5、マーガレット-4
腰に手をまわされ、エルはそれをぺちりと叩く。顔を見上げた拍子に唇を重ねられ、驚き半分喜び半分で、その額をまた平手で叩いた。
ジャスティンが、エルのポケットに手を入れ、髪飾りを取り出す。もったいなくてつけられずにいるエルを知っていて、自分の手でつけたがった。
心なしか、外の空気がざわついているような気がする。けれどエルは、髪飾りを見て微笑むジャスティンに気をとられて、気づくことができなかった。
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エルの外泊が多くなると、館が静かになることも多くなった。
たとえ眠っていようとも、その寝息が、館に人がいることを示してくれる。けれどエルがいないと、館にはフェリ一人しかいなく、物音を立てても虚空に反響するだけだった。
寂しい、と思ってしまう自分が、なんだか情けなく思える。エルを育てる前は、ずっと、この館に一人でいたはずなのに。
エルが町に出ることは、正しい。
けれど、それと同時に、寂しくもなる。
いつも自分のそばにいたエルが、自分の知らない世界に足を踏み込んでいくことが、フェリ一人を置いてきぼりにしていくようで、切なく思えてしまう。
いずれはこうなると思っていた。けれど実際になってみると、思っていた以上に心に思うものがある。
「僕もそろそろ、子離れしないとな……」
一人ため息をつき、フェリは窓から空を見上げた。
雨が降る気配はないけれど、空には薄い雲が立ち込めている。太陽が現れることもなさそうで、窓際に立っても体に異変が起こることはなかった。
前より頻繁に使うことのなくなった、壁にかけっぱなしのローブ。フェリはそれを手にとって、穴や痛みがないか点検する。エルが補修してくれたおかげで、濃茶のローブはまだまだ使えそうだった。
フェリはそれに袖を通し、フードを深くかぶる。戸棚のガラスに自分を映し、フードから銀色の髪が見えないことと、牙を隠した話し方と笑い方を練習する。そして満足した後、彼は窓を開け放ち、そこからひらりと外へ舞い降りた。
一瞬、手の甲がローブからはみでる。外の空気に触れたその白い肌は、久々の明るい空気にすこしちりちりと痛んだけど、それ以上の変化はなかった。痛みもすぐに治まり、ローブに隠れた部分にはまったく変化がない。フェリはもう一度空を見渡し、太陽がないことを確認すると、そのまま館の門から出た。
見守るだけだ、と、彼はひとり言い訳をする。
久しぶりに外の空気を楽しむんだ、とも言い訳をする。
町で働くエルの姿を見にいこう。
見たら満足して帰ってこよう。
そう心に決めて、フェリは町への道を歩みだした。
久しぶりに訪れた町は、これといって大きな変化があるわけでもなかった。
町の中心の噴水の広間はあいかわらずしぶきをあげているし、その周辺で露天を開く旅人たちもいつものこと。噴水までの道に並ぶ商店街も活気にあふれている。新しい家が建ったわけでもなく、古い家を壊したわけでもなく、見慣れたセピアの景色があいかわらずそこにはあった。
ことあるごとに飾られた十字架や、聖水の入ったボトル。それから、軒先に干されたにんにくもある。フェリが警戒されているのもいつものことだった。
エルがまだ小さいころは、フェリが買い物に行っていた。こうして曇りや雨の日を狙い、なるべく太陽に当たらないように、日陰に沿って歩いていた。吸血鬼の騒ぎがいくぶん落ち着いたころには、この容貌さえ人目にさらさなければ、普通の人間としてこの町に受け入れられることをフェリは学んでいた。
血や薔薇、ワインがあれば事足りる吸血鬼と違い、人間のエルは実にさまざまなものを必要とした。食べ物はもちろん、衣服を調達するのもとても大変なことだった。些細なことですぐ怪我をして、熱を出して、そのたびに振り回されるフェリは、いつも町の人に知恵を仰ぎ助けられていた。
あれほど命を奪い続けてきた住民から、子育てのことや看病の仕方まで、教わっている自分が実に奇妙に感じたものだった。
フェリは当時のことを思い出しながら、噴水への道をまっすぐに歩き続ける。そのしぶきが見え始めたころにあるのが、季節ごとにディスプレイを変える帽子屋さん。斜め向かいが八百屋さん。はちきれんばかりのお腹がくるしそうな主人があいかわらずの、お肉屋さん。どの店も、店構えこそ変わらないものの、売り子たちはみなそれぞれ年をとっている。何より驚いたのは、帽子屋のごま塩ひげを生やしていた店主だった経営が、同じ顔立ちをした息子に変わっていることだった。
自分がすこし訪れないうちに、働く人々は、年をとってゆく。いつまでも同じ姿をし続ける自分が、妙に町から浮いていた。
フードを目深にかぶっているせいで、視界が悪い。きょろきょろとあたりをみまわし、町の変化を感じ取りながらも、フェリは花屋が開いているのに気づいて歩みを止めた。
長く閉まっていた花屋を、よその町からやってきた青年が再び開いたのを、フェリも話に聞いて知っていた。けれどもうそのころには、町に出かけるのはエルの役目であり、フェリはその店を開いている青年の顔を知らなかった。ただ、エルの話から、屈託のない性格をしているジャスティンという名の青年だということだけは知っていた。
店のつくりは変わらないものの、花の配置の仕方や、ならべる品揃えは昔とまったく異なっている。二階の窓にかかるカーテンの色も、淡いピンクではなく、無難なベージュへと変わっていた。
遠くから店を覗き込んでみても、エルの姿はない。そしてジャスティンもいない。店に客の姿もなく、時間が時間なのか、商店街の人通りもまばらなものだった。
花屋に入って気づかれるのは危ないと思い、フェリは八百屋で品物を見るふりをする。この店の売り子は女性だと思っていたけど、いつの間にかよく似た顔立ちの男性に変わっていた。彼は店の奥で本を読んでいて、果物を手に取るフェリを一瞥すると、また紙面に視線を落とした。しばらくここにいても大丈夫だろう。
はだけて足元の見えたローブを正しながら、フェリは耳をそばだてる。あまり聴覚を広げすぎては、町中の音が耳の中で洪水になってしまう。花屋へと意識を集中させると、たしかに聞きなれた、すこし抑え気味の声が聞こえてきた。
「……この店で、事件が起きたでしょ?」
エルの声だ。相槌を打つ低い声は、ジャスティンだろう。二人の存在を認め、そしてフェリは、話の内容が何なのかをすぐに察した。
「名前、ルーシー・ヘルネスっていうんだね。あたし、初めて聞いた」
「おれ、教えなかったからな」
「みんな、名前は絶対口に出さなかったもんね」
ルーシー・ヘルネス。
その名前に、フェリの心臓がいち早く反応した。
声が聞こえなくなるのではと思うぐらい、強く、早く、心の臓が鼓動し始める。身体をめぐる血が、まるで沸騰したかのように、痛みを伴いながら全身をめぐる。こめかみを流れる血液は、強い頭痛を呼び、視界を薄暗くにごらすほどだった。
「ルーシーさんの殺され方、くわしく聞いたの。全身血だらけで、腕も足も、傷だらけだったって」
ルーシー。ルーシー。頭の中を、その名前ばかりがこだまする。人の口から彼女の名前を聞いたのは久しぶりだった。そしてそれがエルの口からだというのが、とても残酷だった。
エルは、あの時のことを、知っているようだった。
満月の夜。
花の香りが漂う彼女の部屋。
鼻をつく血のにおい。
床に倒れる彼女の姿。
触れた手が血でぬめる。
抱いた命の弱弱しいこと。
息をつくこともできない彼女の唇。
床に投げ出された指先の冷たさ。
寄せた唇に残る、あの味。
「……うぅ……」
声が漏れないよう歯を食いしばりながら、フェリはうめいた。
こみ上げる嘔吐感に、必死に口元を手で押さえる。今ここで変な行動を起こせば、八百屋の男性に不審がられる以上に、エルにだって気づかれてしまうかもしれない。それだけは避けたくて、フェリは震えるこぶしを強く握り締め、歯で噛んだ。
「顔に傷はなくて、綺麗だったんだって。でも、胸から下は傷だらけだったって……」
最後に見せた彼女の微笑み。頬にとんだ血糊を、丁寧にぬぐった自分の手。その話を、エルがしている。エルのあの声が、言葉を紡唇が、当時の記憶を呼び起こしてくる。
強い苦しみの反面、フェリは頭の奥底で、どこか納得していた。