問6 剥ぎ取られて、剥いで
「やめてください!」
わたしは叫び、逃げるようにイスから降りる。シャッターの閉じた扉以外に出入り口は見当たらない。
トイレに行った咲綾はどうしてるの?
「大声を出すな」
茂木に力強く押され、壁際のテーブルにぶつかり、強引にその上に座らせられる。
「ちょっと、何やってるの!?」
咲綾が戻ってくる。
「助けて!」
咲綾が思ったよりアクティブな子だったのはさいわいだ。
ふたりならなんとか……。
「なんで、眠らせる前にやってるわけ?」
そう言った咲綾の視線は、わたしの向かいの男に向けられていた。
「起きてるほうがイイからに決まってるだろ」
「外に聞こえない? 十万、約束だからね」
「まえも言っただろ。一人で十万はありえねえって」
「十万! 回してもらったぶんのクスリだって私が立て替えてるのに!」
「佐々木のヤツがやめたから、次にレジからチョロまかしたら俺のせいになる」
高城咲綾と茂木とのあいだで意味の分からない会話が交わされる。
わたしは逃げようともがく。
反して、頭の中はスーッと冷えていく感じがした。
分からないなんてウソでしょう? 咲綾と茂木はグルだ。ほら見たことか。人付き合いなんて! 友達なんて!
「あおいは幸田とは違って、アクティブなんだよ」
「誰でもバレねえって。あとで殺して顔を剥いじまうんだから」
顔を剥ぐ……!?
「あんた、あの殺人事件の……」
「んなわけねえだろ!」
顔を殴られた。グーだったかパーだったか分からない。
痛みも無い。視界が激しく動いて、殴られたという事実だけが身体の芯から力を奪った。
「ちゃんと座れ」
ものすごい力でまた壁に押し付けられる。スカートの下で腿が触られる。
――犯される。
頭に浮かんだ映像はネットで見た動画のようなものではなく、お母さんが知らない男の人に腰に手を回されていたあの瞬間。
あっちは好きでやっているのに、アレと同じになってしまう気がした。
片頭痛のようにこめかみがズキリと痛んだ。
「……やめろ!!」
いっしゅん、誰か来てくれたのかと勘違いした。
これはわたし自身の口から出た言葉だった。
ローファーが相手の胸を蹴って、立て続けに鼻も蹴って、目の横も蹴った。
茂木は顔を押さえてうずくまった。
すぐに逃げようと思ったけど、シャッターは完全に閉じている。更に男は下を向いたまま、こちらへ包丁を突き出している。
「元気過ぎない? ちゃんと飲ませたんだよね?」
咲綾は怒ったように言うと、カウンターの中に入っていった。
「……マジでダイエットのヤツじゃん。眠らせてからするって約束だったじゃん! 幸田のときも大変だったのに! 今日は私らだけなんだよ!?」
「ほかで使ったんだよ」
「マジで言ってんの!?」
言い争うふたり。破れかぶれに入り口まで行って騒げるだけ騒ぐしかない。
ダメだ。茂木が立ち上がり、料理で使うはずのそれをわたしの顔へと近づけた。
「もう一度だけ言う、大声を、出すな」
彼は静かにハッキリと言った。
声を出さないメリットってなんだろ? 何したってされたって、どうせヤラレて殺されるのに?
どこか他人事なわたし。彼の言葉も素通りするみたいだった。
「あおい、静かにしてなよ。イイ目見れるようにしてあげるから」
咲綾がカバンから何かを取り出した。ピルケースだ。
「同情してんのか? 死ぬヤツにやるなよ、もったいない」
「命令すんな。私の勝手でしょ」
「助けて!!」
もう一度叫ぶ。後頭部が壁に激しくぶつけられた。
口を塞がれ、爪が喰い込んだか、それとも包丁か、こめかみのあたりがチクリと痛んだ。
「もういいや。どうせなら私も楽しも。なんか使ったら面白そうなもの無いかな」
そう言って咲綾が手にしたのは金属製の串。
そっか、わたしは夢を見ているんだ。あんな本を読んだせいだ。
夢は深層心理をあらわす。良かったじゃん。わたしは襲う側じゃなくって、襲われる側だったってこと。
しかも、抵抗するなんて根性あるじゃんか。
「やる前に余計なことすんなよ」
「あんたに命令されたくない!」
言い争いが耳に響く。
まただ。夢の中なのに耳と目が、肌が鋭くなり始めた。
茂木は手こずっている。わたしを押さえ付けて、包丁をわたしのこめかみに突き付けたまま、ズボンを降ろそうとベルトをガチャガチャやってる。
あれ? おかしいな。それって両手で足りなくない? やっぱり夢じゃん。
咲綾は金串を束の中に戻している。串同士が当たる音がカチカチと小刻みに聞こえる。
それは、手が震えているからだ。この状況にビビってるんだ。わたしの中の咲綾は、本当は悪い子じゃないから。
シャッターがガタガタと音を立てるのが聞こえる。
これも誰かが助けに来たんじゃない、店の前をトラックが通り過ぎた風圧によるものだ。
「暴れるな!!」
わたしは暴れてるらしい。知らんけど。また後頭部がぶつかる。
茂木の手のひらが、わたしの顔を握り潰そうとしている。
こめかみに茂木の親指が、吸い込まれていく。
ずるり。
茂木の手が滑って離れた? とはちょっと違う……。
「顔が剥がれたぞ!」
茂木が叫んだ。
顔が剥がれた? ……包丁!? 切られたんだ!!
「なんだよ、これ!?」
すっごいビビってる。あんたが包丁で剥いだんでしょうに!
「あは」
わたしの口がひとりでに笑った。
茂木の顔は白く色を失っていく。わたしの顔は真っ赤なのかな。
女の子の顔を剥がすなんて、酷いや。
このひとは、人体模型みたいな顔になった女の子に興奮するのかな。それとも、そっちのほうがマシってこと?
「切ったの? 店を汚したらマズいんじゃないの?」
振り返る咲綾。料理のおたまなんて持ってる。
彼女はわたしを見ると、勢いよく床に崩れ落ちた。
「バ、バケモン……」
自分たちでやっておいてそれはないでしょ。
これは夢だ。夢のお告げ。やっぱり人付き合いなんてしないほうがいいっていうね。
夢なら、わたしだってやりたいようにしたほうが得だ。夢でも性的な行為をするのは気が引けるから、代わりに彼を叩き殺したりはできないだろうか。
さくらならガラスの灰皿やお土産の置物を探すだろう。
襲われても、肝心な部分はカットされそうだ。ドラマだとそう。ごくまれに胸が見えてるやつもあるけど。
やっぱり、こんな状況でも気持ち良かったりするんだろうか。
本で読んだんだけど、女性は恐怖と快楽を感じる脳の部位を一部共有してるらしくて、それが錯覚を起こしてるんだとか。
逃げるチャンスなのに、わたしはどうでもいいことばかりを考える。
だってこれは、夢なのだから。
……どこかでわたしが否定した。
うるさい。夢に決まってる。わたしがこんな風に扱われていいはずが、無い。
「こんなのってないよ。やめてよ!」
わたしが叫んでいる。確かに叫んでいる。
「レイプは良くない。殺そうと考えたのは、バレないために仕方がなかったんだ」
……茂木が言った。
彼は早足で厨房に入り、包丁を片付けた。
「自首すべきだ」
こちらを向いた茂木の焦点は、わたしよりもずっとうしろで結ばれている気がした。
「私も自首します。友達をこんな酷い目に合わせるなんて、最低だ」
座り込んでいた咲綾が立ち上がった。
茂木はわたしの前に戻ると「まことに申し訳ありませんでした」と言って、頭を深々と下げた。
それからお店のカギを開け、シャッターを上げた。
わたしは咲綾に手を取られ、床に足を着けた。
そのまま連れられてお店の外に出る。それから、茂木の手からわたしのカバンを渡された。
「ご迷惑をおかけしました」
ふたりはそろって頭を下げ、夕方の帰宅者でひしめき合う駅前へと消えていった。
「へ……?」
何が起こったの?
夢らしいといえば夢らしいけど。
それでもまだ目は醒めない。
こめかみがズキズキと痛む。
汗だくで気持ち悪い。
顔が剥がれてるのだから、血も洗い流さなくっちゃ。
かえって目立つだろうけど、手で顔を隠して駅のお手洗いを目指す。
わたしを襲ったふたりの消えた方角に行かなきゃいけないのが、なんだか変な感じだ。
たくさんのひととすれ違うけど、誰もわたしのほうを見ない。
蛇口のセンサーに手をかざし、急いで顔を洗う。水は透明なまま。
「切られてない?」
わたしは顔を上げた。
鏡に映っていたのはわたし。わたしじゃない、わたし。
ふたりが言ったように、わたしの顔は確かに剥がれていた。
だけどその部分は赤い血や肉ではなく、墨汁をこぼしたかのような黒だった。
ページを破いたようになった顔には真っ暗な闇があった。そして、目のあったはずのあたりには赤い光の点。
マンガや映画に出てくるようなモンスター。
「ひっ!」
となりの化粧台で若い女性が悲鳴を漏らした。さっきの咲綾と同じ、驚きと恐怖に満ちた表情。
「……ひとの顔を見るのは失礼。怖がるなんてもってのほか」
女性はすぐに無表情に戻り、そう呟くと立ち去って行った。
いっぽうでわたしは冷静だ。もう一度顔を洗う。手触りに別段変わったところはない。
顔を上げれば、いつものわたしの顔だった。
よく見れば、こめかみに小さな切り傷がある。やっぱり包丁が当たったみたい。
この夢はいつ醒めるのだろうか。とにかく帰ろう。顔はバケモノになっても、空も飛べない半端な明晰夢。
襲われてもことに至らなかったのは、わたしの深層意識がどうとかこうとか、本に書いてそうだ。
改札にICカードを当て、折よく来た電車に駆け込む。
見慣れた帰宅ラッシュの車内。だけど、眼から脳に伝達された情報にはアンリアルな雰囲気を感じる。
いっぽうで肌はリアル。汗がじっとりと吹き出し、こめかみや内腿を流れているのがはっきりと分かった。
いまだに鋭い感覚。それでもやっぱり、他人事。
ひとごとだから逆張りを試す。わたしはほぼ満員の電車から吐き出されるひとたちと一体化する。
鉄砲水のように電車から押し出され、エスカレーターに乗る。
本当は推奨されていないのだけど、みんなと同じ片側へと詰め、階段のように使いたいひとのために道をあける。
普段ならわたしは、鉄砲水に紛れ込んだ重たい石ころのように、流れからはみ出して、ひとごみを見送ってからエスカレーターに乗っている。
駅を出て、見知った帰り道を歩く。夢なのに建物もデタラメじゃない。
デタラメじゃないと思っている夢かもしれない。夢は認識そのものがウソになる世界。
「学校からの帰宅ですか?」
警官がふたり。男と女。わたしは自宅の方角を指差し「向こうの住宅街です」と答える。
ふたりは親切にわたしを送ってくれた。
マスコミっぽいひとがこちらに来たけど、警官と何かを話してどこかへ行ってしまった。
警官に「まだ捕まらないんですか?」とたずねると「まだですね」と返される。
うちのドアに手をかける。カギはいつもあいてる。今日もあいてる。不用心。
「おねえちゃん、おかえりっ!」
さくらが出迎える。
語尾がちょっと強い。意訳すると「わたしには気を付けろって言ったクセに、帰って来るのが遅い」だ。
さくらが話しかけ続けている。意味が分からず、その言葉はただわたしの肌をすべり、撫でまわして不快にする。
「お風呂、入りたい」
「ご飯のあとに予約入ってるからまだ沸いてないよ」
わたしは返事をしないで階段をあがった。
それから部屋に帰るとカバンを床に落として、ベッドのかけ布団の上に沈み込んだ。
……。
雨の音がする。
身を起こすと、身体のあっちこっちが激しく痛んだ。シーズン最初の水泳の授業後みたいな酷い筋肉痛。
部屋は真っ暗。時計の針の音がする。アナログの時計。
古い鳩時計だ。おばあちゃんから譲ってもらった形見の品。壊れてハトは引きこもりになった。時計部分は無事。
出てきたら出てきたで、音が気に障るかもしれない。
お母さんはこれを「壊れたんだから捨ててしまいなさい」と言う。お父さんはこれを直そうとして失敗した。
ブレザーのポケットの固い感触に気付き、それを引っ張り出して手探りで充電ケーブルをさす。
わたしは頭からはみ出す混乱を押し留めなければいけなかった。
まだ夢を見ているのか、あれは夢ではなかったのか。
ベッドを降りようとしたら何かを踏んづける。わたしのカバンだ。普段はこんな所に置かない。カバンは大口を開けていた。
中を確かめると……お弁当箱と水筒がない。入れてた部分はポッカリと穴になっている。
自分で出したのか、お母さんか、お母さんに命じられたさくらがやったのか分からない。
階段を静かに降りる。音を立てないように。
夜中に起きるといつもそうしている。
一歩、また一歩と踏み出すたびに、これは夢ではないとハッキリしてくる。
ダイニングのわたしの席にはラップのかけられた夕食一式が並んだままだった。カレーライスとサラダ。
添えられたピンクのメモには「昨日の残りのトンカツが冷凍してあるから、カツカレーにすると罪深いほどにウマい!」と、さくらの丸っこい字で書かれている。
時計を見れば午前3時。カツカレーは罪どころの話じゃない。
胃から空気がこみ上げる。げっぷ。今更になって炭酸がツンと鼻の奥を痺れさせ、炭火と脂のにおいと一緒に抜けた。
「……!」
わたしはトイレに駆け込んで吐いた。出したものを流し、洗面所に駆け込み、蛇口のコックをめいっぱいに上げる。
口をゆすぎ、顔を洗う。
茂木に掴まれた顔の部分が熱を持つ気がした。
顔をこすると、わずかな痛み。こめかみの傷だ。
傷がかゆい気がした。顔の傷を掻くなんてもってのほかだ。
しかし、わたしの指はこめかみに深く沈み込み、
ビリビリと紙を破くように顔面を剥いだのだ。
「……なに、これ」
夢と同じ光景。鏡に映ったのはバケモノのわたし。顔の左上が消え去っていて、「まっくろくろすけ」の中にルビーがひと粒。
顔に触れると、普通の感触。そう見えているだけだ。
“病気”が酷くなったに違いない。神経症とか、なんとか症候群だ。
音が大きく聞こえて、誰かの動作が酷く目について、不快感が身体を駆け巡る、わたしの病気!
とうとう頭がおかしくなって、幻覚まで見えるようになったんだ……。
「おねえちゃん、大丈夫?」
腕に触れられる感触。敏感な二の腕は電気ショックを与えられたみたいに感じた。
振り返ればさくらだ。
「おねえちゃん、その顔、何!?」
さくらは悲鳴を上げた。洗面台に向き直れば闇と宝石。
……幻覚じゃない!?
「これが見えるの!?」
わたしはさくらの肩を掴んで揺さぶる。
おもちゃのように頭が揺れ、その目は虚ろにこちらを見ている。
「……おねえちゃん、大丈夫?」
また、たずねられる。
大丈夫なわけがない。だけど、わたしの口は反対に「大丈夫だよ」と勝手なことを言った。
「おねえちゃんが大丈夫って言うなら、放っておいたほうがいいね。おやすみ」
さくらはニコリと笑うと、洗面所を出て行った。
何、なんなの?
まだ、夢の中なのか。姉妹そろって寝ボケてるのか。
これまでにないほどに身体が敏感になっている。
着慣れた制服や髪の毛ですら不愉快だ。
わたしは鏡を見ないようにして服を脱いだ。
シャワーを浴びるという大仕事。無数の水滴は無数の「気持ち悪い」だった。気持ち悪いを通り過ぎて痛いくらいになった。
ラッシュ時の乗客が全員で罵声を浴びせてくるような、雨の一滴一滴が針に化けるような不快感。
わたしは生きている。確かに。目を醒まして身体に水を受けている。
近所の連続殺人事件も、あの焼き鳥屋で咲綾がわたしをハメたことも、夢じゃない。
お風呂場を出て鏡に映るのは裸のわたし。本物のわたし。顔の幻覚は消えた。
自室へと逃げるように走る。部屋のタンスから着替えを持ってくるのを忘れた。
高校になってから最初の誕生日で自分のタンスをねだり、洗濯された服は部屋の前の廊下に置いてもらうようにしている。
階段で音を立てるのも気にしない。何かから逃げるように。ううん、逃げている。
髪もまだ濡れたままだ。ドライヤーは音がうるさいから朝になんとかする。
病気の話じゃない、親が起きてくるってこと。さくらだけならともかく、親とは話したくない。
わたしはお父さんとお母さんから、逃げている。
部屋に戻ると息が切れていた。
充電の不充分なスマホを鞭打って、SNSを確認する。
高城咲綾はアカウントが消滅している。チャットグループからも消えているけど、まだ誰も気付いていないっぽい。
未読メッセージは颯太くんから。ログは18時。今は午前3時だけど……「ごめん、疲れて寝てた」とメッセージを入れる。
咲綾のヤツ。絶対に許さないんだから。
自分の城に戻ったせいか、ふつふつと怒りが沸き上がってくる。
まだシャワーの音がするのかと思ったら、窓の外では雨が強くなっていた。
咲綾は「十万」って言った。
わたしを十万円であの男に売ったんだ。あんなお芝居までして。
相場的に高くない? いや、安いけど!
「幸田」の名前も出ていた。幸田さん。確か、フルネームは幸田由美だったかな。去年から不登校になった子。本当ならまた久保田と同じA組に通ってるはずの。
久保田とまた同じクラスにされたのは学校側の答え! イジメは確認できませんでした!
自慢じゃないけど、さくらの探偵ごっこに付き合ってる頭脳は、高城咲綾や茂木なんかよりよっぽど賢い。
あいつは久保田のイジメを隠れ蓑に、幸田さんを茂木に売ったんだ。
それが彼女が学校に来なくなったよりあとかさきかは定かじゃない。
だけど、連中の口ぶりからして、犠牲者はほかにも居そうだ。
そして今回は、例の殺人事件をカモフラージュにしてわたしを……。
ベッドを力任せに叩く。スマホが跳ねた。
「……ちょっと待てよ」
夢じゃないのはけっこうだ。理解した。実害は小さな切り傷ひとつ。二、三日で消えるだろう。
あれが現実だとしたら、あのふたりが急に犯行を中止して、わたしを解放して立ち去って行ったのはなんで?
ふたりは、わたしの顔がどうしたとか言ってから豹変した。
駅のトイレでOLっぽいお姉さんがわたしの顔に驚いて呟いたのもおぼえてる。
どれも、さっきのさくらの反応と似ている……。
わたしは顔に触れる。変わったところはない。電気をつけて机の上の小さな鏡を覗き込むも、さっきみたいな幻覚はない。
もう一度顔に手をやる。手のひらの部分で顔を覆い、冷蔵庫のドアを開けるように指たちを顔の側面にあてがう。
また剥がれたり、しないよね?
力を加えると、こめかみに当たっていた中指が、ありえないほどに沈み込んだ……気がした。
スマホが鳴る。
着信だ。河合颯太。
顔から手を離し、電話に出る。
『……もしもし? あおい先輩?』
「うん……」
『こんな夜分遅くにすみません。何かあったんですか?』
夜中にメッセージを返したのはわたしのほうだ。
ふっと、張りつめていた緊張や、逆立った神経や産毛、それから咲綾への怒りが全部、溶けるように和らいでいった。
「ううん、大丈夫。ごめんね、ありがとう。充電ヤバいから切るね。おやすみ」
『……は、はあ。分かりました。おやすみなさい』
通話が切れると同時にスマホが力尽きてブラックアウトした。
酷く眠たい。
ケーブルを挿して置き、ベッドの中へと潜り込む。
すぐに消える意識。
わたしは放課後の図書室の夢を見た。
***