問7 雨と傘
本物の夢を見てからさめれば、どれが夢でどれが現実だったのか、上手くより分けることができた。
襲われたのは本当。顔が剥がれたのも本当。図書室は夢。
酷い話。それでも、わたしの身体は素直に動いた。
少しだけ早く行動して、寝ぐせの付いた髪の世話を済ませる。濡れたまま寝たにしては髪も素直だった。
「昨日、変な夢見た」
トーストをかじるさくらが言った。
「おねえちゃんの顔の一部が、モヤモヤっとしたオバケになる夢」
「夢じゃないかもよ。さくらの好きな事件だ」
いつもよりも明るい調子で答えてやる。「事件」の部分の音量を少し上げて。
「昨日は帰ってすぐ寝たの?」
たずねたのは、やっぱりさくら。
お母さんはわたしのことは滅多に聞かない。この子が代理人だ。
お父さんからは「体調は大丈夫か?」のメッセージが来ていた。
「線路沿いを走って帰ったら疲れた」
「制服で? なんでそんなことしたの」
「事件のせいでジョギングができないからだよ。夕方の線路沿いなら安全だしね」
「ふうん……。それで消臭スプレーのにおいがするんだ」
「フローラルでスウィートでしょ」
「朝ごはん食べてるのに。つけ過ぎだよ」
キッチンから食器同士のぶつかる音が聞こえた。不快だ。
お母さんは早くに出て行ったお父さんの残した食器を片付けている。ときどき顔を上げてダイニングのテレビに視線を移している。
普段は顔を見ないで「おはよう」をするけど、今日は数秒間見つめ合った気がした。
それでもノーコメントだ。
わたしは襲われたのに。晩御飯も食べずに寝たっていうのに。
お母さんには何も期待はしてない。
SNSの確認。
高城咲綾は消えたまま。ネットニュースと天変地異の監視者である鈴木はグループの人数にも気を配っている。
彼は誰かが抜けるたびにグループ人数の数字だけを発言するのだ。今回もすでに鈴木カウンターは31を刻んでいた。
クラスメイトの何人かは、誰が抜けたのかを調べるだろう。
いつもはどうでもいい彼の行動が、わたしに味方をしている気がした。
「ごちそうさま」
これも本当は家族みんながそろった夕食どきだけにしか言わない。返事はなし。
「待っておねえちゃん」
さくらはトーストを口に押し込み、カフェオレを流し込んだ。喉に詰まったのかマンガみたいに胸を叩く。
「あ、あたしも一緒に行くぅー」
「遅刻するよ」
わたしのほうが一本あとの電車に乗っている。
「おねえちゃんがちょっと早く出たらいいじゃんかー。昨日もそうした!」
「あんたよりもだいぶん近いんだけど」
「どうせ早く行って図書室にこもってるクセに」
隠してるわけじゃない。だけど、お母さんの前ではなんとなく言って欲しくなかった。
「分かったから。わたしはすぐに出れるよ」
「5分待って。10分!」
「増やすな」
いつものさくらの登校時間に合わせて家を出る。
雨だ。天気予報では、今日は一日中雨だと言っていた。
「ねえ、おねえちゃん、ホントに何も無かったの?」
傘の向こうから心配色の声。
「無いよ」
「何かあったら絶対相談してね。お母さんやお父さんには秘密で受け付けるから」
さくらの常套句だ。言わないとずっと心配されるから、普段ならここで折れて話す。
相談したらしたで、余計な推理や大袈裟な解釈でかえって疲れさせられるのがパターンなのだ。
今度は話すとこじれるどころの話じゃないから、絶対に言えない。
「ナイヨナニモ」
ロボット調で返す。こうすれば「あるけど心配をする話ではない」と思わせられる。
「怪しぃーっ!」
さくらの声のトーンが上がった。
効果があったか無かったか、それとも雨と傘のせいか。それ以降は話しかけてこなかった。
最寄り駅前の通り。ここにも焼き鳥屋があり、思わず見てしまう。シャッターが下りている。
夕方はダクトからお腹が空くにおいが漂ってくるのだけれど、あのにおいが不快になってなければいいな。
駅のほうを見れば、気が滅入りそうな人間の群れ。朝からご苦労様。
これでも都会に比べればマシ。この町はベッドタウンだ。
バスのロータリーもあるから、歩道にもズラリと人間が並ぶ。待合所の屋根の無いところまで並ぶから、傘で道が狭いったらない。
傘を閉じても他人のを当てにして移動できそうなくらいだ。
歩道と車道の信号の両方が赤のタイミング。そのときだけ道路にはぽっかりと何もない。3月に塗り直された横断歩道は笑う歯のようだ。
誰しもが信号に従って歩き出す。夕方は信号を無視するひとが多い。
駅の入り口が近付く。傘を畳むひとたち。黒塗りやぼかしが消えて個人の顔が現れる。
わたしは思わず足を止めた。
その中に高城咲綾や茂木が居たら、どうしよう。
起床からの勢いが、一瞬にしてへし折れた。
「電車来ちゃうよ」
さくらに急かされる。
「あっ……」
駅の入り口に佇む見知った人物を見つけた。
紺色の長い傘を持った、背の高いブレザー姿の男子。
颯太くんはすぐにわたしを見つけた。
頬が火照る気がした。
傘を畳みながら、さくらがこちらを睨む。
「どうしたの?」
「別に」
わたしたちの短いやりとりを聞いてか、颯太くんはスッと人ごみの中に消えて行った。
改札を抜けるときに、こちらを振り返りながら。
「追いかけなくてよかったの?」
「約束とか、してないし」
わたしのことを待っていてくれたのだろう。でも、さくらが居たから離れてしまった。
「誰の話かな?」
「誰って……」
さくらを見ると、してやったりの顔だ。
「どのひと? 同じ河船学園のブレザーは……。いやいや夏服の可能性も……」
「探すな」
さくらには探すなと言っておきながら、ホームで彼の姿をしっかりと補足する。ひとつ後ろの車両に乗るみたいだ。
わたしは女性専用車両に乗った。
「女性専用車って初めて乗る」
さくらが言った。
「なんで? こっちのがすいてるし、乗るときは階段からすぐじゃん」
「秘密」
首を傾げるも深くは聞かない。きっと大したことのない理由か、ろくでもない理由だろう。
ひと駅だけさくらのおしゃべりに付き合い、わたしは電車を降りる。
それから降車する人たちの流れに逆らってイヤな顔をされながらも、颯太くんのところへと向かった。
わたしは笑いかけて挨拶をしようとした。
だけど、わたしたちのあいだをサラリーマンが舌打ちとともに横切った。
なんとなく挨拶は交わさず、傘も邪魔で、学校まで縦に並んで歩く。颯太くんがうしろ。なんだか背中がむず痒い。
「朝も図書室ですよね」
「うん」
「僕も行って、いいですか」
「うん」
毎朝ってことかな?
お決まりの席に着くと、口に貼られたガムテープが剥がれた感じがした。
「ねね、颯太くん」
「なんですか?」
「おはよう」
「お、おはようございます」
「待っててくれたんでしょ?」
「ええ、まあ。妹さんと一緒に登校してたんですね」
「今日はたまたま。いつもはもう一本遅いのに乗ってるよ。やっぱり見たら、姉妹って分かる?」
「どうかな。そう思っただけで、言われたら似てるな、くらいかも。ぼくと弟も似てないんですよ。連れ子なんで当たり前なんですけど」
さらっと家庭の事情が出てくる。さくらが勘ぐった通りらしい。
「弟さん、可愛い?」
「かなり」
顔をほころばせる後輩くん。
「小学校は今日も休校だって聞いたけど」
「昨日は突然でしたから。今日からはぼくもちゃんと登校します。変ですよね。向こうの河船高校のほうは、昨日は休校になってたみたいなのに」
「うちの学校、二年前に台風が直撃したときも休校にしなかった伝説があるから。登校させてから暴風警報が出て、その中を帰ったんだよ。電車も止まって、学校に半日閉じ込められた生徒や先生がいっぱい」
「あっちの河船高校はどうしたんです?」
「初めから休みだった」
「ええ……うちの高校、バカみたいじゃないですか」
「バカだよ。あっちは進学校なので賢い。まあ、うちみたいな私立はけっこう、公立と判断が違うとこ多いらしいよ」
「ぼくはうちから近いから選んだんです。頭の悪いほうの河船高校なんていわれてますよね」
「名前書いただけで合格、とはいかないけどね。こっちが悪いんじゃなくって、あっちが良いだけ」
「ですよね。でも、久保田みたいなのが幅をきかせてますけど」
それだけじゃない。高城咲綾のようなとんでもないヤツもいる。
「ね、例えばだけどさ」
颯太くんに聞いてみよう。
「密室で女の子をレイプしようとしてて、それを急に取り止めて、謝って警察に自首するなんてことって、ありえると思う?」
わたしはオブラートに包まずに言った。
朝からの強気を取り戻したのもあったけど、
「レ……?」
この顔が見たかったからでもある。
「ね、あると思う?」
わたしは戸惑う彼に顔を近付けた。そのぶん彼は遠ざかり、ズレたメガネを直した。
「罪悪感、とかですか?」
「あらかじめ計画を立ててて、共犯者も居て、初犯じゃなくても?」
計画は穴だらけだったけど。茂木と高城咲綾は罪悪感という雰囲気じゃなかった気がする。
スイッチが入ったように豹変したロボットといった感じが近いだろうか。
「うーん、罪悪感じゃなさそうだ。警察官や第三者が急に目の前に現れたら、そんな態度をとるかも」
いきなり現れたのは警察官じゃなくて、めくれた顔。
ありえないとは思うけど……。
「そういう、他人を操る超能力みたいなのがあったとしたら?」
「……」
彼はわたしの顔を見つめている。変な子だと思われただろうか。
だけど彼は引いていた身体を元に戻して、逆にぐっと近くに寄った。
今度はわたしが身を引く番だ。それでも颯太くんは黙ってわたしを見つめ続けた。
「な、なに? 分からないなら、分からないで……」
「もしもそれが」
颯太くんはイジメの話をするときみたいに強くて、はっきりとした声で言った。
「もしもそれが“タテマエを剥ぎ取る力”なら、やっぱり罪悪感からのことだと思います。ありえないと思いますけど」
「タテマエを剥ぎ取る? ホンネを暴くってこと?」
「言い換えればそういうことです」
ホンネを暴く、のほうがポピュラーな言い回しじゃない?
「でも、それはないかな……」
あれは操られた感じだった。本心ではないって感じ。ほんとに自首したんだろうか?
「ゲームか何かの話ですか? それとも、あおい先輩。……何かあったんですか?」
少し怖い口調。彼は下くちびるを噛んでいる。
わたしはここで選択を迫られている気がした。
ゲームだと選択肢が出てくる場面だ。颯太くんに話す。話さない。
いつの間にか肘に触れている彼の手。これは、さくらと同じ? 少し違うように感じる。
わたしは黙り込んでしまう。ほとんど答えたようなもの。
あと数十分で教室に行かなければいけない。高城咲綾は学校に来るか、来ないか。
わたしは悪くない。だけど、これからも毎日、駅から学校のあいだを往復しなければいけない。
けっきょく、颯太くんに高城咲綾に騙された話をした。
顔が剥がれた幻覚を見たということも洗いざらい話した。
彼は黙って聞いていた。ときどき、わたしはコメントを求める意味合いで沈黙したけど、「続けて」と言って促された。
話し終わったら、目の奥が熱くなって、鼻の奥が痛くなった。
安心したから泣けてきた? ううん。
頭の中で声がしたからだ。
「バカみたい」って。
涙ではなく、魂が零れて身体が抜け殻になったんだ。
身体は雨で湿ったブレザーの不快感だけを感じて、幽体離脱したみたいに頭上から自分を眺めている妄想が始まる。
説明は途中でしどろもどろになったり、前後したり、今更になって恐怖感が沸いて早口になったりもしていた。
そんな姿って、ひとから見たら「ウソをついてる」っぽくない?
わたしは昨日は連絡を断って心配させて、夜中にメッセージを送って電話までかけさせた。
そのうえ今は「襲われそうになったけど無事でしたー」なんて話をしてさ。
完全にイタイ子だ。水俣の言う通り、イタイさんだ。
そうだ、水俣の言う通り。……あの子の言う通りだった。あのメッセージは颯太くんではなく、高城咲綾のことだったんだ。
警告してくれていたのに、あの子をブロックしたままだ。
眼下でわたしの頭の中がグチャグチャになっていくのが見える。
「変なものが見えたのは、心に負荷がかかったからですよ」
「そうだね」
「ぼくでよければ登下校を一緒に」
「してる……」
「ですね。警察にも一緒に行きましょう。教室に行くのがイヤなら、今からでも学校を出て警察へ」
「ふたりとも自分で行くって言ってたよ」
「信じてるんですか? そんなこと」
「更生とか、あるかもしれないし」
わたしはもうすぐ読み終える人殺しの手記をカバンから取り出した。
本の中の彼は少年院を出たあとは更生していっているように思えた。ううん違う、ひとつふたつのかみ合わせが悪かっただけで、最初からおかしくなかったのかも……。
「そんな本はデタラメだ。細かく覚え過ぎてるし、小説みたいに言葉を飾り過ぎてる。更生してるふうに見せるためのウソだ!」
彼は怒鳴った。
「怒らないで! 信じてないんでしょ! デタラメなのはわたしの話のほうだって!」
わたしは颯太くん以上の勢いでまくしたてた。
彼はカウンターのほうを、ちらと見た。
それから、そっと触れていたわたしの肘を軽く掴んだ。もう片方の手も伸ばし、そうした。
「確かに、顔が剥がれて、それを見たひとが操られるなんて、非常識です」
一語一語、はっきりとわたしに言い聞かせる。
「そこだけじゃなくって! 騙されて襲われた部分も全部! 知ってる? こういうことを言って気を引こうとする子のことをメンヘラって言うんだよ!?」
「メンヘラは、もとは心療内科通いからきた言葉ですけどね」
彼は身を離すと、「ううん」と唸った。
「ぼくはあおい先輩を信じます。でも、その高城と茂木の自首だけは疑わしいですよ。ひとの本性は、そんなキレイなもんじゃない」
「そうかもしれないけど、警察はちょっと……。証拠があるわけじゃないし、話がややこしくなっちゃうよ」
「でも、高城咲綾はSNSのアカウントを消したんでしょう?」
「うん……それに」
わたしはスマホを操作して水俣のブロックを解除する。それから、彼女とのやり取りを見せた。
「なるほど。高城はもとからそっち系の人間だって疑われていたんですね」
「疑ってたのはこの子だけだと思う。咲綾は学校では地味な子だもん。水俣はウワサ好きだし話も盛るから、いつものウソだと思ったの」
「例の事件のほうは、まだ続報はありませんね」
「あの事件の犯人のせいにする気だっただけで、真犯人は別のひとじゃないの?」
「一応ですよ。犯人じゃないフリもありえるでしょう?」
薄ら寒くなる。猟奇殺人犯じゃないフリをするために、わざわざ強姦未遂? わたしをどうせ殺しちゃうのに?
高城咲綾もグルで。……彼女は「使ったら面白そうなもの」がどうとか言って、金属の串を触ってた。
思わず、彼女が知らない男性の顔に串を通す姿を想像してしまう。
「幸田さんはどうしてるんでしょうか?」
「生きてる、とは思うよ。来なくなったのは年始からで、学年末はこっそり受けさせてもらってたって。進級もしてA組の名簿に名前があるらしいから、籍もまだあるはず」
「話を聞ければ良いんですけど。被害者がふたりも居たら警察も動きやすいでしょうし」
「いいよ、警察は」
「どうしてですか?」
「どうしてって……」
どうしてだろう。警察は味方だ。事件当日だって、親切にうちまで送ってくれたのをおぼろげにおぼえている。
二人組の片方は女性だったし、きっと信じてくれる。でも……。
「とにかく、高城が来るかどうかで変わってきますね。来たなら呼び出して、ぼくが問い詰めてやりますよ」
「それはやめて」
……わたし、すごくウソつきっぽい。これじゃ、ほんとに高城咲綾をダシにしてるイタイ子みたいだ。
「分かりました。先輩の言う通りにします。とりあえず、連中について調べてみましょう」
颯太くんはスマホをいじり始める。わたしは、下を向く。視界には殺人犯の手記。
「高城はアカウントが見つかりませんね」
「裏垢とかも全部消してたから。クラスのグループからも抜けてる」
「学校にはもう来ない気だろうか……」
彼はこちらを見ずに独り言をつぶやく。
気まずい雰囲気。何か会話が起こるたびに、彼にウソつきだと責められるんじゃないかと不安になる。
「この男ですか?」
スマホの画面を見せられる。茂木の顔を見た瞬間、心臓が鷲づかみにされた。
「うん……」
「JK食うのたまんねー、だそうです。まだ昨日の今日ですけど、昨日だけ何も更新してないですね」
茂木優次郎。某私立大学二年。マリンスポーツサークルに所属。
SNSで堂々と「葉っぱ」の話や「JKカルーア」だとか「JKスクリュードライバー」なんて言葉を語る。
「次男だろうね」
どうコメントをしていいか分からず、ついどうでもいいことを言ってしまう。
「どうでしょうか。優しさは二の次って意味かもしれません」
颯太くんが冗談を言う。
「こういうタイプは無自覚にイジメをやるんですよね」
「あっ、ごめん……颯太くんも次男だ」
「そういえばそうでした。最近はすっかり“兄ちゃん”なもんで。幸田さんもSNSの登録はしてるみたいですけど、去年の文化祭から更新がないですね。もともと、あんまり記事の投稿はしてなかったみたいだ」
「もう見つけたの?」
「茂木のアカウントから飛びました」
「茂木と繋がってたの?」
「コイツ、ほかにも更新の途切れた女子と繋がってますね」
「探偵みたい。みんな被害者かな?」
恐ろしいことなのに、少しだけ楽しくなる。颯太くんがちょっとだけ、さくらとダブって見えた。
「どうでしょうか。ロックオンの意味合いかもしれません。このアカウントは監視しましょう。もしも彼が少しでも攻撃的な発言を見せたら警察に」
彼が真っ直ぐこちらを見る。
「……うん」
「それと、一限目が終わったら先輩の教室に行きますから、高城が居るかどうか、居たらどいつかだけ教えて下さい」
「分かった」
「登下校はぼくじゃなくてもいいんで、必ず誰かと一緒に。休日も気を付けて。できればぼくのほかにも相談して、味方を増やしてください」
「う、うん」
トントン拍子に決められてしまう。
「焼き鳥屋に聞き込みに行ったら、かなり有益な情報が得られると思うんですけど。どうしましょう?」
「それは怖いよ」
「ですよね」
「あ、でも。……一緒に、外から様子を窺うだけなら」
「分かりました。でしたら、できそうだったら覗きましょう。怖かったらやめてしまえばいい」
「……うん」
「一応ぼくも、180センチあるんで。運動はちょっと苦手ですけど……」
それからふたりでSNSを漁ったものの、証拠らしい証拠や追加情報は出ずじまいだった。
わたしの頭の中はずっとグチャグチャのままだ。「運動はちょっと苦手ですけど」のあとに続く言葉を勝手に妄想してしまったせい。
時間になって図書室を出る。
階段のところで別れて、教室に行くまでのあいだに、わたしは一粒だけ雨を降らせた。
それでようやく、頭の中が静かになった。
教室に行くと、高城咲綾はまだ来ていなかった。
鈴木が「なんかあったんじゃないの」としつこく繰り返していた。彼の言う「なんか」は連続殺人事件がらみだろう。
水俣は「やらかしたほうだと思う」と強く言った。
みんなは勝手な想像をするふたりを非難した。咲綾の正体を知らないから。
咲綾の席は始業しても空席のままだった。
一限目が終わってしばらくしたら、教室の前の入り口から長身の黒縁眼鏡が覗き込んだ。
クラスの女子が彼を見つけてヒソヒソと話をしている。
わたしは高城咲綾を疑う水俣に捕まっている最中だったから、こっそりと目を合わせて首を振るだけにした。
昼休みには「放課後は委員会の用事で少し遅れそうです」と伝えてきた。
わたしは放課後の退屈な時間を使って、ある実験をすることにした。
とてもバカげた実験だ。
顔が剥がせないかどうか。
もしも剥がれたら、その顔を見たひとを操ることができないかどうか、だ。
いったん図書室に行って、彼がまだ来ていないのを確認してから、校舎のすみの使用率の低い女子トイレへ向かう。
自分の足音を聞きながら、頭の中で「颯太くんがホントに信じてくれてる」のか「イタイさんになっちゃってる」のかがグルグルと回った。
わたしはわたしで水俣を信じなかった。水俣はブロックされていたことも気付いていないのか、特にそれに触れなかった。
メッセージも来ていない。彼女のお尻はいつも通り、足尾恵梨香の席の上だ。
恵梨香が水俣に文句を言っているのを見たことがない。
じつは水俣が良い子だったとしたら、放課後はこっそりとふたりで遊んでいるのだろうか。
「ねえ、そろそろ出して! バイトあるから!」
「バイトしてんの? チクるよ」
「許可取ってるから!」
「ウソくさ、エンコーじゃないの?」
「「「ギャハハハハ!!」」」
汚い合唱が聞こえる。
誰も使わないはずのトイレには、複数の生徒の姿。
奥の個室からは、誰かの声。
A組の“なんとかさん”がしゃがんで、ドアの下の隙間に手を入れて引っ張って、扉が開かないようにしている。
そのそばには顔以外は知らない、ちょっと傾けば中身が見えるほどにスカートの短い……“なんとかさんその2”と、スマホをいじるショートヘアの女子、“久保田小夜子”の姿があった。
笑い声が止まった。
わたしはアホだ。洗面台の前まで来てから、やっと彼女たちに気が付いたのだから。
「こんなとこで何してんの?」
久保田が言った。ほかのふたりはだんまりだ。
「……」
わたしもまた同じく。
中に居るのが誰かは知らないけど、幸田さんを追い詰めておいても、まだこんなことができるんだ。
颯太くんとイジメについてのディベートをしたとき、わたしは比較的中立の立場だった。
イジメられるほうが悪いとまでは言わない。でもきっかけにはなりうる。
イジメるほうも心になんらか苦しみを抱えていて、いびつなメッセージとしてイジメを行っている。
薄っぺらい、本の受け売り。でも、事実だとは思う。
……だけど、わたしは知っている。きっと颯太くんも知っているのだろう。
遠くのできごとと、目の前のできごととでは、同じ理屈が適応できないってことを。
芸能人の誰かが不倫した。メッセージのやり取りが流出した。世間をバカにしたような会見。
バカバカしいニュース。みんなのストレス発散。すぐに忘れられて芸能界に復帰。
……お母さんの腰に回される手。
それから、わたしより背の低いお母さんのほうが、相手の男の人に向かって背伸びをする。
アイドルの誰かが自殺した。可哀想。頑張ってたのに。誰か別のひとが死ねばよかった。
SNSで叩かれたからでしょう。アイドルとしてのありかたに悩んでいた。周りの期待が殺した。だから、その同情も刃物だ。哀悼ソングを歌おう。全員外野。
……帰宅して冷蔵庫のジュースを取り出そうとしたら、兄がぶら下がっていたのが見えた。
彼は「メガネがズリ落ちましたよ」と気丈に笑って語っていた。
「あんたたち、何やってんの?」
わたしじゃない、わたしの声がした。窓の外は土砂降りになっていた。
それに気付くと、身体中の毛が逆立ち、全ての音が濁流に呑み込まれた。
「こっちが聞いてるんじゃん。B組の板井でしょ?」
……うるさい。
わたしは顔を手で覆った。
中指がこめかみに深く、深く入っていく。
茂木に入られたような気がした。
「うるさい!!」
わたしは叫んだ。
それと同時に、顔がべろりと剥がれる感触。
豪雨。雷。悲鳴。うるさすぎるそれらは、全て無音。
一瞬の白い闇の中に、恐怖にひきつる三人の女子の顔が見えた。
「……久保田にやれって言われたから」
「あたしも」
“なんとかさん”たちが通路を塞ぐ久保田の肩を押して、わたしの横を素通りして出て行った。
これってやっぱり……!
「イジメられるほうが悪いんじゃん」
久保田はそう言った。イジメっこのお決まりのフレーズ。だけど、出て行った仲間もスルーして、目の焦点もわたしの遥かうしろで結ばれている。
「中の子に謝って!」
颯太くんは言っていた。兄のイジメについては多くが謎に包まれたままだと。
大学に上がった直後のことで、遺書には高校時代の恨みごと。
自殺するまで家族の誰もイジメについて知らなかった。家では明るいお兄さんだった。
イジメがあったとして、高校時代を生き抜いたのになぜ死ななければならなかったのか。
高校側も事実を認めなかった。だけど、かつての同級生がリークした。担任まで黙認。無関係な誰かもノリで加担。
一度会見を開いた学校は、あとから来たリークを無かったことにした。
わたしは、無かったことにしない。させない。剥がれた顔で久保田を睨む。
「すみませんでした」
久保田が個室に向かって謝罪をした。それから早足でわたしの横をすり抜けて出て行った。
……効果アリ。
個室の中は沈黙している。声も、啜り泣きも聞こえない。
鏡を見た。顔を押さえる。またあの幻覚。違う、本当に顔が変わっているんだ。
手を離すと、もとの顔。
なんなの、これ。
わたしは個室の中に居るはずの子を放っておいて、図書室へと逃げ帰った。
***