プロローグ
プロローグ
月夜の晩が、エルはいつも楽しみだった。
いつもエルに早く寝なさいと怒るフェリが、満月の日だけは、夜更かししても怒らないからだ。
部屋の窓を開け放ち、そこからのぞく満ちた月を見ながら、ワインを飲むのが彼の習慣だった。部屋の真ん中に猫脚のテーブルを置き、おそろいの椅子を置き、そこに座ってくつろぐ彼は、エルが近づくと抱き上げて膝に乗せてくれた。
温めたミルクに砂糖を入れて、薔薇の砂糖漬けをひとつ浮かべてくれる。それを飲み終えるまでが、エルが起きていてもいい時間だった。
町のはずれにある古びた洋館の、屋根裏部屋。そこがエルたちの家だった。決して天井は高くないけれど、豪華な家具も置いてはいないけれど。くもの巣とほこりだらけで床板も腐って抜け落ちたダンスホールより、この狭くもぬくもりの感じられる部屋がエルは大好きだった。
テーブルの上に置かれた花瓶には、大輪の花を咲かせる真っ白な薔薇が飾られている。月光を浴びて卵色に光る薔薇が綺麗で、エルはじっと、それを見つめていた。
自分を抱く長い腕は、彼の呼吸に合わせてゆったりと揺れる。まるでゆりかごのような揺れにいつも睡魔がおとずれるのだけど、エルは眠らないように必死に目を開いていた。
『……ねぇ、フェリ』
『なに?』
彼の声は、木々のざわめきのように、深みがあり、静けさがある。見上げた顔は、銀色の前髪に隠れてよく見えない。抜けるように白い肌が、花瓶の中の薔薇のように、淡い光を映していた。
『フェリは、吸血鬼なんだもんね?』
『そうだよ』
『じゃあ、エルの血も吸っちゃうの?』
見上げるエルの瞳に、フェリがぱちくりと目をしばたかせて、黙りこんでしまう。
もしかして自分は何かいけないことを訊いただろうかと、不安になり始めたころに、彼はようやく口を開いた。
『……どうして、エルは、そう思うのかな?』
『だって、吸血鬼は血を吸うんでしょ?』
館を探検して、エルは書庫を見つけた。まだ難しい字の読み書きこそできないものの、エルもフェリに教えてもらって本を読むことができた。
書庫の本の中にあった、吸血鬼の出てくる小説。その中で吸血鬼は、人間の血を吸って生きていた。
彼の薄い唇からのぞく鋭い牙は、人の首筋に傷をつけ、あふれる血潮を飲むためにある。フェリはエルに、自分が吸血鬼であることをはじめから話していた。
だからエルは、彼が吸血鬼だとわかっていたけれど、その彼が小説に出てきた吸血鬼と同じかというと、どうも違った。
まばたきもせずに、大きな目で見つめるエルに、フェリはまたすこし、沈黙した。やっぱり怒っているかなと心配すると、彼は吐き出した息とともに笑った。
『エルは、僕に血を吸ってほしい?』
『……ちょっと、こわい』
考えて、ぽつりと呟いたエルの頭を、フェリが撫でる。エルの真っ黒な髪を指先に絡めながら、彼は息がかかるほどに顔を近づけてきた。
『僕は、血は吸わない主義なんだ』
顔にかかる髪を耳にかけて、フェリがその綺麗な顔を間近に寄せる。その柔らかな表情に、いくぶんかこわばっていたエルの身体から、力が抜けた。
『本当に?』
『本当に。だってエルは、僕が血を吸うところなんて見たことないでしょう?』
うん、と、エルはうなずく。そのふっくらとした頬に指先をあてて、フェリは微笑んだ。
『吸血鬼は、血を吸わなくても生きていけるんだ。だから決して、エルの血を吸ったりはしないよ』
頬に落ちたまつげをはらい、彼はエルの額にキスをする。それはふたりのおやすみの挨拶。カップにはまだミルクが残っていたけれど、エルはそれをテーブルに置いた。
『おやすみ、フェリ』
エルの背丈に合わせて身をかがめてくれるフェリの額に、おやすみのキス。ネグリジェのすそを翻しながら、エルは自分の部屋へと戻ってゆく。
その後ろ姿にまた微笑みながら、フェリはテーブルの上に散らばる花びらを手に取った。
茶色く縮み、水分を失った花びらが、いくつもいくつもテーブルの上に落ちている。そして彼の細くて白い手の甲に、いくつもいくつも降りそそいでくる。
フェリがそっと息を吹きかけると、花瓶の中の薔薇たちは、見る間に枯れて首をもたげていった。