5、マーガレット-2
エルとジャスティンが一緒に食事をとる、あの場所。そこはかつて、ルーシーが命の灯を消した場所だった。
部屋中に飛び散った血は、今はもうない。それはサマンサがすべて片付けてくれたからだ。手がルーシーの血で染まったことを、彼女は一生忘れないと語った。
「身体にね、ナイフで切られたみたいな傷がいくつもあったの。それが腕にも胸にもあって、血で体が真っ赤になってるのに、あの子の顔は綺麗で、首から上の肌は、傷ひとつない真っ白なままだった」
傷口から流れた以外の血は、すべて彼女の身体から消えてしまっていたらしい。抱き上げたその身体の軽さ。白さを取り越し、青くなった肌。伏せられたまつげは、もう二度と開かれることはなかった。
「一番ひどい傷が、お腹だったの。そこから出た血が、床に広がって、窓にも続いて……でも外に出たところから薄れていったの。足跡も、ナイフも、どんなに探しても見つからなかったの」
ルーシーを殺めたのはフェリ伯爵であるに違いない。けれど彼は、逃走の道筋や、凶器など、よけいな痕跡をほとんど残さなかったらしい。
当時の様子を思い出すサマンサの顔からは、血の気が引き、青ざめていた。記憶を呼び起こすのは相当つらいであろうに、それでも彼女は、ことの真相をエルに話し続ける。
「ルーシーのお腹、ぺったんこだった」
「……お腹?」
「あの子、妊娠してたの」
サマンサは涙がたまった瞳で、エルを見た。
「お腹を開かれて、その中の子供はどこにもいなかったわ。へその緒が途中で切られてて、でも赤ん坊はどこにもいなくて……無理やり出されて生きられるわけないのに、どうして子供まで消してしまうなんてこと、したのかしら」
引き裂かれたルーシーの腹部。ぱっくりとあいた穴の向こうには、生まれるべきだった新しい命までもが奪われ、母親と引き離されてしまった。
そして残ったのは、暗い洞穴。
「子供もね、一緒に埋葬してあげようと思って探したの。でも、腕一本もどこにもなくて……みんなルーシーが妊娠してたこと知らないから、一緒に探してもらうこともできなくて」
「じゃあ子供は、今もどこにいるかわからないの?」
「わからないわ。そもそも、無理やり出されたんだったら、まず生きてるわけがないしね……伯爵もどうして、あんなにむごいこと、できたのかしら」
目じりから伝う涙をぬぐい、サマンサはレモネードをあおる。唇からこぼれたのも気にせず、一気にのどへと流し込んだ。
「だからね、エルちゃんを見ると、期待しちゃうのよ。この子はルーシーの子供なんじゃないかって」
「あたし……」
「わかってるわ。エルちゃんは隣町の子だものね。ルーシーはブロンドに青い目だったから、よけい、違うわ。あの子の子供は、きっと、伯爵に食べられてしまったのよ」
立ち上がり、彼女は一度、居間から姿を消す。そして手に一枚の写真を持って戻ってきた。
「ジャスティンのところから、写真とかはもらってるの。不思議よね、あの子、引越しでもするみたいに、荷物の整理までしてたのよ。そのワンピース、ルーシーが気に入って着てたものだけど、なくしたと思ってたら……まだ店に残ってたのね」
手渡された写真に写っていたのは、若いころのサマンサ。その隣にいるのは、彼女の親友、ルーシー・ヘルネスだった。
「綺麗でしょ? 私とルーシーが一緒に歩いていたら、いつも男の人が声掛けてきたのよ。私はルーシーの前だとかすんじゃったけど」
サマンサも、快活とした笑顔がとても魅力的だ。今と変わらない短い髪が、日の光を浴びて輝いている。これほどに笑顔あふれる女性だったら、町の男性陣が放っておくことはなかっただろう。
対してルーシーは、見るものが動きを止めてしまうような、惹きつけるなにかがあった。
古びて色あせた写真でも、その美しさはわかる。まっすぐに胸までのびた金色の髪に、湖の底のように、吸い込まれるような青の瞳。鼻も唇も、どれも形がよく、それが白い肌の上にバランスよく配置されている。
写真の中では途切れてしまっている身体も、聞こえるはずのない声も、どれもが彼女を引き立てる美しさを持っていたことがわかる。そして彼女はそれをひけらかすこともない、誠実な人だった。写真の笑顔を見れば、わかった。
「私……全然、似てない」
「色が違うから、よけいそう思うのかもしれない。でもね、話し方とか、しぐさを見てると、たまにはっとしちゃうの。横顔とか、まぶたの伏せ方とか、それがルーシーによく似てて、とても他人とは思えなくて」
だから彼女は、よくエルを気にかけてくれていたのだ。
「もしかしたらエルちゃんは、ルーシーのうまれかわりなのかもしれないわね。……なんて、背負わされても困るわよね。今の、忘れて」
ごまかすように笑って、サマンサはようやく、りんごを口にする。切ったばかりのころはみずみずしかったりんごも、話しているうちにすっかり茶色くなってしまっていた。
「エルちゃんのご両親って、どんな人?」
「あたしのですか……?」
言われて、エルはすこし考えた。
吸血鬼です、なんてことはまず言えない。いつも家で眠っていますなんてことも言えない。見た目が彼女より若いことも、そのうちエルのほうが年上になってしまうことも、言えるわけがない。
「薔薇が、好きなんです。だからいつも、ジャスティンのところでいろいろ買っていくの」
「それで坊やと仲良くなったわけね。なるほど」
いつもの調子の、恋の伝道師に戻りつつあるサマンサに、エルは内心ほっと息をついた。
「エルちゃんは愛されて育ったのね。見てたらわかるわ」
「そうですか?」
嬉しいな、と呟きつつ、エルはレモネードに口をつけた。
先ほどから、甘酸っぱいはずの味も、爽やかである香りも、何も感じない。エルは平静を保つことで精一杯だった。
「じゃああたし、親に感謝しないと」
照れくさそうに笑う心の中で、エルはひとつの確信を抱いた。
自分はきっと、ルーシー・ヘルネスの子供だ。
そして、彼女の腹から自分を引きずり出したのは、今まで自分を育てあげた、フェリ伯爵だった。
○○○
「今日も、泊まってくか?」
「ううん、帰るよ」
さすがに二日も無断で外泊すれば、フェリも心配するに違いない。エルは店の中をほうきで掃きながら、出迎えるフェリの姿を思い描いていた。おかえり、エル。最近はその言葉の後に、お仕事お疲れ様がついてくる。
「晩飯、食ってく?」
「明るいうちに帰る。食べたいのあったら作ってくけど、なにかある?」
自分で作るからいいよ。ジャスティンがそう言うので、エルはわかったと返事をした。いつもどおり、店のことをしているはずなのに、ジャスティンはエルを見てなにやら戸惑っているようだった。
「……エル」
「なに?」
「なにかあったか?」
ほうきを持つ手をつかんで止めさせ、ジャスティンが顔を覗き込んでくる。息もかかるほど間近にある顔に、エルの胸は高鳴りもせず、静まり返っていた。
「別に、なにも」
「何もなかったらそんな顔してない。エルは、自分が思ってる以上に、隠し事できないんだよ」
ジャスティンに指摘された顔がわからなくて、エルは顔を洗うように両手で表情筋をあらためた。
「これでいい?」
「そういうわけじゃなくて……」
決して口を開こうとしないエルに、ジャスティンが肩を落とす。その様子があまりにも申し訳なくて、エルはそっと彼の頭に頬を寄せた。
「話をね、聞いたの」
「どんな?」
「ルーシー・ヘルネスっていう人の話」
その名前を、ジャスティンが知っているのは当然だ。彼ははっと顔をあげて、エルの黒曜石のような瞳を食い入るように見つめた。
「それは、おれも知りたい」
「誰にも言わない?」
「言わない」
きっぱりとうなずくジャスティンと指切りをして、エルは客がいないのを確認し、店の奥の椅子へと歩いていった。