一歩、外へと出た。
「――晩飯、食ってかない?」
ふいにジャスティンの声が近づいて、フェリははっと顔をあげた。
気づけば、ふたりは立ち上がり、店の外へ出ようとしていた。飾られた花の隙間から、エルの横顔が見える。ジャスティンは背が高く、エルから視線を離せば、すぐにフェリに気づいてしまうだろう。
あわてて、フェリは屋根の中に戻る。いつの間にか、本を読んでいた男性の姿は消えていた。
品物を見定めるふりをして、フェリは横目でふたりを見る。エルの着ているワンピースは、なんて懐かしいものだろう。腰にまわされたジャスティンの手。それを払いはするけれど、エルも嫌そうではない。
話す二人の関係が親密であることは、一目でわかった。最近エルが上の空だった原因は、きっとこの花屋の主人のせいに違いない。
唇を重ねるエルとジャスティン。すぐに顔を話した二人は、目が合うとてれくさそうに笑う。そのエルの横顔に、フェリの鼓動が、さらに強く鳴った。
その黒い髪も、瞳も、決して似ているわけではないのに。頬の色も、唇も、彼女のものではないはずなのに。
どうしてその表情が、彼女を彷彿とさせるのだろう。
どうして彼女と同じように、頬を赤らめてうつむくのだろう。
どうして見上げる瞳は、そんなにも愛おしそうなのだろう。
フェリは目を背けて、深くうつむいた。
エルはもう、自分の元には戻ってこない。
そのほうがいいに違いない。
この町は、彼女を受け入れてくれる。好い人もいる。フェリと離れて、この町で暮らすほうがいい。不老不死の自分とは、いずれ別れが訪れるのだから。
この町で彼女が生きたように。この町で彼女が死んだように。
彼女の暮らしたあの家に、命と引き換えに産まれた子供が戻るのならば、彼女もきっと喜ぶに違いない。
「……ルーシー」
呟いたフェリの身体に、どん、と誰かがぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
五感が鋭いはずの吸血鬼が、近づいた人にも気づかないなんて。内心苦笑したフェリは、あやまってくる女性に大丈夫だと手の平を見せた。
「お客様、なにかお探しですか?」
どうやら、男性が家に戻ったかわりに、女性が出てきたらしい。フェリにとってなじみの深い、サマンサという名の女性は、久しぶりに会うとさすがに肌の艶を失っていた。
けれどその凛としたまなざしはあいかわらずだ。こころなしかまぶたが腫れているようだけど、短く切った髪が目に鮮やかだ。空を映したような淡い色の瞳は、フェリを見て、まるく見開かれている。
「あなた……」
驚くサマンサの表情で、フェリはようやく、自分の頭を隠すフードがずれていたことに気づいた。
目の端に、銀の髪がうつる。そしてそれは、彼女にも見えている。フードを失い、さえぎるもののなくなった、フェリの赤い瞳を真正面からとらえている。
銀の髪と赤い瞳は、語り継がれるフェリ伯爵の容貌。彼女が一声あげれば、自分がまだこの町にいることが知られてしまう。
手を伸ばそうとする彼女を振り切って、フェリは店から飛び出した。
「――――!」
そして、顔に鋭い痛みを感じた。
見上げれば、雲の広がっていたはずの空に、切れ間ができていた。そこからさしこむ日の光の下に、今、自分がいる。
肉の焦げるにおいがたちこめる。とっさに顔をかばおうとした腕も、光を浴びて皮膚が溶け出してゆく。
まともに太陽をとらえた右の瞳は、一瞬にして光を失った。
髪が焦げる。肌が溶ける。そしてむき出しになった肉が、腐り、強い異臭を放ちだす。
「――あああああああっ!」
フェリの叫びまでもを、太陽の光が、かきけしていった。