問2 おひとりさまの時間
板井あおいの指定席。わたしが勝手に決めただけだけれど。
通路や話題の本を置いた棚から離れていて、かどの席で、窓には近いけれど、柱と束ねられたカーテンのお陰で眩しくない、すみっこの席。
そんなちょうど良い場所に、知らない男子が座っている。
座っていても分かるくらいに背が高く、髪は黒のくせっ毛。制服の真新しさと四月から現れたことから、一年生だと思われる。
顔は……フチの黒いメガネをかけていて、下を向いているところを盗み見しただけだけど、二ヶ月前まで中学生だった割には大人っぽいというか、老け顔かな。まあ、悪くはない。
授業が終わって真っ直ぐにここへ来てると思われる。
わたしもそうだし、一年生の教室なら二階の渡り廊下を通ればすぐにここへ来れる。わたしたち三年生は四階だから遠い。
連休のうちに存在をすっかり忘れていたけど、“彼”のせいでわたしの「おひとりさまの時間」が絶賛侵害中なのだった。
座る席が変わるだけでモヤモヤしてしまう。
……だけれど、今日はSNSの監視や本の調べもので忙しくする予定だから、大目に見てやろう。
きっちりとまとめられた本棚の本たち。文庫や新書は出版社や背表紙の色で綺麗にそろえてあって、単行本はジャンルごとで高さや色もマチマチ。
前者は眺めて気持ちが良くて、後者はタイトルを読み上げていって選ぶのに楽しい。
新書の棚にも有益なものが紛れているけれど、まずは分かりやすく単行本の棚から漁る。
犯罪心理学とやらの本と、殺人犯の手記を一冊持ち出して席に着いた。
“彼”が来てから、席はランダムに選ぶようにしている。
正反対の位置に座ると露骨に避けているみたいでいやらしいし、入り口や通路に近くなってしまう。
かといって、ひとの来づらい奥を選べば“彼”と近くなってしまう。
一度“彼”の居ないときに、例の席を奪還しようと思ったのだけれど、あとから彼が来た場合に気まずいから断念した。
案の定、その日も彼はいつもより遅い時間に来て同じ席に着いたので正解の判断だった。
犯罪心理学の本を開く。専門用語とか小難しい話はスルーして、犯人が「いかにしてそうなったのか」を掻い摘んでいく。
無料で読める図書室だからできる読みかた。買った本だともったいなくて、奥付けや参考文献のページまで一文字も逃さずに目を通したくなるだろう。
専門的な単行本は高いから、自分で買うことはないけど。
図書室通いになってから、本屋にもよく行くようになったものの、インクのにおいに満足して終わりなのが大抵だ。
有名な文学は図書室に一通りはそろってるし、現代小説は読まなくはないけど何を読めばいいか分からないし、専門書は高いし無駄にしそう。
よくある「儲けかた」とか「ひとを操作するテクニック」みたいなうさんくさいのは手に取る気もしない。
雑誌もイマイチ。クラスの子は流行りのお店や服について載ってる雑誌をよく読んでるけど、わたしには縁がないものかもしれない。
こうして考えてみると、わたしは図書室に入り浸ってるくせに「よく読むジャンル」とか「お気に入りの本」を持ち合わせていない。
もともと、図書室に入り浸り始めた理由がひとを避けるためだから、それでも構わないのだけれど。
犯罪心理学の本はアメリカの本を翻訳したもので、多くは有名な連続殺人事件を扱った内容だった。
わたしが気になることを探すなら、「サイコパス」とか「ひとを憎む心理」のほうを掘り下げたほうが良さそうだ。
殺したあとに人間の顔を傷付ける理由や、そんなひとの心理とは……?
一息ついて、SNSをチェックする。
鈴木がしつこく例の事件の記事へのリンクを貼ってる。
こいつは事件や災害のあったときが一番生き生きしている。そういうのは専門的なアカウントに任せとけばいいのに。
「もしかして、例の事件について調べてるんですか?」
唐突に、頭上から声が降ってきた。
わたしは恥ずかしいくらいに肩を跳ねさせてしまう。
見上げれば黒縁メガネだ。
「……近所、だったから」
「ぼくも現場の近所なんですよ。だから気になって」
“彼”の視線はわたしの顔でも本でもなく、机に置きっぱなしのスマホに向けられていた。
例の事件の記事を映した画面を咄嗟に隠しつつ、迂闊に返事をしたことに後悔をした。
「怖いですよね。あとから顔を傷付けたって書いてありましたよ」
「そ、そうだね」
どちらかというと、今のこの状況のほうが怖い。わたしは座っていて、背の高い“彼”は斜め後ろから覗き込んできている。
図書室にはほかに誰も居ない。カウンターも今は無人だ。
ここで上手くやり過ごさないと、今後の「おひとりさまの時間」に響くことになるだろう。
「先輩はいつもここで本を読んでますよね。本が好きなんですか?」
こともあろうか“彼”は斜め向かいの席に着席し、会話を個人的な話題に切り替えてきた。
「え、えっと……」
どもってしまう。こんなのは不意打ちだ。
本来なら「対話」という場面が設定されていれば、相手がよほど変なヤツでない限り、ちゃんと受け答えできるし「音」や「仕草」にイラつくこともない。
「ぼくはあまり好きじゃないんですよね」
「好きじゃないんだ……」
じゃあその手に持った分厚い怪奇ミステリーはなんだ。
「先輩は本、好きなんですか」
二度も聞くか。
「……普通かな」
いちばん面倒くさいパターンらしい。話しかけること自体が目的の説が濃厚だ。
「二年生ですか、三年生ですか? ぼくは一年C組の“河合颯太”です」
「わ、わたしは三年B組の……」
言いかけてやめる。相手がクラスまで言ったからつい釣られてしまったけど、知られても面倒なことしかない。
「三年B組?」
追撃だ。
頭の中でとあるドラマのコールがリフレインする。お父さんが休日にDVDを見てるせい。
どう返事をしよう……。
「板井あおいさん、ですよね」
「なんで名前を?」
ヤバい、ストーカーか。
なんて思ったのもつかの間。彼は“とあるカード”を差し出してきた。
「これ、落としてましたよ。GW前だったから司書さんに預けておこうかと思ったけど、カウンターにも奥にも誰も居なかったので」
河合颯太の差し出してきたのは、わたしの図書カードだった。
この学校は図書室運営に力が入っていて、機械読み取り式のしっかりした磁気カードが学生全員に配布されている。
その割にはここは閑散としているけど。
「あ、ありがとう」
お礼を言ってカードを受け取る。
河合颯太はもう一度「怖いですよね、事件」と言って元の席に戻って行った。
どうやら考えすぎだったみたい。
単純に忘れ物を渡すために話しかけたんだ。
いきなりカードを出すのも変だと思って、少し会話を挟んだ。それだけのこと。
忘れ物を返すのにも切っかけが必要なあたり、わたしと同類なのかもしれない。
気を取り直して、手記のほうを開く。
わたしが生まれるよりも前に起こった、少年が子供ばかりを狙った連続殺人事件。
これも犯行のひとつに殺したあとに遺体を損壊しているケースがある。
猟奇殺人のお手本のような事件だ。
普通の子供だった彼がおかしくなっていくさまが、小説のように飾り立てられながら書かれている。
フィクションならそれなりの作品だと思う。どんどん引き込まれて行く。
そのうちにわたしは、本から目が離せなくなった。
開けてはいけないものを開けてしまった。見てはいけないものを見てしまった。そんな気がした。
創作物にはときおり「悪人」が出てくる。常にその社会に反する性格のひとで、「純然たる悪」なんていうものだ。
逆にさくらが好きなサスペンスの犯人には「訳ありの殺人者」が多い。
恵梨香の机に座る水俣や、A組の久保田もきっと訳あり側だろう。
だけど、重大事件の犯人や猟奇殺人をする人間は「悪人」なのだろうと思い込んでいた。
この本を記した殺人者も初めから狂っていて犯行に理由なんてない、そう思っていた。
まともな子供から徐々に倒錯し、取り返しがつかなくなっていく少年。
幼少期から厳しいしつけを受けて、他者に攻撃を加える性格に。
次第にエスカレートする非行。両親は彼を「信じ」、見て見ぬふりをしている。
どうしよう……。
わたしは、殺人者の気持ちにいくつかの「分かる」を見つけてしまった。
繋がってしまったのだ。わたしとこの人殺しが。
他人に迷惑をかけないように生きているつもりだし、人殺しなんてとてもじゃない。
誰かを殴ったことすら……さくらの頭を引っぱたいたことくらいはあるか。
ともかく、絶対に自分が属していないと思っていた世界とリンクしてしまった。
これ以上読み続けて、「分かる」が増え続けたらと思うと、怖い。
本を閉じればそれで終わりだろうか?
今は、ひとの首を絞めて殺したあとに顔を傷付けるような人間が、わたしの家の近所に居るかもしれないのだ。
「悪人」はすぐそばに。
「分かる」よ。本当に悪いのは親だ。とくに「母親」。
わたしのお母さんだって、悪いひとなのだから。
「音」が聞こえ始めた。……ぺらり、ぺらり。
ほんの幽かな、分厚い文庫本の、薄いページのめくれる音が。
河合颯太。わたしの席で怪奇ミステリーを読む一年の男子。
ずっと聞こえてたはずの音が大きくなった。また“病気”だ。
図書室では一度も経験してなかった“病気”が始まった。
ぺらり。ページがめくられると同時に、顎のあたりからくだって胸から背中に突き抜けて、羽で撫でられるかのような寒気がした。
神経が逆立ち、鋭くなり、五感の全てがわたしをさいなむ。
「おひとりさまの時間」が消えて無くなってしまう。
開いたままの手記を焦点も合わせずに視界におさめ、それとなしに頬杖をつくようにして音が聞こえてくる側の耳を塞いだ。
本をめくる音が、うるさい。
だけど、このまま「怖い手記」に引きずり込まれるよりはいいのかもしれない。
ぺらり、ぺらり。反対側の耳が執拗に「音」を拾う。
視界の端で河合颯太がページをめくっている。
逃げ出したい。
手記は大きく口を開けてをわたしを待っている。お母さんの金切り声が呼んでいる。棚に戻すことも閉じることもできない。
河合颯太は何も悪くない。カードを届けてくれた良い子だ。
逃げ出したい。
わたしは四月のあいだはずっと、彼がそこに居ても知らんぷりを貫いて最終下校時間まで本を読んでいたから、こんなに早い時間に飛び出して行ったら彼は変に思うだろう。
もしかしたら、さっきの絡みが原因だと考えて彼は傷付いてしまうかもしれない。
世界からはじき出されるような感覚。ううん、世界に呑み込まれてしまうような感覚。
わたしは「音」を誤魔化すために手元の手記を読まずにめくってみた。
内容は目に入れないように注意を払って、速読とやらのフリをしてめくり続ける。
ぺらり、ぺらり。河合颯太がページをめくる。わたしも合わせてページをめくる。
良かった、このペースなら本の内容も頭に入って来ない。
……あれ? あの子が読んでるのはレンガみたいな文庫本で、わたしのはそれほど文字の詰まっていない単行本だよね。
ちらと河合颯太のほうを見る。
やっぱりちゃんと読んでない。読み飛ばす感じでページをめくり続けている。
「今日はダメだ」
彼は大きな独り言と一緒に本を閉じてしまった。
本を机に置き、それからメガネも外して本の上に置くと、座ったまま机に寝そべるかたちで背伸びをした。
大きな体。長い腕。彼の細長い指が向かいの席のパイプイスの背もたれに届いてそれを掴むと、イスと机がぶつかって音を立てた。
その音は、ページをめくる音よりも小さく聞こえた。
「……見られてた」
彼は身を起こすとはにかみ、眼を擦ってからメガネをかけた。
わたしはそのさまをしっかりと顔を向けて、ガッツリと見ていた。
彼は立ち上がり、さっきと同じわたしの斜め向かいの席にやってくる。
「先輩、ぼくもその本を読んだことありますよ」
「わたしは、もう読まない、かな……」
そう言ってようやく本を閉じる。閉じれた。
「恥ずかしいですよね、なんか」
「恥ずかしい?」
「著者が中二病っぽいっていうか。ぼくが読んだのが中二のときだったんですよ。それでわざとそんな風に書いたんだって分かって。よく書けすぎなんですよ。細かく覚え過ぎだし。格好なんてつけて。バカですよ」
「彼が人殺しになったのにも理由があって」
「反省してないっぽい書きかただと思いませんか? 他人事みたいな。みんなをバカにしてるみたいな。加害者が書いていい文体じゃない」
「謝罪や更生を示す目的の本じゃないかもしれない」
「じゃあ、なんだと思います?」
「自分を育てた家族への復讐、とか……」
反射的に反論してしまった。なんでわたしは殺人犯を擁護してるんだ。
「なんにせよ、誰かを殺すなんて許されませんよ。猫にしたって同じ。殺された本人もそうですし、その家族や知り合いだって、たまったもんじゃないです」
「そうだね」
「たとえ、殺したのが全部じゃなくって、半分だったとしても、良くないことだ」
「半分? 半殺しってこと?」
「身体じゃなくって、心とか、心の一部ってことですよ。ぼくのクラス、もうイジメがあるんですよ。どうかしてる」
彼は少し怒っていた。
「だから図書室に?」
「あ、ぼくはイジメられてませんよ。名前は“可哀想の河合颯太”ですけど。それに今は放課後ですよ。学校がイヤならさっさと帰りますって」
ひと懐っこい笑み。思ったよりよくしゃべる子だ。
「うちも小学生の弟が友達を呼んでゲームしててうるさいんで、こっちで読書とか課題をしてるんですよ。先輩もそういうクチですよね?」
「……うん」
わたしと同じ“うるさい”なのかな。でも、そこまではちょっと聞ける気がしない。
「……」
会話が途切れる。無言で見つめ合ってしまう。
顔を逸らすのもなんだか変だし、手記にも戻りたくない。
「帰りますね」
彼が立ち上がった。
「えっと、別に……河合くんが邪魔とか、そういうことじゃないよ」
「また明日も来ますよ。たまには小学生に混じってゲームをするのも良いかなって思っただけです」
引き止めるのも悪いか。……引き止める?
彼は鞄を掴んだまま、またひと懐っこい笑みを浮かべた。
「帰って欲しくないですか?」
「別に!」
わたしが思わず声を荒げると、河合くんは声を立てて笑った。
「顔が変わった」
「変わるよ、そりゃ」
「先輩、先月からずっと同じ顔してましたよ。真顔以外は見たことなかった。まるで、わざと顔を変えないようにしてるみたいだった」
「知らない。本読んでただけだし。先輩先輩って言うけど、別に知り合いじゃないし、同じ部活でもないでしょ」
「呼びたいだけですよ。先輩って、言ってみたかったんですよ。中学のときはそんな言葉を使う雰囲気じゃなかったんで」
「わたしの中学のときは部活の子に普通に先輩って呼ばれてたけど」
「先輩も河船一中ですか?」
「そうだけど」
「だったら、板井先輩はぼくが中一のときに同じ学校に居たわけだ」
「その呼びかたやめて」
「先輩は先輩じゃないですか」
「そうじゃなくって、苗字」
「じゃあ、あおい先輩?」
河合くんは自分で呼んでおきながら、背伸びを見られたときと同じようにはにかんだ。
「照れるな」
と言いつつわたしも顔をそむけてしまう。あおい先輩。“病気”とは別のくすぐったさ。
「あおい先輩、イジメを受けてませんか? 名前とかで」
「とかって何。確かにイタイって弄られてるけど、そんなの一人だけだよ。頭が小学生の子なの。イジメとか、そんなんじゃない」
水俣は面倒な子だけど、小学校のころからの顔なじみだし、好きか嫌いかを聞かれれば真ん中程度なのだ。
「それならいいですけど……」
歯切れの悪い返答。今度は彼が真顔になっている。
「今の三年生にはヤバいのが居るって聞いたことありますよ」
「A組の久保田でしょ。あれは理事長の姪だから」
「理事長の姪とか関係無いですよ。イジメは悪だ」
河合くんは机に両手をついて言った。やっぱり背が高い。わたしは見上げる。津波が迫るように彼の影が覆い被さる。
「そうだけど。わたしはイジメられてないから、大丈夫だから」
身を引いてしまう。正直、少し怖い。
「……おっと、ごめんなさい」
彼はわたしの気持ちに気付いたのか、もうひとつ離れた席に移動した。
「無駄に身体がでかいから。よく怖がらせるんですよ」
「バスケとかバレーとかしてそう」
「スポーツは全然。インドア陰キャのオタクですよ。あおい先輩は部活はしてないんですか?」
メガネをクイッとしてまた笑顔。
「テニス部に入ってたけど、やめた。中学ではソフテニだったし、ここは硬式しかないし、あんまし真面目じゃないから」
「うちのクラスにも女子テニス部いますよ。体育教官室の横のコートで練習してると、先生がガン見してくるって言ってました」
「生指のフルタチでしょ。わたしも練習中に見られてる気がしてたんだけど、多分マジだよそれ。夏休み明けとか髪色のチェックで、髪色を見るフリして女子のにおい嗅いでるってウワサ」
「それで古舘先生なのに“フル勃ち”って呼ばれてるんですよね」
「河合くん、それセクハラ」
「ごめんなさい」
彼は首を縮める。でも笑っている。
「いいよ。でも、一年生の五月なのにもう色々知ってるんだね」
「SNSやチャットで話が出回ってますからね。入学が決まった時点でもけっこう、ウワサとか来てましたよ。理事長の姪の話とかもそうでしたし」
「ウワサといったら、うちの担任のキンパチがAVコーナーから出てきたって話が……」
「シモの話じゃないですか。先輩ズルいですよ」
「女子が言うぶんにはいいの!」
声を立てて笑い合う。
いつぶりだろうか、さくら以外の誰かとこうやって談笑をするなんて。
しかも、今日初めて口を利いた下級生の男子が相手だなんて、前代未聞のことだ。
笑い声を聞きつけてか、司書室のガラス窓の向こうでパソコンに向かってる司書さんがこっちを見ていた。
四十くらいの女性の司書教諭。彼女はちょっと歯を見せると、モニターに向き直った。
それから、わたしは河合くんと会話を続けた。
いつもの帰る時間に図書室を出て、電車を降りて駅を出て左右に分かれるまで。
お喋りのせいで電車内での視線がちょっと痛かったけど悪くない時間。
こうしてわたしの「おひとりさまの時間」は消えて無くなったのだった。
***