1、アバランチェ−1
1 アバランチェ
『エルちゃん。この町じゃそんな無防備な格好しないほうがいいよ』
町に行けば、エルはいつも必ず誰かにそう言われた。
無防備といっても、服装は他の人となんら変わりのないものだ。膝まで隠れるフレアスカートに、丸い襟にレースのあしらったシャツを着て、質素な色のカーディガンをはおって。藤のかごにはお財布と、すこし必要なものを入れて。町に買い物に行くぐらいなら、これぐらいの格好で十分いいはずだ。
けれど町のみんなは、それをだめだと言う。危ないよ、エルちゃん。襲われたらどうするんだい。
エルの顔立ちは十人並みだし、体つきも細いばかりで色気がない。この町では珍しい黒い髪と黒い瞳をみんな褒めるけど、どこか魔女を見るような、おびえた瞳をすることもあった。
とくに、年頃の女の子が一人で出歩くには物騒なわけでもない。こんな田舎町では、女癖の悪い人がすこし悪く言われるぐらいで、あいにくエルもその人に引っかかったことはなかった。
けれど、みんなが言うのはそういうことではなかった。
指輪を売るお姉さんも、野菜を売るおかみさんも、豚肉を量り売りするおじさんも。みんな首から、十字架をさげている。
家や店の軒先には必ず、聖水の入ったボトルをかける。にんにくを干すのも忘れない。町全体が、アンティークなセピア色で囲まれている中で、その悪魔よけの品々は非常に違和感がある。
町の人々はみんなこうして、何年も前に姿を消した吸血鬼を、今でも警戒し続けていた。
「エルちゃんも、この町にくるときは、せめて十字架ぐらい身につけたほうがいいよ」
リンゴを紙袋に入れてくれた八百屋の女主人は、いつもそう言っては、バナナを一本おまけしてくれた。
エルはありがとうとお礼を言うけれど、十字架は持ち歩かない。アクセサリーの類も一切身につけていない。きらびやかさを好まないけど、シャツの襟からのぞく赤いリボンはお気に入りだった。
「ジャスティンはまだお店あけてないの?」
「どうだろうね。さっき上の階で物音がしてたから、きっとまた寝坊したんじゃないかな?」
サマンサという名の彼女は、言いながらもう一本バナナをおまけしてくれる。そして隣の店をのぞくそぶりをし、エルを見てにやりと笑った。
「エルちゃんはいつも、花屋は最後に行くんだね」
「薔薇が傷まないようにするためだよ」
エルは笑ってそう返すけど、経験豊富で昔は誘う男引く手あまただったというサマンサには、顔が熱くなりそうなのを見抜かれていた。
「ジャスティン、今日はお店あけないの?」
この町は、山のふもとに点々と続く集落のひとつで、“仔犬の町”と呼ばれていた。
東西南北に伸びる十字の道は、交わるところに噴水のある大きな広場がある。町の中心となる場所めがけて、さまざまな店が立ち並び、空から見れば十字架に見えるような、四方に広がる商店街が出来上がっていた。
道をはさむように並ぶ店は、示し合わせたように同じつくりで、みんな二階建ての住居兼用になっている。一階に店をかまえ、二階で家族が生活するのはどこも同じだ。
例外といえば、八百屋さんの隣で、帽子屋さんの向かいにある花屋。そこはつい数年前までただの空き家で、今は若い男の人が住み着き、一人で店を営んでいた。
「ジャスティンってば!」
紙袋を両手に抱え、エルは二階に向かって叫ぶ。もう昼前だというのに、花屋の扉は閉ざされたまま。まわりの店の人もみな、ジャスティンを心配して首をのばしていた。
「ねぇ、ジャス……」
「悪い、エル!」
もう一声張り上げようとしたとき、二階の窓がようやく開いた。下で仁王立ちするエルに、彼は開口一番謝り、ちょっと待ってと悲鳴にも似た声をあげた。
「昨日買い付けで遠くまでいったから、帰るのが遅くなったんだ! 寝坊した!」
もうすこししたら開ける! と、腹の底から出したような低い声がよく響く。心配していたまわりの店もほっと安心し、サマンサはエルにウインクをした。
店が開いたのは、それからまもなくのこと。まだ頭に寝癖をつけたまま、顔を洗った水をぽたぽたとあごからしたたらせ、濃紺のエプロンを首にかけて飛び出してきたのが、この店の主、ジャスティンだ。
やっばいせっかくいい花いれたのに。ぶつぶつ呟きながらエプロンの紐を結ぶ彼に、エルは思わずため息が漏れた。
「よくそれで経営成り立ってるわね」
「花屋はこの町に一軒しかないからな」
年は二十歳そこそこで、背が高い。細身だけど筋肉があり、ちょこまかと動き回る身体はとても機敏だった。短く切った栗色の髪と、鋭く光る緑の瞳は男前だけど威圧感があり、一見近寄りがたいと思う。彼を人懐こく見せるのは、屈託のない笑顔と、その飄々とした性格だった。
ジャスティンがきて一年とちょっと。その短い月日でも彼は、すっかりこの商店街に溶け込んでいた。
「いつも悪いな、朝飯食ってないから助かった」
さきほど買ったりんごとおまけのバナナは、彼へのお土産だ。ジャスティンがひとつくれたので、エルも彼にならい、カーディガンでこすって皮ごとかじった。
いつもは綺麗に皮をむくけど、この食べ方も悪くない。エルが食べ終わるまでの間に、ジャスティンはりんごをかじったまま、店の中の花を外に並べていた。どの店も、壁をまるごと取り外したように大きな入り口には小さな屋根がついていて、そこまで商品を移動して通行人の目に付くよう工夫していた。
エルはこの店の常連客で、二日とおかずにやってくる。だからジャスティンは店の奥にエル用の椅子を用意し、忙しいときのために女性用のエプロンを背もたれにかけていた。
「今日はなんの花にする? いつもどおり薔薇でいいか?」
お得意様の好みはしっかりと覚えている。今日はこれの咲きがいいとか、あれの発色がいいとか、説明しながらきっちりいつもの花を用意していた。
「エルは白薔薇がいいんだもんな。でも今日は赤薔薇もいいのはいったんだ。すこしもってっていいから」
お客さんが来たら、ちゃんと接客。てきぱきと無駄のない動きをする背中を、エルはつい、目で追ってしまう。椅子に座り、りんごを咀嚼して、あくびをする。それでも、目はジャスティンから離れなかった。
「穴があくから、そんなにじろじろ見ないでくれ」
「おっきいわりによく動くから、見てて面白いの」
「じゃあもっと見てていいよ」
彼はエルが長居することを知っている。だから花はまだ包まずに、花瓶の中に寄せておく。そして店を見ているように言うと、二階に上がって、しばらくしたら戻ってきた。
「今日は紅茶にしたけど」
「ありがとう」
差し出される花柄のカップもエル用のもの。この店にあるもののほとんどは、ジャスティンがそろえたものではなく、もとから置いてあったものだ。女性用のものが多く、彼の使うカップも、色は白いけれどサイズがその大きな手にあっていなかった。
エルの隣に椅子を運び、ジャスティンも座る。そして二人で、作業台に頬杖をつきながら、店の前を通る人々を眺める。はじめは知っている人が一人もいなかった彼もすっかり町になじみ、店の前で手を振っていく人が何人かいた。
「今の女の人は彼女?」
「違うから」
「どこかの店の人?」
訊くと、ジャスティンはきょとんと目をまるくする。そしてすぐに、ああそうかと一人納得した。
「宝石店の人だよ。エルは隣町の子だもんな、よくわからないか」
エルはこの商店街の常連だけど、宝石屋には入ったことがなかった。売り子のお姉さんがモデルとしてつけていたイヤリングはとても綺麗だと思ったけど、それを自分でつけてみようとは思わないのだ。
「今度行ってみな。若い子が買うような可愛いネックレスとか売ってたぞ」
「なんでそんなこと知ってるの?」
「店に飾る花を届けに行ったんだよ」
「ふぅん」
語尾に余韻の残る返事をすると、彼はバナナを食べ、首をかしげる。エルは何も言わず、ミルクと砂糖のたっぷり入った紅茶を飲む。
少しの間、沈黙が流れた。
「……やきもち?」
「そうかも」
意を決したように口を開いたジャスティンに、エルはあっさり認めた。