問21 割り込まれて、割り込んで
「百田さんがどうしてここに……。この近所に住んでるの?」
「もう、モモって呼んでくださいって言ったじゃないですか。うちはこのあたりじゃないですよ。私も水俣さんを探してたんです。そしたら彼にバッタリ会っちゃって」
颯太くんの横の女子は楽しげに笑っている。わたしはちょっと面白くない。
「ひろちー先生は先輩にして貰ったように、久保田にイジメられてるときに水俣澪さんに割って入ってもらったことがあるそうです」
彼の口から謎の先生の名前が飛び出した。
「えっ、誰先生って?」
「ひろちー先生です」
颯太くんはズボンのポケットから一冊の薄い文庫本を引っ張り出した。
表紙では無個性っぽい男子が色んな女の子に囲まれている。
「ラノベ?」
「ひろちーは百田さんのペンネームなんですよ。先日見せてもらったイラストになんとなく見覚えがあったので、蔵書を漁ったらじつは彼女の著書を一冊持っていたんです」
鼻息荒くライトノベルを見せ付けられる。
「私の著書じゃないよ。私がカバーイラストと挿絵を担当した本」
「ふうん……。颯太くんはこんなのを読むんだ」
タイトルは「兄サマに私以外に四十人の妹ができたと思ったら、全員が多重人格だった!?」だって……。
妹っぽい女の子が好きなのかな。
そういえば、このふたりは同じメガネをかけている。並ぶと兄妹に見えなくもない。年齢は逆だけれど。
「イラスト買いしたんです。あと、この薄さでどうやってそれだけの登場人物を動かしているのか興味が沸いて」
「内容は面白いの?」
たずねると苦笑いだけが返ってきた。
「私も仕事だから読んだんですけど、キャラ名が百以上もでてくるから理解できませんでした。お兄さんが妹四十人ぶんの全人格の名前を呼ぶシーンは笑っちゃった」
「このページですね。全部、妹の人格名なんですよ」
キャラクターの名前だけで埋まったページを見せられる。
ストーリーがほんの少し気になったけど、聞かないほうがよさそうだ。
「私が担当するラノベって色物ばかりで。割にも合わないのにこのまえはシリーズものの挿絵を依頼されちゃったからお断りしちゃった」
「先生の担当した本は全部買いそろえますね」
颯太くんは横に居る先生を見下ろして、人懐っこい笑顔を浮かべた……!
「ね、早く水俣のことを探しに行こう」
わたしは颯太くんの腕を引っ張る。
「あおいさんは彼女の行きそうなところとか知ってます?」
モモがたずねた。
「分からない……。小中も一緒だったけど、学校外ではほとんど絡みが無かったし。わたしが思い付くような場所はもう、みんな探されてるかも」
「そうですか。でも、私も居ても立ってもいられなくって。兄さんには出かけないように釘を刺されたんですけど、飛び出して来ちゃいました」
「お兄さんは厳しいの? 心配性だったりする?」
「そこまででは。どっちかというと、私が兄さんを縛ってる感じです」
「そうでなくっても心配する状況でしょう。ぼくもさっき、隼人には遊びに行くなよって言ってから出てきましたし」
わたしは昨日に言い争ってから、ひとこともお母さんと会話をしていない。お父さんとも顔を合わせずじまいだ。
どっちもさくらの部屋はたずねたのに、クラスメイトが殺されたかもしれないわたしは放置だ。
「先生は水俣さんと仲が良かったんですか?」
「私もさっぱり。でも、私にとっては大事なひとなんです。久保田に文句を言ってくれたので。あおいさんが助けてくれたときとは違って、彼女は言い返されちゃってましたし、嫌がらせも止まらなかったんですけどね」
「あおい先輩は水俣さんが余計なことばかりするって言ってましたけど、そうでもなかったみたいですね」
は?
わたしは思わず足を止めた。
確かにそう言ったけど、わたしは水俣が良い子だったとも言ったはずだ。
「私もどっちかというと、久保田と同じタイプの子だと思ってたんですよ。一年生のときは同じクラスだったので」
「水俣さんもイジメとかしてたんですか?」
「あのひとは小夜子とはあんまりつるんでなかったかな。誰にでも賑やかに絡んでましたけど」
ふたりはわたしが立ち止まったことに気付かずに歩き続ける。
颯太くんの横顔は、いつものイジメに対する怖い顔じゃない。同じ学校の生徒が殺されたかもしれないのに、楽しそうだ。
昨日はわたしは高熱を出して心配してくれたっぽかったけど、裏では“ひろちー先生”のことを調べて浮かれてたのかな。
「あ、一度だけ余計なことを言ってるのを聞いた覚えがあるかも」
「なんですか?」
「久保田がすっごく機嫌の悪い日があって、あれはたしか……足尾さんだったかな。足尾さんがとばっちりを受けてたときに水俣さんが教室にウワサ話をしに来て、寄りにも寄って幸田さんが久保田のお気に入りの男子バスケ部の子に告ったのを暴露しちゃったの。そしたらその場で久保田は大爆発だよ」
「それが原因で幸田さんがイジメられたりしたんでしょうか?」
「かもしれない。でも、もともと体育館の使用権でバスケ部が男女で揉めてたから、女バスはみんな久保田に嫌われてたみたい。久保田ってけっこう甲斐甲斐しくて、部活の休憩中にグラウンドからわざわざスポドリ届けに来たりしてたんだって。知り合いが言ってた」
……わたしにはなんとなく分かる。水俣は小夜子の矛先を恵梨香から逸らすためにバラしたんだ。
あの子は面倒な性格ではあるけど、悪い子じゃない。恵梨香のための苦渋の策だったのかもしれない。
もともと、ひとの事情に首を突っ込んでウワサ話を集めて回るたちだったし、幸田さんのことをオトリにしておきながらも、気にかけていたんだ。
そうこうしているうちに、久保田小夜子やその周囲の泥沼に足を突っ込んでしまった……。
『澪の行きそうなところで、まだ探していないところある?』
足尾恵梨香にメッセージを送る。今日は荒れて早退してしまったし、返事は期待できないかもしれない。
送ってからハッとする。
恵梨香は水俣から何か聞かされていた可能性がある。だったら彼女も絶望的なのを分かっているはずだ。
意識させるようなことをして、わたしは何がしたいんだろう。
こうやって探しているのもバカみたいだ。住宅街や駅前の道路をペチャクチャおしゃべりしながら練り歩いたって、捜索の足しにはならない。
個別でメッセージを送ったのも、昼間に荒れたから気をつかってます感が丸出しじゃんか。
恵梨香からしてみれば、わたしは薄っぺらく見えるだろう。
わたしの前を歩く二人はもっとサイアクだ。気付けば颯太くんはイラストの話に戻っている。
ひろちー先生とやらも彼には敬語じゃなくってタメ口に変わってるし。
『澪の行きそうなところは昨日で探し終わってるよ』
返事が来た。スマホの向こうの恵梨香はわたしに何を思うだろう。
『探してくれてありがとう。探すなら、犯人が澪を棄てそうなところを探したほうが良いと思う』
発見するための視点としては正しい考えだ。だけど、彼女はこのメッセージをどういう気持ちで入力したんだろうか。
改めてこんなことを言わせるなんて、わたしはサイテーだ。
『諦めないで』
指が勝手に送信した。サイテーだ。
『あおいちゃんは澪のこと、ちゃんと心配してくれるんだね』
あおいちゃん。懐かしい呼びかた。
小学校のころはよく呼ばれていたけれど、今はそう呼ぶ子はもう居ない。
『恵梨香は本当は澪と仲が良かったんだよね? パッと見は机に座られてるばっかりだったけど』
『澪から聞いたの?』
『モールで買い物してるの見ちゃったから』
『恥ずかしい。別に変な関係とかじゃないんだけど、一応は秘密だったから。小学校のときに私がイジメられてるのを見つけて先生にチクってくれたんだ。それから、澪はずっと私の机をイスにしてる。私はそっちのほうが良いから何も言わないの。あの子は自分がみんなに好かれてないのを知ってるから、内緒にしててって言われてたんだけど。でも、あおいちゃんなら知られても良いかな。澪はあおいちゃんが久保田を殴ったことを褒めてたし』
『殴ってないんだけど……』
『そうなの? 久保田小夜子をぶちのめしたって言ってたから』
『尾ひれがついてるよ。睨んで怒鳴っただけ。もしかしたら、その久保田小夜子の周辺が怪しいかも。澪は小夜子やその交友関係を探ったりしてなかった?』
『してた。澪は久保田の悪事を暴くって張り切ってた。あんまり捗ってなかったみたい。だけど、幸田さんが来なくなった決定打は久保田小夜子じゃなかったって言ってた』
やっぱり水俣澪は茂木たちや真犯人に辿りついてしまったということだろうか。
それとも、恵梨香を守るために幸田さんを差し出したことを言っているのだろうか。
『もしかして、澪が居なくなったのは久保田のせいで、顔剥ぎの殺人事件とは関係ない?』
文字だけでも分かる。恵梨香の心に希望が生まれてしまっている。
着信。足尾恵梨香。
恵梨香らしくない嬉々とした声で問いただす幻聴が聞こえた。「もしかして澪はまだ生きてるの?」。電話に出る勇気なんて、ない。
わたしは『ごめん。わたしは久保田もその殺人事件に関わってる気がしてる』と返事を送った。
それから返事は来なくなった。
気安く割り込むべきじゃなかった。一度希望を与えてから打ち砕くなんて、わたしは小夜子以下だ。
だらだらとうちの近所まで歩き、いまだお気楽なおしゃべりに興じるふたりに「うちに荷物を置いてくる」と伝え、手早く用事を済ませる。
玄関に靴はない。あのひとは今日もパートだ。こんな状況でも男と一緒なんだろうか。
戻れば、ふたりはまだおしゃべりをしていて、話のキリが良くなるまで、こちらを見もしなかった。
はは。わたしだってひとのこと言えた義理じゃないじゃないか。
わたしはバカじゃない。お母さんと違って、状況が分かってる。自分のことが分かってる。
水俣澪のことを心配していない。もうダメだと思っている。
それを認めたら、わたしたちの住む世界がバラバラになってしまう気がするから、まだ生きていると信じているフリをして探す。
そのためには見つけてはいけないから、見つかりっこないところをブラつくだけだし、余計なことを考えないで済むように颯太くんにそばに居て欲しくて引っ張り回そうとしている。
だけど、百田千尋が来てしまった。
あの子がわたしと颯太くんのあいだに割って入ったので、余計なことを考えなきゃいけない。
わたしは嫉妬をしている。颯太くんを取られたような気がして。
ふたりを直視できなかったから、わたしは自分で自分の気持ちを誤魔化すために恵梨香と澪のあいだに入った。
もしかしたら仲の良いふたりへの八つ当たりかもしれない。
わたしは腹を立てている。守るとか責任を取るなんて言ってくれたはずの彼が、わたしを放って前方を歩いているのに。
「キミたち、高校生だよね? 河船学園の水俣澪さんって知ってる?」
住宅の玄関から見知らぬ……違う。さっきの若い男性記者が現れた。
「知りません」
颯太くんが答える。
「本当に? そっちの子のスカートは河船学園のだよね?」
記者がモモのスカートを指差す。
モモはスカートを手で押さえ、颯太くんは記者と彼女のあいだに立ち塞がった。記者よりも颯太くんのほうがずっと背が高い。
「怖い顔しないでよ。キミは彼氏くん? うちはこういう雑誌を出しててね……」
記者はショルダーバッグから雑誌を取り出した。
そして彼が顔を上げると、わたしと目が合った。
「……うしろの子は知り合い?」
記者の顔色が悪くなっていく。
「あおいさんは、この大きな彼の彼女だよ」
モモが答えた。
「えっ、そ、そうなの? 水俣さんはまだ見つからない? 何か事件について知ってることある? ないよね。遊び歩くと警察に叱られるから気を付けてね」
記者は視線をわたしたち三人あいだで泳がせまくってから、雑誌をカバンに押し込んで、別の住宅のインターホンへと逃げた。
彼は住人に門前払いをされたようで、去りぎわにチラッとわたしのほうを見た。
わたしは黙ったまま歩き、彼ら全員を通り過ぎてやった。
逃げたってしょうがない。終わらせることを考えよう。
ああいうヤカラも事件が続く限り、このあたりをうろつき続ける。あれはわたしたちの世界を壊す異物だ。
彼以外に記者っぽいのは見かけていない。水俣澪が失踪したことを掴んだのは今のところは彼だけなんだ。
今のうちに解決しないと、同じような異物でわたしたちの町や学校が埋め尽くされてしまう。
「用水路とかゴミ捨て場とか探しに行こう。河川敷も捜査員が居なかったら見てみよう。ほかの遺体はそういうとこで発見されたでしょ?」
今日は暑い。顔が剥がされて打ち棄てられていたら、水俣は腐ってしまうだろう。
あんなでも女の子だ。わたしの知人だ。恵梨香の大親友だ。
「まだ亡くなったとは限らないですよ」
「そういうところはもう、警察が探してるんじゃないでしょうか。私たちがやってるのって、自己満足みたいなものですし」
ふたりの発言がわたしの神経を逆なでた。
「早く見つけてあげたいの。死んでなくっても動けなくなってどこかに放置されてる可能性だってある! 一度探したところでも、あとから警察の目を盗んで捨てた可能性だってあるじゃんか! もっとちゃんと探してよ!」
「先輩、落ちついて」
「あおいさん、どうしたの?」
心配されると腹の中が煮えくり返りそうだった。こめかみも脈打つ。
わたしが勝手に荒れてるだけ。初めから探そうとなんてしないで、警察の情報を待つだけにしておけばよかった。
わたしはふたりを放って、ただまっすぐ歩いた。水俣澪を探す。探すんだ。
彼女の家の付近にするか、学校付近にするか。久保田の家や出歩く場所が分かれば、そっちを捜索するんだけれど。
「待ってください。また、お母さんのことで何かあったんですか?」
颯太くんに肩を掴まれる。
わたしは激しく身をよじって振り解く。
「違う、そんなんじゃない! 澪を見つけないと。澪を見つけて、終わらせないと……」
「先輩のせいじゃないですよ」
「そんなこと思ってない!」
「なら、それでいいです。だけど、無理に探さなくたって」
「何言ってるの? イヤなら、モモと喋ってれば? わたしひとりでも探す!」
「それはダメです!」
腕を掴まれた。痛い。
「なんなの? わたしの勝手でしょ? 束縛しないで!」
「束縛でもなんでもいいです。だけど、ぼくは見つけたくない。あおいさんにも、見つけて欲しくないんです」
腕が放され、そっと肘に触れられる。
黒縁メガネの下で、彼の目は少し赤くなっていた。
声も、震えていた。
わたしのひとり相撲だ。
河合颯太くんはお兄さんの遺体の第一発見者だ。
わたしが彼を焼き鳥屋の事件に引きずり込み、世間を騒がせる殺人事件へと近付けさせた。
わたしの事件や病気も簡単じゃない。それは彼もよく分かっているはず。
だけど、お兄さんのことが傷になっている彼は今、わたしよりも怖いはずだ。
それを紛らわすために、モモに絡まなきゃいけなかったのだろう。
確かめたい。分かりきってはいたけど、彼のホンネで、わたしのこの「分かった」を肯定して欲しい。
それでちゃんと謝って、お礼を言いたい。
こめかみが呼んでいる。
だけど、モモが不思議そうにこちらを見ている。
気付けばわたしは、ふたりのもとから走り去るわたしの姿を見下ろしていた。
見つけられないように、追い付かれないように。でたらめに角を曲がって、近所だけど見慣れない路地へと逃げる。
「……」
膝に両手をつき、肩で息をする。
どこかの住人が勝手に路地に置いてるゴミ箱が視界に入る。青くて大きい昔ながらのバケツ型。
わたしは「逃げたんじゃなくて、捜索していたんですよ」と言わんばかりにそれを開ける。
酷い悪臭。吐き気をもよおし嗚咽する。ここで死体なり顔の一部なりがでてきてくれれば良かったかもしれない。
中には生ごみがたっぷりと詰まっている。わたしはすぐにふたを閉めた。
おかしな話だ。死体を探すなら、これを引っ繰り返すくらいのことはするべきだろうに。
言いわけ。ただ逃げているだけ。
吐きかけたからか、別の理由か。わたしは涙をぬぐい、路地を抜けてから鼻をすする。
スマホの震えを感じてチャットを確認する。
『捜索の協力、ありがとうございました』
恵梨香からの個別メッセージ。他人行儀。
その一言でたくさんのことが分かって、泣いた。
閑静な住宅街。わたしは迷子の子供になる。
颯太くんは来ない、モモも来ない。通行人も通らないし、マスコミすらも来てくれない。
誰かが見つけてくれるまで泣き続けなきゃいけない気がしたのに、わたしの涙はさっさと枯れてしまった。
スマホにメッセージの通知が溜まっている。それも沢山。今もアプリのアイコンにくっついた数字が増え続けている。
アプリを開いたら見えるのは、恵梨香からのメッセージの続きだろうか、クラスのグループで飛び交う水俣への哀悼のメッセージだろうか、それを見ればまた泣けるだろうか。
それとも、颯太くんやモモからだろうか。それは心配だろうか、非難だろうか。
逃げる場所も行く当てもなく歩き続けると、河川敷沿いにでた。うちの近所を流れる稲谷川。
川幅はそこそこあるけど、水深は見るからに浅い。
捜査員や報道関係者は見当たらない。木倉翔が見付かった場所からは少し離れているのだろう。
以前はよくこの川沿いをジョギングしたものだ。この先をずーっとまっすぐ行って、道路のほうにそれて、もうちょっと先に河船学園がある。
熱を入れて走っていた時期には、登校前の時間に学校までの道を半分くらいまで来たりしたっけ。
河川敷は早い時間でも誰かが居る。
同じようにジョギングをするひと、犬の散歩をする人。早朝の光景は夕方の今と少し似ている。
部屋に籠りっぱなしなのがイヤで運動不足の解消ついでに走っていたけど、知らない人ともそれなりに挨拶をしていたっけ。
ひと月くらい前のことなのに、ずっと昔のことみたいだ。
まるで平和だった日々の全部が夢だったような。
「そっか、夢か」
帰ろう。帰って寝よう。目覚めれば、全部が夢だったことになるかもしれない。
それがわたしの、最後の逃げ場所。
わたしはきびすを返す。
この道の先に、もう用事はないから。
「……は?」
川の向こう岸に見知った女が歩いている。わたしの知らない、背の高い男と一緒に。
「お母さん、何してんの?」
分かっているのにひとりごちる。男と女は密着している。さっきの颯太くんとモモみたいに。
いつかの、スーパーの裏の納品所で見たときみたいに。
わたしの手はスマホを操作し、SNSやチャットのアプリではなく、カメラを起動した。
撮影、撮影、撮影。
まだ電池残量に余裕がある。動画、撮影。
男が腰に手を回す。女はくすぐったそうにして、その手からのがれる。
彼女は男の前へと回り込んで、彼の胸へと手を置き、ヒールなのにさらに背伸びをして、キスをした。
わたしは土手を駆けおりる。均一に刈り取られた草が、青くさいにおいを鼻腔に届けた。
見晴らしのいい土手の上の男女。
……わたしの家の近所! ご近所さんや顔見知りも使う道!
最近まで警察がひしめき合って、顔の剥がれた死体が打ち棄てられていた場所!
わたしはこのまま放っておくと、ふたりがこの場で性交渉を行う気がした。
ローファーに冷たい川の水が流れ込むのが分かる。靴下の細かい目に水が入り、わたしの皮膚から骨までを凍らせた。
ジャブジャブと間抜けな水音としぶきが上がる。ふたりがこちらを見た。
猿と犬と豚を合わせたようなつら!
わたしは浅い川を走る。あのふたりは閉った扉のようにまだ密着している。
そのあいだを目掛けて古代ローマの破城槌のように、六本足の駿馬のようにわたしは水を蹴り続ける。
跳ね上がる水滴を見て、トマトソースのパスタの味を一瞬だけ思い出す。
女は男を押し退けるも立ちすくんだ。
男は逃げた。走って逃げる。
走れ! 走れ! そのまま消えろ!
わたしは這うように土手を駆けのぼる。口から獣の唸り声みたいなものが聞こえた。
居たぞ。ずっと探していた。やっと見つけた。スーパーで働くにしては小綺麗な女め!
「お母さん?」
わたしはたずねる。繰り返したずねる。「お母さんだよね?」と。
「今のひとは誰? 何をしていたの?」
お母さんは震えている。わたしも足が冷えて寒い。心は、分からない。
「あっ、あ、あおい……」
何も言わせない。言わせるもんか。タテマエなんて、聞きたくない!
「ただ本当のことを、話して」
こめかみに中指と薬指が挿入される。剥がされる顔。
お母さんから貌が消えた。
遠くを見る目。わたしを見ているのに、見ていない目。
「彼が誘ってきたから、つい。副店長でね、苦労してるの。お客さんと、店長と部下に挟まれて。本社からも圧力があって。可哀想なの」
……は?
「わたしは!? 家族は!? こんなことして、わたしたちが可哀想だと思わないの!?」
「私は悪くない。お父さんが気付かないのがいけないのよ」
「悪くないのはわたしも同じじゃんか! ずっと良い子にしてたのに! なのにどうして!?」
わたしは叫んでいる。いつもなら、それを上から眺めるわたしが来るはずなのに、来てくれない。
スマホが震える。
わたしはそれを捕まえて、お父さんとの個別メッセージを開く。
少し前にわたしを心配してくれたときの履歴が見えた。
わたしはメッセージに、さっきの動画を貼り付ける。
もう何もかもおしまいだ。
わたしの世界は壊れてしまった。
だからって家族まで壊すことないでしょ、って?
そういうもの、なんだよ。颯太くんが両親の離婚を受け入れたように。わたしも、そうしなきゃいけない。
――新しく始めるには、徹底的に破壊しつくさなきゃならないものだから。
「さよなら」
わたしは最後にお母さんを見た。表情は取り戻されていた。お母さんも泣いていた。
指は勝手に送信を押してくれない。わたしは自らの意思で、親指を運ぶ。
「待ってください!」
男の子の声。
振り返れば彼が居た。
河合颯太。わたしの後輩くん。いつも恰好が付かない、来るのがちょっと遅い子。
「あおいさん、それはお母さんのホンネじゃありません!」
彼はそう言うと、自らの手で口を覆う仕草をした。
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