3、サンスベリア−2
「あたし、たまった着替え洗ってるから。シーツも出しといてね」
思いがけずあらわになった肌を見て、エルはあわてて部屋から出ようと背を向ける。フェリ以外の男性の肌を見る機会なんて、まったくなかったことをエルはいまさら思い出した。
「……待って、エル」
ジャスティンの声がとても頼りなくて、エルはドアノブを握り、振り向いた。
本当に男の人は、風邪で弱くなるんだな。
「まだ、ふらふらするの?」
「する」
「お腹はすかない?」
「のどかわいた」
熱に浮かされた目は涙で潤み、赤くなった頬は弱弱しい呼吸とともにふるえている。いつも大きな口をあけて笑う顔が、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
再び、ジャスティンのもとに歩み寄る。窓からの風を受けたスカートが、サンスベリアの葉とともにゆるりと揺れた。
「……いつも、一人だったんだ」
「ジャスティン?」
上着を脱いだまま、彼は呟く。中途半端に袖に通された手が、力なく太ももの上に乗っていた。
「風邪ひいたときとか、さ。いつも一人で寝込んでたんだ。具合悪くて動けなくて、みんな仕事があるから忙しくて、誰もいなくて……」
その瞳は、うつろに自分の手を見下ろしている。夢の狭間にいるようで、頭の中が当時の自分に戻ってしまっているようだった。
「行かないで、エル」
「ジャスティン……」
エルがそっと手を伸ばすと、髪は汗で湿っていた。まるで湯気が昇っているかのように、身体が熱くなっている。エルの手が冷たくて気持ちいいのか、ジャスティンは額に乗せられた手にほっと目を細めた。
風邪をひいて心細いという経験が、エルにはなかった。
フェリはいつも、そばにいてくれた。風邪をひいたときはもちろんずっと看病してくれていたし、夜の闇が急に怖くなって、泣き出したときもすぐにとんできてくれた。
幼いころから、エルは一人ではなかった。太陽の昇っている時間でも、フェリは起きていた。彼が吸血鬼の生活に戻ったのも、じつはつい最近だったのだ。
エルは知っている。具合が悪いときに、そばに誰かいてくれる心強さを。熱で苦しいときに、そえてくれる手のあたたかさを。
眠れないときにかけてくれる、おまじないのキスを。
「……ジャスティン」
彼の額に、エルはいつものように、そっと口づけた。
ジャスティンの汗の香りがする。けれど、嫌いではない。驚いて目を開いた彼に、もう一度、おまじないをかける。
辛いときの寂しさに、年齢なんて関係ない。
フェリと交わす、眠る前の挨拶。それはおやすみの挨拶であり、良い夢をみられますようにのおまじない。
それをフェリ以外にかけるのは初めてだった。
無意識のうちに自分の唇に触れながら、エルはジャスティンが眠っているのを確認し、部屋から出た。
着替えを洗わなければならないし、店も開けたまま放置してしまっている。仲間意識の強い町だから、勝手に商品を盗まれるということは無いだろうけど、やはり開けている以上は店に立たなければならない。
わかっているのに、エルの足は、家の奥の物置の前で止まってしまう。
ジャスティンは眠っている。他に、誰もいない。念のためあたりを見回し、エルは意を決してその重い扉を開いた。
●●●
「聞いてる? エル」
「……ごめん、聞いてなかった」
最近、エルは上の空だ。
フェリは花瓶の水をとりかえる娘を見ながら、そう思った。
しばらくの間、足繁く町に通っていたと思ったら、ここ一週間はぱったりと行かなくなっている。買い物程度には行くけれど、どうやら働いてはいないようだった。
クビになったのだろうかと最初は心配したけれど、そういうわけでもないらしい。あえてエルの行動について問いたださないのは思春期の娘へのささやかな心遣いだけど、毎日こうもぼんやりされると、お父さんは心配だ。
「なんの話だっけ?」
話をふってきたのはエルのほうだったはずだ。庭の薔薇が今年は綺麗に咲いたよ、と報告してきたのに。ブルームーンが綺麗だよ、とも言っていたのに。すっかり忘れてしまっている。
「……あのさ、エル」
「なに?」
「仕事、行かなくていいの?」
おそるおそる、フェリは訊いてみる。嫌がられるのではという心配は杞憂だったようで、彼女はあっさりと答えてくれた。
「ちょっとお休みなの」
「休み?」
「店長が、買い付けで遠くまで行くんだって。長くいなくなるから、店番もしないでいいよーって」
だから、お休みなの。花瓶のふちいっぱいまで水を注いで、エルは戻ってきた。つんだばかりの薔薇をさすと、あたりまえだけど、水があふれてしまう。
「最近ずっと働いてたからね。すこし休めってさ」
「そう……」
水がこぼれたことにも気づいていない。フェリが目の前で手を振って、ようやく焦点があった。
「これですこし家の掃除できるね。ごめんね、サボってて」
「いや、それは全然いいんだけどさ」
もとよりエルは、家の掃除ばかりしていた。掃除をして、書庫から本を持ってきて、読んで。薔薇の世話と、家事全般が日課で、それは年頃の少女にしてはあまりにも活動がなさ過ぎた。今の生活のほうがよっぽどいいのだ。
ただ、家にいても心ここにあらずで、自室にこもりっぱなしだったりすると、やっぱり心配になる。ふと見た顔がにやけていることも多く、エルが何を考えているのかさっぱり見当がつかなかった。
「てっきりクビになったかと思って」
「それはまだ大丈夫」
含みのある言い方だな、と思ったけれど、フェリは何も言わないことにした。上の空の原因はわからないにしろ、これでとりあえず、家にいる謎は解けたのだ。
さしだされた薔薇を受け取り、フェリは唇を寄せる。何を思ったのか、エルまで薔薇を口に含もうとした。
「食べても……おいしくないと思うけど」
「うん、苦いかも」
花びらを数枚かじって、エルは顔をしかめる。そしてごまかすように、えへへと笑った。
その表情に、フェリははっとする。けれどそれに気づかれないよう、また一輪、薔薇を手にした。
持つ手が、唇が、震える。けれどそれを、エルに悟られてはいけない。甘いはずの薔薇はまったくの無味で、滑らかな舌触りはまるで砂のようだった。
幸い、上の空な彼女だ。フェリのことを見ているようでまったく見ていない。早まる動機と呼吸をこらえようと、フェリは膝に爪を立てた。
「ねぇ、フェリ」
「ん?」
「おやすみの挨拶してたのって、あたしが小さいときから?」
突然、話が変わった。不思議に思いつつも、フェリは考える。
「まぁ、そうかな」
嘘だ。けれど、真実は言わない。
「どうしてしようと思ったの?」
それは、訊かれても困る。
「まぁ……小さいときにそういう習慣を作ったら、やさしい子に育つかなと思ってさ」
とっさに考えた言葉に、エルはふぅんと納得してくれた。
「嫌だった?」
「ううん」
頬杖をついて、エルは外に目をやる。その横顔、手首の加減、首筋から鎖骨までのなだらかな肌。それに、嫌でも目がいってしまう。
花瓶の中の薔薇たちが、フェリの指先が触れるか触れないかのうちに、いっせいに枯れ落ちてしまった。