4、プリザーブドフラワー-4
自分があまりにも無防備な寝顔をさらしていたことに気づいて、エルははずかしくて布団に顔をうずめる。でも彼には、寝顔はもとより、すべてを見られてしまったのだからどうしようもない。
「身体、痛くないか?」
「大丈夫……」
鼻から下まで布団にもぐっていると、ジャスティンは目を細めて、頭を撫でてくる。布団の中からエルの唇を探し、指でそっとなであげた。
「今日は仕事しなくてもいいぞ?」
「ちゃんとするよ」
まだすこし眠気の残る声に、ジャスティンは「もう少し寝てな」と身体を起こす。その厚い胸板を目の当たりにして、エルはいまさらながら赤くなってしまった。
手早く身支度を整えると、彼は窓のカーテンをあけた。もうすっかり朝陽が昇っているらしく、差し込む光に目が痛んだ。
外の様子に耳を凝らしてみても、まだ話し声や店の戸を開くような音は聞こえてこない。朝陽は昇っているけど、まだ店が開く時間ではないようだった。二人そろって寝坊をした日には、サマンサに大きなケーキでも買ってこられるのではないだろうか。
「あのさ、エル……」
寝癖のついた頭のまま、彼は外を眺めている。その彫りの深い横顔は、朝陽のせいでよけい、顔に落ちる影の色が濃かった。
「今、これを訊くべきではないと思うんだけどさ」
「……なに?」
エルが身を起こすと、朝の冷えた空気が肌をさした。自分が何も身にまとっていないと気づき、あわてて布団を手繰り寄せる。
そんな様子を見て、ジャスティンはまた笑う。いつもの飄々としたものでも、甘える子供のようでもなく、笑顔の裏にさまざまな言葉を隠しているようだ。
ベッドへと戻り、床に膝をつく。ふちに手をかけて、エルと目線を合わせた。
「今訊かないと、たぶんおれ、訊けないままだらだらしちゃうと思うんだ。だから、訊くな」
「ジャスティン……?」
彼はベッドのふちに乗せた髪飾りに視線をやり、そして戻し、まっすぐにエルを見つめた。
「エル・シンプソンっていう子はいないって言われたんだ」
「…………」
エルは動揺を悟られないように、奥歯を強くかみ締めた。
「ちょうど、エルが住んでる町の人と話す機会があったんだ。それでエルのこと訊いてみたら、シンプソンっていう家はあるけど、エルっていう名前の子はいないって言われた。黒い髪と目の人も、それぐらいの年頃の子ではまずいないって」
身体を隠すのも忘れて、エルはベッドの上で身を起こす。心もとない肌の上を、黒い髪がすべりおりた。
「それは、今回の買い付けで、気づいたの……?」
「いや、実はけっこう前に、シンプソンの家には年頃の女の子はいない、って言われてたんだ」
詰めが甘かった。ジャスティンがいつも買い付けに出かける町は、エルが住んでいると嘘をついた町を通らない。けれど彼は、エルが思っていた以上に、仕事であちこち動き回っていたのだ。
「あたし……」
ジャスティンに、フェリのことは言えない。いずれ話さなければいけないのはわかっているけど、今はまだ、早すぎた。
言葉が見つからず、言いよどむエルに、ジャスティンはゆるゆるとかぶりをふった。
「エルがずっと黙ってることだから、無理に訊いたりはしないから。これ以上、エルの素性を調べたりもしない。勝手にいろいろ訊きまわって、ごめんな」
訊きまわったといっても、世間話の最中に、不意にエルの名前が出てきたぐらいだったはずだ。あやまるのはジャスティンでなく、エルのほうなのに、エルの口からはうまく言葉が出なかった。
「……ジャスティン」
「いいんだ。おれはわかってて、それでもエルのことが好きなんだ。もし、エルが、自分のことで隠していることがあって、それでもし悩んでいるのだとしたら、それがおれには嫌だったんだ」
ジャスティンが腕を伸ばして、エルを抱きしめる。おとなしく抱かれたけれど、エルの頭の中は、どうしようという頭で埋め尽くされていた。
「あたし……、ごめんなさい……」
「あやまらなくていいんだ」
「ジャスティンには、まだ、言えないの」
「言えるときに言ってくれればいいよ。言わなくても、おれはかまわないから」
抱きしめてはじめて、彼はエルが震えていることに気づいたらしい。腕の力をなおいっそう強くして、エルの耳朶に口づけた。
「おれがこの腕を離したら、もうこの話は終わりだ。変に気を使わないでいい。今までどおりにしよう。ただ、これ以上エルの悩む顔を見るのがいやなんだ」
「あたし……」
なにも、ジャスティンに秘め事をしているからという理由のみで、悩んでいるわけではなかった。
いずれ彼に話さなければならないときがきたとき。今のエルでは、すべてを語ることができない。
エルは知らなすぎる。
この町で昔あったことを。エルを育てる前のフェリのことを。フェリの牙にかかった人々のことを。
そして自分のことを。
知らないことが多すぎるのに、それをジャスティンに話すことなんてできない。彼はエルの抱える秘密について不安があるのだろうけど、実際はエル本人の中で渦巻く不安のほうが大きかった。
はたして自分は何者なのか。
それを知らない限り、エルは、彼にすべてをゆだねることができなかった。
●●●
エルが帰ってこない。
日没後に目を覚まし、フェリはしんと静まり返った館に気づいた。
それから、一人で食事の準備をし、庭の薔薇をいくつかつんできたけれど、エルが帰ってくる気配は一向にない。
「別に、天気が悪いわけでもないのに……」
雨風が強くて、帰ってくるのが困難な場合は、店に泊めてもらえばいいと言った。けれど本日は月の綺麗な晴れた空だった。帰るのに支障はまったくない。
残業で遅くなったから、泊まることにしたのだろう。そう考えて自分を納得させようとするのだけど、どうも気持ちが落ち着かない。
なにかあったんじゃないだろうか。どこかで怪我をして倒れたのではないだろうか。なにか事件に巻き込まれたのではないだろうか。そんなことばかりが頭をめぐって、眠ろうと思っても眠れない。
町でなにか異変があれば、ここにいても耳に届く。不穏な気配がすれば察することができる。けれど町はただ静かに時を刻むだけで、何も起きてはいない。エルは何事もなく、町にいるはずだ。
わかっているのに、心配してしまう。たった一晩、娘が家を空けるだけのことなのに。我ながらなさけないなと、フェリは一人、笑うしかなかった。
最近の、上の空で心ここにあらずのエル。それはきっと、町に好い人がいるからなのだろう。彼女の年頃を考えればそういう人がいてもおかしくないし、むしろ今まで家にこもっていたことのほうが不健康だった。
フェリとエルは、身を寄せ合うように、この館に暮らしていた。
成長するにつれ、言葉を操るようになり。文字が読めるようになり。外の世界に興味を示すようになり。
エルとフェリの関係について、疑問を持つようになり。
『……フェリは、エルのお父さんじゃないの?』
その小さな唇から言葉が出たとき。フェリは、ついにきたかと思った。
『違うから、お父さんって呼んじゃいけないの?』
どうしてそれに気づいたのだろう。そう思って、エルが最近読んでいた本を思い出した。その主人公はエルと同じく親がいなくて、それに自分を重ねて読みすすめるうちに、事実に気づいてしまったのだろう。
まだ町にだってほとんど出ていないのに、エルは本の中からいろんな知識を得ているらしい。フェリは先に館にある本をほとんど読み終えていたので、書庫にある本の内容は漠然とながら覚えていた。
胸にその本を抱えて、エルはフェリを見上げる。その瞳があまりに悲しそうで、フェリはつい嘘をついてしまいそうになったけれど、あえて自分を押し込めて首をふった。
『そうだよ』
もし嘘をついて、エルが自分の子供だと言ったとしても。成長するにつれ、彼女は嘘に気づいてしまうだろう。それならば、先に言ってしまうほうがよかった。