問3 友達はいりませんか?
「おねえちゃん、おかえりぃー!」
玄関のドアが閉まる音を聞きつけて妹のさくらが出迎えた。
帰宅部のくせにまだセーラー服姿で手にはスマホを握りしめている。
このパターンではたいてい、話したくてしょうがない話題を持っているのだ。
「ただいま。犯人は逮捕された?」
「まだ! なんでその話しようとしたの分かったの?」
さくらの眼は輝いてる。
「分かるよ。あんた、ああいうの好きそうだもん」
「河船で凶悪事件があるなんて初めてだよ。しかも同じ北町! みんな知らないみたいだったから、SNSで拡散しといた」
「うちのクラスにもそういうのが好きなのが居るよ。あんた、入学して早々にそんなことしてたら、変な子だと思われるよ」
「もう思われてる! ミステリー研究部を作ろうとしたので!」
「なんでそんなのを?」
「ほんとは探偵部作ろうと思ったんだけど、それって事件に首を突っ込むってことでしょって生徒会長に怒られたから。ミス研なら審査してあげるって。本よりもドラマとかマンガのほうが好きだけど、ミス研の皮を被った探偵部も良いかなって言ったら、ミス研も却下されて……」
「ちょっと待ってて。お母さんうるさくなるから、先に手洗って着替えてくるね」
「うん」
さくらは話し足りないという感じで、洗面所にもくっついて来た。
話したければ話せばいいのに、わたしが手洗いやうがいをしているあいだは律義に口を閉じている。
まえに一度、「音」がうるさかったときに出迎えられて、ついウザそうにしてしまったことをおぼえてるんだと思う。
「友達はできた?」
ハンドソープを手のひらに出してたずねる。顔を上げたら、さくらのきょとんとした顔が鏡に映っていた。
「できないの?」
「えっ? ううん、できたよ。クラスは良いカンジ。あっ、できてないよ」
急に打ち消したけど、さくらは笑顔だ。
「どっちだ」
「クラスの子は友達じゃなくて、全員あたしの助手なので!」
「あっそ」
苦笑する。
「で、助手をたくさん抱えた探偵さんは何か事件を解決したんですか?」
「してません! これからです!」
「例の事件には首を突っ込んじゃダメだよ。ほんとに危ないんだから」
「危なくないと思うよー。絶対に怨恨じゃんか。金品をそのままにしておきながら、死んだあとに顔を剥ぎ取るなんて」
「剥ぎ取るなんて。そんなことまで書いてたっけ?」
「小西くんが言ってた。近所のひともそう言ってるって」
「小西の弟がね……」
小西は小中と同じ学校だった男子で、その弟はさくらと同級生だ。
近所に住んでいても意外と顔を合わせないもので、中学の卒業式以降は一度も顔を見ていない。
「現場は小西くんちの裏だって。警察の聞き込みとマスコミも来たんだって。うちにも来たかもしれないけど、昼間は誰も居ないからなー」
「ふうん」
小西に限った話じゃないけど、高校の違う連中とは疎遠になっている。
わたしはスマホを持ったのが高校に上がってからだったから、彼らとは連絡を取り合っていない。
繋がりがあればもっと情報が手に入っただろうか。
さくらには首を突っ込むなとは言ったけど、わたしも気になる。
河合くんとの会話の内容も、多くは事件に関わることだった。
それと、中学のころの話をした。
中学のころのわたしはまだ、ひとを避けるようなことはしていなかった。
“あの日”から、わたしの中の歯車が噛み合わなくなってる。
擦れ合う歯車がイヤな音を立てて、わたしの耳を苦しめるんだ。
もう一人のおばあちゃん……お母さんのお母さんが倒れたときに、急いで報せるためにパート先のスーパーに行って……裏の納品所で……お母さんと男のひとが……。
排水溝が水を吸い込む音がする。わたしもそこへ流れ落ちてしまいそうだ。
「おねえちゃん? 水出しっぱなしだとお母さんに文句言われるよ」
わたしは黙って蛇口のコックを下げた。
「大丈夫? 何かあったの?」
さくらはすぐに心配をする子だ。
「無いよ」
「あるでしょ。今日のおねえちゃん、妙だもん」
「なによ、妙って」
「さっき、おねえちゃんから話を振ってきたもん。いつもは黙って手を洗うし、黙ってうがいをする」
「黙ってうがい」
「さては浮気だねー?」
さくらの顔が睨むように鋭くなった。探偵ごっこ。
白状すると、こちらから話を振ったのは河合くんとの会話でテンションが上がっていたからだ。
だけど、ちょうど考えていたことがお母さんのアレだったから、わたしは驚きを露骨に出してしまっていた。
鏡に映ったわたしの顔はドラマみたいに「驚きました」って様子で、それを見たさくらの表情も、一瞬だけ心配を深めた。
「おねえちゃん、浮気してるの?」
我が家の探偵は半笑いだ。
「彼氏すら居ないし」
「ほんとにー? 毎日帰りが遅いようですけど」
「部活だよ」
「見え透いたウソ! テニス部は二ヶ月でやめたじゃんか。洗濯物にもジャージやタオルがありません!」
わたしは返答に詰まった。帰りが遅いのはずっとだ。
図書室に居るのはやましいことじゃない。だけど、あえて話さないでいたから。
「怪しいバイト、とかじゃないよね?」
さくらがわたしの腕を掴む。
「うちはバイト禁止だし」
「高校のバイト禁止なんてあってないようなものだよ。それにあたしは、怪しいバイトと言いました」
「しないって」
パパ活とかか。さいわい、この手の話はわたしの感知する範囲には聞こえてこない。そもそも、聞こえないように密かにやるものか。
「死体を洗ったり、小麦粉を届けたりしてない? もしもし、ばあちゃん。俺だけど? とかさ。おねえちゃん、借金に困ってるならお小遣い貸すよ?」
「そっちかい! 借金なんてどこからでてきたのよ」
「浮気と借金はサスペンスのお約束なので! そっちって、どういうバイトを想像したのかなー?」
ニヤニヤ笑いのさくら。
「パパ活とか援交とかだけど」
わたしは直球で返す。
「やめなよ、そんなのぉ」
さくらは顔を瞬く間に赤くして両手で覆った。
「恥ずかしいなら振るな。帰りが遅いのは、図書室で読書したり課題をやってるからだよ」
「なんだ、つまんない。毎日図書室?」
「あんたはわたしにどうなって欲しいんだ。毎日だと悪い?」
「悪いよ。おねえちゃん、友達居ないでしょ」
真顔だ。
「充分だよ」
「答えになってない」
「友達の定義による」
「居ないんでしょー。屁理屈こねてもバレバレ!」
「理屈こねるのはあんたの姉だからだよ。言っとくけど、今日とか男子とずっと喋ってたし、途中まで一緒に帰ってたんだからね」
「やっぱり男! 大事件じゃんか! 清楚の象徴、窓ぎわの文学少女の化けの皮がついに剥がれた!」
「誰が文学少女だ」
「お相手はおいくつのかたで?」
“エアマイク”がこちらに向けられる。
「ふたつ下。一年生だよ。忘れ物を届けてくれたついでに話をしただけの関係です」
「年下趣味とは意外ですねえ。身長は? 部活は? 収入は?」
「身長は……180センチはありそう。顔も悪くなくてメガネをかけてる。部活は入ってないって。収入も無いよ」
河合くんとの会話を思い出す。
彼は最初から帰宅部だそうだ。わたしが入学したときは絶対にどこかの部活に入らなきゃいけなかったのに、ちょっとズルい。
「無収入! お父さんはそんな男、許しませんからね!」
「あんたと同い年の高校一年生だっての。そろそろどいて。着替えてくる」
「はーい。キスマークとかないよね?」
襟を引っ張られる。わたしはボケ続けるさくらをスルーして部屋へと戻った。
さくらとこういうノリで会話をするのは楽しい。
「友達、か……」
クラスメイトとの仲は悪くはないつもりだ。あえてこちらから絡まないだけで。
去年は中学も一緒だった子たちとカラオケに一回だけ行ってるし、文化祭の買い出しのついでに遊んだりもしている。
とはいえ、会話できる程度とかクラスメイトも友達に含めるなら50人以上は居るけど、放課後に頻繁に会わなければ友達じゃないといわれたら、友達はゼロだ。
休日も大抵は家で、“これ”をつけてひとりで過ごしている。
学習机の上に赤いイヤーマフ。完全な遮音はできないけど、無いよりはマシ。
一階や隣の部屋から聞こえてくる幽かな物音が気になってしまうのだ。せっかくの休日までイラつくのはごめんだ。
もちろん、屋外でも欲しくなることがあるけど、目立つし、なにより危ない。イヤホンをつけて自転車に乗りつつスマホを弄ってるヤツは、転べばいいと思う派だ。
休日は本を読むか勉強。
それからずっと考えごとをする。人生のこと、人付き合いのこと。わたしの“病気”のこと。それから昔のこと。
あとは運動不足の防止のために、たまーに休日の早朝に走ってるのと、ベッドの上でちょっとした筋トレやストレッチをしている。
人ごみに出かけることは避ける。誰かと遭遇すると面倒だし、万が一に「音」が気になるようになると困るから。
モールみたいに初めからうるさいと分かってる場所はあんがい平気なんだけど、誰かとの遭遇率が高いからやっぱり用事があるときにしか行かない。
同級生でも面倒だけど、万が一、お母さんが居たら、困るから。
お母さんの“アレ”を見てから、わたしは外に出かけられなくなった。
やっぱり、友達が居ないと、遊びに行った話ができないとマズいのだろうか。変なんだろうか。
さくらはわたしを心配している。
あの子はわたしが中学にあがるころまでは、よく高熱を出す子だったから、みんなが心配をした。
入院しておかあさんも一緒に泊まり込むなんてことも何度もあった。
それでもさくらはちゃんと元気で良い子に育った。みんなに心配されたぶん、みんなのことをよく心配するし、時々やたらと鋭い。
サスペンス好きなところは、寝ながらテレビやマンガの世話になっていたせいだろう。
『おねえちゃん、ほんとに何もないよね?』
スマホにメッセージが届いている。隣の部屋なのに。
『ないよ。ありがとう』
お礼を返すと、SNSへのリンクが貼られた。
何かと思って飛んでみると、知らない高校生……さくらの高校の二年生の子のページだった。
『バイト先のひとが殺されたんだけど。マジ勘弁』との発言がある。
『知ってた?』
『知らなかった。名探偵だね』
『このひとのページ辿ると、バイト仲間のところにも飛べるよ』
辿ると、某ファミレス店舗のバイト仲間が出てきた。
テレビでは「飲食店」どまりだったから、新しい情報だ。コメントをつけ合ってるひとには、現行で務めてるひと、辞めたひと、無関係なひとが入り混じっている。
殺された室井和美は少し前に大学を辞めていたらしく、学校にはあまり顔を出していなかったようだ。
とうぜん、彼自身のSNSは殺された5月7日に更新が停止している。
ファミレスのバイトリーダーとやらになって、店長から正規採用を持ちかけられていたみたいだけど、「ここに務めていて正社員になろうって気が起きるわけない」なんて偉そうに書いている。
彼へのコメントは事件前までゼロに等しかったけれど、事件後は三桁近くに膨れ上がっている。
心配の声もあるにはあるけど、野次馬っぽいコメントのほうが目立っていて、無関係同士のケンカまで勃発している。
彼の投稿自体も意識高い系な内容ばかりだし、これがずっと残るのは死んで恥を晒すという感じだ。
わたしはSNSは偽名で見る専だから、死んでも何も残らない。
ネットの普及前は当たり前のことだったんだろうけど、それはちょっとだけ寂しいことのような気がした。
ぼんやりとコメントを眺めていると、さくらがまたURLを貼った。
百田千尋。河船学園高等学校三年A組。隣のクラスの子だ。
三月まで室井と同じファミレスのバイトをしていたらしいけど、もう辞めているみたいだ。
さくらから“おねがい”している絵文字が送られてくる。『めんどい』と返したら瞳をウルウルさせた絵文字が返された。
『この子、クラスや授業が一緒になったことすらないよ。さすがに野次馬で事件のことを聞くのは無理』
『ですよねー』
この調子だと、明日には学校中に知れ渡っているんじゃないだろうか。
百田千尋さんの顔も思い出せないようなわたしでは、何も情報は引き出せそうもないし、放っておいても勝手に聞こえてくるだろう。
その後もSNSやニュースをチェックしたけれど、続報はナシ。
だけど、いつの間にか「室井和美は顔を剥がされて殺された」ってことが定説になっていた。
翌日は“顔剥ぎ殺人事件”のウワサで持ち切りだった。
拡散野郎の鈴木は満足げに教室を見渡している。別にあんたの功績じゃないから。
教室はいつになく騒がしかったけど、わたしにも関心のあることだからか、気に障ったりはしなかった。
わたしとしては、これがチャンスに思えた。
この空気感なら、自然に会話をして、誰かと友達らしいことができるんじゃないだろうか。
正直に言って面倒なことだけど、さくらの心配を打ち消せるような話のひとつやふたつを作っておきたい。
「なあ、あおい。この事件っておまえんちの近所だろ?」
「そうだけど。あんたんちの近所でもあるでしょ」
「いや、割と遠い」
話しかけてきたのは、斜め前の席の藤田だ。こいつは却下だ。
男子はなぜか女子を「おまえ」と呼ぶ。無礼だ。
「あおいの知ってるヤツ?」
「知らないひと。通る用事がないから、見たこともない場所かも」
「でも、怖いよなあ。殺人鬼が近くにいるかもしれないんだぜ」
「怨恨でしょ。犯人に怨みを買ってなきゃ平気じゃないの」
さくらからの受け売りだ。
「じゃあ、次は久保田だな」
「それだとうちの学校の生徒が犯人になるじゃん」
「こわ。んなワケないか。友達に人殺しが居たらさすがの俺もビビるわ」
さすがの俺ってなんだ。
「ねえ、藤田。友達ってなんだと思う?」
「は、友達? 俺とおまえとか、俺とユータとか、俺と水俣とか……」
藤田はクラスメイトを適当に指差していく。
「あんたと友達になったおぼえは無いけど」
「中学一緒だったじゃんか」
「遊びに行ったこととかもないし」
「行くか?」
ちょっと彼らしくないニヤけた顔。
「お・こ・と・わ・り!」
「ケチだな。遊びに行かなきゃ友達じゃないなら、俺は友達少ない……つーか居ないな。部活終わったら帰って寝てるし、土日も部活だし」
藤田は天下の硬式野球部だ。
朝練をしていて、わたしより早い時間からグラウンドで汗を流している。
「部活の子は友達じゃないの?」
「部活は遊びじゃねーの! そういうおまえは友達居んのかよ。本が友達だってウワサされてんぞ」
「あんたこそボールとバットが友達でしょ。ちゃんと友達居るし!」
ちゃんと居る……。
わたしの頭によぎったのは図書室の彼だ。放課後はすでに読書ではなく、河合くんに事件の話を振ることを決め込んでいた。
「あっそ」
藤田は不満そうに言うと前を向き、床に置いた大きくて汚い鞄からスティックパンを一本取り出してかじった。
河合くんは友達、だろうか。友達になれるだろうか。
昨日は「あおい先輩」とニ十回は呼ばれたと思うし、友達じゃなくて、先輩後輩の関係かな。
放課後、いつものように図書室へ。引き戸を開ければ、いつもは視線を本に落としたままの黒縁のメガネがこちらを見た。
彼は立ち上がらない。でも、わたしから視線を外さない。わたしは最近の中途半端な席ではなく、昨日の彼がやったように斜め向かいの席へ行き、カバンを置いた。
みずから望んでやったことだけど、これだけで一日分のカロリーを使った気がする。
「授業、お疲れさまです」
「お疲れさま。例の事件、ウワサになってた」
「うちのクラスもです」
さっそく、事件に関する話を始める。
河合くんのクラスには勇猛果敢にくだんの三年A組の百田さんへ突撃をした男子がいたらしい。
ところが、A組をたずねると、久保田が誰か女子の机に足をかけてもてあそんでいた最中だったらしく、久保田に睨まれてそのまま退散。
その男子が言うには、その机の持ち主は久保田にイジメられているのではないかということだ。
「久保田は誰彼構わずにイジメるよ。わたしもやられてる子、何人も見てるし」
「そうなんですか。不登校になったひとも居るって聞いてますけど」
「“幸田さん”だね」
「あおい先輩は黙って見てるんですか」
「そりゃね。クラスも違うし、あっちには権力あるし、目をつけられたらイヤだし」
「ですよね。でも、みんながやられてるなら、みんなで反発すればどうにかなりそうなのに」
「むしろ、みんなやられてるから、しょうがないってなるんじゃないかな。運が悪かったんだよ」
「悪いのは運じゃなくて久保田ですよ」
「そうだけどさ。飽きられたらターゲットはそのうち他に移るって、一緒のクラスになった子が言ってたし」
「久保田に狙われたりしないでしょうか」
河合くんの表情は深刻そうだ。
「聞きに行った子が? 無いでしょ。仲の良い子なの?」
「仲が良いというほどじゃないです。ただ、教室を覗いたときに、久保田のスカートの中を見ちゃったって言うから」
「そりゃ、気付かれてたら嫌がらせのひとつはあるかもね。足を乗っけてたのが久保田のほうだとしても」
「ですよね」
「まあ、よその階までイジメには来ないよ。妙にイジメに反応するけど、河合くん、過去に何かあったの?」
たずねておいて自分で驚いた。わたしは、普段はこんなおせっかいなんてしない。
「ぼくは何も。あおい先輩に心配されるようなことは無いですよ」
「そう?」
「そうですよ」
彼は眼鏡を外して、特に何をするわけでもなくまたかけ直した。
……そうは思えない。「まだ話す仲じゃない」ということ。そりゃそうだ、昨日初めて口を利いた相手なのに。
わたしは調子に乗ってたっぽい。頬が少し熱くなり、反対に身体の芯が冷える気がした。
次第にこちらから話は振れなくなり、河合くんの話の相槌ばかりになる。
ずーっとイジメの話をしている。昨日は本の話や中学の話、「弟や妹のあるある話」でも盛り上がれたのに。
何が悪で何が善か。イジメられるほうに原因があるなんて責任者たちの言いわけだ。
河合くんが熱弁を振るう。
少しイヤだと思った。少しだけ、怖かった。
ディベートがしたいわけじゃない。イヤな音を聞いたり、目障りなものを見ないで済ませるためにここに来たのに。
「……ごめんなさい」
おもむろに河合くんが謝った。何を謝ったのかは言わなかった。
わたしは返事ができなくて、彼も言葉を継げなくて、そのうちにレンガみたいな小説を開いて。
それからまたページをめくる音が……。
しなかった。彼はゆっくりと読んでいた。ページをめくるときも、まったく音が聞こえないように、静かにめくっていた。
この場を立ち去ってしまいたいような、留まっていたいような気がした。自分の気持ちが分からない。
わたしはカバンから数3の教科書を取り出して、ありもしない課題をすることにした。
静かな図書室。本来のあるべきかたち。近くに座っているのにお互いに居ないふりをして、だけどすごく気にしている。
わたしが無意味な勉強にシャープペンシルを置くと、彼もレンガ本を置いた。
「数学、苦手なんですよ。中学の証明問題から」
「わたしも得意ではないかな。文系の授業取ってるし。数学は妹が得意。四月にあった実力テストは妹にまでダメ出しされちゃった」
「ぼくもたまに弟の勉強を見ますよ。さすがに小学校の算数は大丈夫です」
「わたしは今年度で受験だから、一年の数学なら教えられるよ」
「因数分解くらいなら分かりますって」
そう言いながら河合くんはカバンから教科書とノートを取り出す。
生意気な探偵がわたしの中で笑ってる。
帰らなくて良かったと思う。
微妙な関係、先輩と後輩。
そんな日々はしばらく続いた。
あの事件の犯人は捕まらない。ウワサは「剥がされた顔は持ち去られて、まだ見つかっていない」なんて無責任に膨らんで、そのまま二、三日で忘れ去られた。
「イタイさんってさー。彼氏居るでしょ」
唐突な振り。昼休みに静かにお弁当を食べていると、水俣に声をかけられた。
「獲物を見つけたぞ」と言わんばかりの顔だ。今は彼女のお気に入りの恵梨香は美化委員会の呼び出しで教室に居ない。そのせいか。
水俣はあるじの居ない机から尻をどけると、わたしの席の前へと回り込み、机にあごを乗っけてささやいた。
「放課後に図書室で密会デート。お相手は背の高いイケメン」
ほうれん草のゴマ和えを飲み込もうとしていたときだった。ゴマだけが吸い込まれて変なところに引っかかりむせてしまう。
口の中に居残っていたご飯粒が飛び出して水俣の顔にくっついた。
「ご、ごめん!」
わたしは立ち上がろうとして机に引っかかった。
水筒のカップの水面が揺れる。水俣は素早くカップを支えると、わたしを見上げて「いいよ」と、とても嬉しそうな顔をした。
それから顔についたご飯粒を取ると、それを食べた。
キモイと言いたいところだけど、わたしのせい(?)だし、黙るほかない。
「突っ込みも否定もなしだね」
「彼氏じゃないよ」
「彼氏予定?」
「予定でもない。ただ、たまに話をするだけ」
「なんだ残念。進展があったら教えてね」
「ヤダ。そういう話が聞きたいなら田中さんへどうぞ」
「吐くほど聞かされたわ。あいつのSNSなんて写真集が出版できそうだよ。イタイさんのだから価値があるんじゃんか」
「なにそれ!」
「なんでしょうね~。図書室の彼はどんな子かな~」
水俣はわたしをからかうだけからかうと教室から出て行った。
大声を出したせいか、何人かのクラスメイトがこちらを見ている。
教室に居づらくなってしまった。かといって、水俣がどこに行ったのか分からない以上、図書室に逃げ込むのはナシだ。
じつを言うと、河合くんと話すようになってからは、何度か昼休みにも図書室に顔を出している。
昼休みは放課後よりも図書室の利用者が多いから元々は通っていなかった。
だけど、彼が昼休みに居たことはない。別に、水俣がからかったように気があるとかそんなんじゃない。ただ、ここよりマシだからだ。
水俣が個人的に図書室に行くなんて思えないし、わたしたちのことはどこから漏れたんだろうか……。
「ねえ、あおいさん」
思案しているとまた話しかけられた。面倒なことになってきた。
やっぱり、人付き合いなんてするもんじゃない。
顔を上げれば意外な人物。高城咲綾だ。
カテゴリー的にはわたしと同じ、おとなしめの子。今年になって初めて同じクラスになった。小中も別だ。
「なに? 高城さん」
「咲綾でいいよ。ねえ、聞いたんだけどさ……」
さっきの話か。本当にげんなりしてきた。
「友達募集中なんだって?」
咲綾はそう言うと、わたしの斜め前の席を振り返った。藤田は四限目からずっと寝ている。あいつめ……。
「別に募集とかしてないけど」
「そうなんだ。残念。去年までよく喋ってた子と別のクラスになっちゃって」
からかいに来たわけじゃないらしい。言葉通り、残念そうな顔をする咲綾。
彼女は自分の席へと帰ろうとした。
「待って」
わたしは彼女を引き留めた。
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