問4 等号、不等号
「やっぱり、募集中だった?」
咲綾は振り返り、意地悪く笑った。初めて見る表情だ。
「そんなところ。藤田と水俣くらいしか話しかけてこないし。友達になろうと言ってなるのも変だけど」
「いいんじゃない。切っかけなんて」
彼女はわたしの席にイスと弁当を持ってやってくる。
「寄ってってなんだけど、じつは友達目的じゃないんだけどね」
「どういうこと?」
やっぱりさっきの話かな。
「誰かとつるんでたら、余計な絡みを無視できそうだからなんだ」
咲綾は真顔で言った。
「去年のクラスの子も、久保田から逃げるための同盟みたいなものだったの。ひとりじゃなかったらあいつ来ないし。そういうの、ダメ?」
「……ダメじゃないと思うよ」
わたしはちょっと微笑む。
「こっちも似たようなもんだよ。休み時間の騒がしいのが苦手で。でも、久保田はここには居ないよ。水俣はどうせそういうの気にせず絡んでくるし」
「今のは言いわけ。久保田に比べたらだいたいのウザい子も可愛いもんだよ。二年連続で久保田と一緒でね。やっと離れられたけど、誰かとつるむのに慣れたので先月は寂しかったのだ」
咲綾は歯を見せて笑うと弁当箱を開けた。
「あ、それ美味しいよね」
咲綾の弁当にはイカの天ぷらのたれ漬けが入ってる。冷凍食品のやつだ。
「時間ないときにはお世話になっています」
「お弁当を自分で作ってるの?」
「うん」
「すごいね。早起きして?」
「仕込みは前日。うちが荒縄市だから、電車、バス、電車って乗り継いで一時間半以上かかっちゃう。だから五時起き」
「五時!? ちゃんと寝れてるの?」
「四、五時間かな。気付いたらいつも日付変わってるし」
「短い。それで持つ?」
「プラス一限目から六限目までかな」
「寝過ぎ」
冗談に笑う。彼女はわたしより後ろの席だから、冗談じゃないかもしれないけど。
「あれよりはマシでしょ」
咲綾はお箸で藤田を指す。
彼は今起きましたというしかめっ面で振り返り、教室の時計に目をやり、大きくて汚いカバンから、パンの袋を取り出した。
だけど中身が空っぽだ。
目がまんまるになった。自分で食べておきながら予想外という顔。
わたしたちは寝ぼけた藤田を見て笑った。
ちなみに、彼のお弁当の中身も三限目と四限目のあいだに胃袋へと消えている。
「なんだよ」
藤田は不満げにパンの袋を丸めて、ゴミ箱へと投げる。透明のボールは床に転がってしまった。
「野球部のクセに。そんなんじゃ三振奪えないよ」
咲綾がからかう。
「ピッチャーじゃないし」
落ちたゴミを拾いに行く藤田。
「球拾いだ」
わたしも便乗する。
ゴミがこちらに飛んできた。危うくお弁当に入りそうになる。
「危なっ」
言ったのは投げた本人だ。ゴミを拾い直して投げずにゴミ箱へ。
「玉子焼き恵んであげよっか」
咲綾が言うと藤田はまたしかめっ面でこっちを見た。
「出汁巻き? 甘いやつ?」
「出汁巻き」
「じゃあ、食う」
咲綾は玉子焼きを箸で突き刺し、藤田のほうに向けた。
「はい、あーん」
「は?」
藤田は怪訝そうな顔をしたけれど、その一瞬前に口の端が持ち上がったのをわたしは見逃さない。
「お母さんと赤ちゃんみたいだ」
「赤ちゃんは寝るのが仕事だしね」
わたしと咲綾はふたりそろって笑い声を上げる。
けっきょく彼は玉子焼きには口をつけずに席へ戻って、昼寝の続きを始めた。
「けっこう面白いね、彼」
玉子焼きを頬張る咲綾。
「咲綾もなんか、こなれてた感じがしたけど」
「そう? 気のせいだよ」
わたしのイメージしていた高城咲綾とは違うキャラだ。
ひとは関わってみるまで分からないものだ。だから面倒。だけど、面白い……。
今日まで、咲綾が誰かとこんな風にしているところは見たことがなかった。
一年二年と久保田と同じクラスだったらしいし、本来はこういうキャラだったのが押さえつけられていたんだろう。
「あおいもノッてたじゃん」
「そういえばそうだ」
わたしも元々はこういうキャラだったのかもしれない。もう、分からなくなってるけど。
ここのところ、河合くんとも冗談を言い合ってるし、うちではもともとさくらと漫才まがいのこともしてる。
やっぱり、今のほうが良いよ。このまま、目や耳がうるさくなる病気が消えてなくなれば良いのに。
「あいつ、いつも寝てるよね」
藤田は起きてると足が貧乏ゆすりになるので、今は起きている判定だ。
「運動すると眠くなるじゃん。海とか行くと帰りはヤバい」
海か。海なんて何年も行ってないな。最後に行ったのは中二のときだ。
お父さんは連休になるたびに「どこかに行こう」と提案する。高校生にもなって家族そろってというのは、少し恥ずかしい。
さくらが病弱だったときは、どこかに出かけたりはあまりできなかったから、そのぶんもってことかもしれない。
わたしは家族付き合いが悪い。外食ですらパスすることがある。さすがに毎回は無理だけど。
さくらはさくらで毎回すごく嬉しそうにしている。
わたしはお出かけでイラつくと、わたしに使われる費用を家庭にバックする代わりに、自分の時間を返してもらいたいと願う。
イヤな長女とよき次女だ。
「サーフィンとかもあんがい疲れるんだよ。板に乗っかってるだけなのにね」
「咲綾って、サーフィンとかするの?」
「えっと、聞いた話だよ。ねえ、放課後どっか遊びに行かない?」
「行く行く」
その日は図書室に寄らず、ふたりでモールまで足を延ばしてウィンドウショッピングとちょっとした食べ歩きをした。
「音」も邪魔をしなかった。
どうやら、わたしにも友達らしきものができたらしい。
次の日は土曜日。日曜日も、月曜日も用事があるとのことで咲綾には誘われなかった。
本当に用事があるのか、「単に毎日や休日まではやめとこうね」という合図か。
グイグイ来られるより、付き合いやすい。さすがにタテマエ込みで応募してきた友達なだけはある。
いちおう、さくらにそれとなくモールに行った話をしたけれど、そっけない反応だった。
月曜日の放課後はいつも通りに図書室へ。引き戸を開けると同時に河合くんがこちらを見た。
「金曜はごめんね。友達と遊んでた」
「別に、来なきゃいけないってわけでもないですし」
こっちもそっけない反応だ。顔は不満そうだけど。
「ここ最近、毎日だったし。待ってなかった?」
「別に。本読んでましたし」
そう言いながら、いまだに同じ表紙のレンガ本を読み続けているけど。
「じゃあ、今日も遊びに行っちゃおうかなあ」
「数学、一次不等式を始めたんですよ」
河合くんはわたしの言葉を遮るように言った。
「どっちが大きいかなんて、見れば分かるでしょ」
「そんな適当な」
彼はしおりも挟まずに本を閉じると、そそくさとノートと教科書を取り出す。
「新単元に入ってすぐに分からないとか、授業ちゃんと聞いてる? 数学の先生、誰?」
「加藤先生です」
「知らない先生だ。うちの数学のハゲ山は分かりやすいよ」
「あんまり、そういう言いかたしないほうがいいですよ」
咎められてしまった。
「ごめん。友達とのノリで。景山先生は教えかた上手いし、ちゃんと聞いてれば分かるよ」
「加藤先生も別に下手だとは思いませんけど」
不満そうだ。どうやら少し怒ってるらしい。
……ちょっと前までなら、面倒くさいと思っただろう。
「河合くん、拗ねてる?」
「拗ねてませんよ!」
うわずる後輩くんの声。
「先生の教えかたが下手じゃないなら、わたしに教わらなくてもよくない?」
口調は尖らせて言ってみるけど、顔が笑ってしまうのをこらえられない。
「それは……」
ちょっと彼が小さく見える。
「わたしに教えて欲しいんだ?」
「そうじゃなくって、話題が無いから、つい……」
「無くてもよくない? ここは図書室ですよ。静かに本を読むところです」
「う……」
あおい>河合。よく分からないけど、わたしの勝ちっぽい。
「さては、お姉さんが目当てで図書室に来てますね?」
「ダメですかね」
真顔で返された。
あおい<河合……。
「ダメじゃないけど。そういうのは、困る」
「そういうのかは置いても、あおい先輩と話すのは楽しいですよ」
あおいー10<河合……。
「わたしも、河合くんと話すのけっこう楽しいよ」
語尾が小なり。
「元々は静かに本を読むためにここに来てたんですけどね」
「わたしも本を……」
違う。
「わたしは、違うかな」
「違うんですか?」
「うん。わたしね、時々、音がうるさくなるの」
「音が?」
「疲れてたり、イヤなことを思い出すと、雑音とか、ひとの動作がすっごく気になって、イライラするの」
「徹夜明けみたいな?」
「似てるけど、もうちょっと酷い。反射的に逃げちゃう。黒板を爪でひっかいたらウッてなるでしょ? 音や動作がだいたいそれみたいに感じるの」
「病気ですか?」
「分からない。でも前はそうじゃなかったの。うちに居るとなりやすいから、放課後はここで時間を潰してたの」
「ぼく、うるさかったですか?」
「そんなこと……あった。河合くん、イジメの話になると周りが見えなくなるでしょ。あれだけニガテ」
わたしはハッキリと言ってしまった。
自分で言っておきながらも、このささやかな関係の破壊を予感してしまう。
咲綾や藤田との絡みの延長線か、ほかに友達ができたことからの余裕か。
それとも、河合颯太自身の持ってるわたしへの好意が原因か。
とにかく、わたしはずっと毛布にくるまっていたはずが、いつの間にかそれを剥がされてしまっていた。
でも、これはやり過ぎだ。
わたしは彼の反応を見ないまま、カバンを掴んで入り口へと逃げようとした。
「待ってくださいよ。叱られたうえに放っておかれたら、ぼくはどうしたらいいんですか」
「知らない!」
イスの脚が床を引きずる音。
家族以外の誰かに触れられるのはいつぶりだろうか。
男子が女子によくやる、肩を掴むような乱暴なやりかたじゃなく、まして恋愛ものみたいに抱きすくめるわけでもなく。
河合くんがわたしの腕をそっと掴んでいた。
引き止めるほどの力じゃなかったのに、わたしは止まった。
それは、さくらが不安になったときにやるのと同じに思えたから……。
「ぼくには、兄が居たんです」
「居た?」
振り返らずにたずねる。
「イジメを苦にして首を吊ったんです。だから、ああいう話になると熱くなっちゃって」
「そっか。だったら、ごめん」
振り返る。だけど顔は上げられない。すごく近い距離。彼のまだ新しいブレザーとネクタイが視界に入る。
「あおいさんが謝ることじゃないですよ」
「でも、キツい話だし。そうなるのもしょうがないよ」
「善悪だけでものを判断してしまうのは、ぼくの悪い癖なんですよ。ものの本に書いてありました。上手に生きたければ、判断の軸はいくつも持てって」
「分かるけど、難しいことだと思う。わたしだって、うるさくなると他のことで判断なんてできなくなるし」
「あおいさんがそうなった切っかけって、なんですか?」
答えられない。彼が打ち明けた以上、話すのがフェアだろうとは思う。
だけど、わたしのきっかけはお母さんの不倫現場を見たことだ。家族の自殺と比べたら大したことじゃない。
わたしのほうが先に切り出して、勝手に逃げようとしたのに、河合くんのほうが重いなんて、ズルいよ。
「あおいさ……先輩には何があったんですか?」
「なんで言い直したの」
うっかり出てしまうあたり、頭の中ではわたしのことをそんな風に呼んでるのだろうか。
こんなときにそんなことを気にするなんて。わたしはちょっとおかしいのかも。
だけど、スッと気が楽になった。
「そっちの話に比べたら大したことないよ。お母さんの不倫現場を見たってだけ」
「こういうのに大したこともないも何も無いと思いますよ。今もずっとそれが引っかかったまま、お母さんとも一緒に暮らしてるんですよね?」
「そうだね……ありがとう」
言えた。否定もされなかった。
見上げると、彼はとても悲しそうな顔をしていた。
「ありがとう、颯太くん!」
「なんで二回……下の名前で呼ぶんですか」
彼はたじろいだ。
「仕返し」
わたしは、もうひとつなにか攻撃をしてやろうと思案する。
大きな身体。でも、痩せ型。最初は怖かったけど、もう慣れたし、後輩相手なら余裕だ。
ふと視界の隅、司書室のガラス窓の向こうに、司書さんが上目遣いでこちらを見ながらコーヒーをすする姿が見えた。
多分、頬が一瞬にして赤くなっただろう。わたしは何もしないで早足で席へと戻った。
「あの、先輩……」
「いいから。不等式やんないの?」
「あ、やります」
わたしはカバンからチョコレートの箱を取り出して、堂々と机にの上に置いてやった。
カカオが73%含まれるチョコレートだ。なん%でも図書室では飲食禁止。
颯太くんはそれを見て司書室の様子を窺ったけど、わたしは気にしない。
「食べていいよ」
勧められるまま彼がチョコレートを口にすると、なんだかわたしの口の中も甘くなった。
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