問10 土曜日のラーメン
土曜日。平日と同じ早い時間に目を醒ましてしまった。
颯太くんとの図書館の約束は午後からだ。
「珍しい。おはよう」
「……おはよう」
お母さんとあいさつを交わす。休日は普段は朝食を食べない。昼前まで部屋に籠っている。
元気をつけておきたくて食パンをかじりに出てきたのだけれど、うっかりしていた。土日だからといっても、お母さんは休みだとは限らないんだった。
お母さんは週四でスーパーマーケットのパートタイマーをしている。
元日と年に数回の棚卸日以外は年中無休でやっているお店だ。土日のほうが忙しいから、休日は出ていることが多い。
おもに売り場に商品を並べたり、値引きをしたりしているらしい。
何年か前に、この家を購入するさいに、頭金やローンの補助として始めた仕事だ。
お父さんは「俺の給料だけでも払い切れるぞ」と言っていたそうだけど、そのころはさくらの体調もしっかりしてきていたし、おばあちゃんの後押しもあって働きに出たのだ。
その一年後におばあちゃんが亡くなって、またちょこちょことさくらが体調を崩すようになったけど、お母さんはパートを辞めなかった。
さくらが少し可哀想だったけれど、わたしが中学に上がると同時に、あの子はケロリと健康体になった。
姉妹はふたりとも私立高校。わたしはうちから近いだけで学費が無駄に高いところ。さくらはちょっと頭の良いところ。
もう少し頑張れば、さくらは学園じゃないほうの河船高校も射程圏内になったのだけれど、「余分な勉強が無駄になるリスクを考えたらこっちが無難」とかよく分からない計算をして決めていた。
わたしたちはお小遣いもしっかりともらっている。贅沢な高校生活ができるのはお父さんのそこそこの高収入(具体的な数字は内緒らしい)と、お母さんの補助のおかげだ。
さて、わたしはパンを焼く計画を取り止めて、ガラスコップを棚から取り出し、牛乳だけ飲んで部屋に引っ込むことにする。
「あおい」
「何」
「あんた今日、出かけちゃダメだからね」
牛乳を注ぎ過ぎてこぼしそうになった。
「なんで?」
「当たり前でしょ。あんな事件があったのに。まだ犯人も捕まってないでしょ?」
「ぶち殺されて顔を剥がれるようなことしてないし」
してなくてもされかけたけれど。
わたしはあえて「殺される」という強い言葉を使った。
「殺す」とか「死ね」とか、小さいころからそういう言葉を使うなと咎められていた。
女の子だからやめなさい。お母さんはイヤなの。
一方でさくらは学校を休んだ日に昼のサスペンスや探偵アニメの録画を観ていたから、不穏な言葉もよく口にしていた。
あの子はしょうがないの。可哀想だから。お姉ちゃんでしょう。
お父さんやお母さんの観るドラマや映画だって、スピーカーからそういう言葉を出したり、画面に行為や犯行を映すけど、わたしだけは絶対に許されなかった。
今はもう注意をされないけど、効果は抜群だ。
お母さんは露骨にイヤな顔をして、それ以上は何も言わなかった。
邪魔者が出勤したのを見計らって、洗面所に向かう。
身支度を済ませてダイニングに戻ると、さくらが居た。
トーストをモグモグしながら、ジャムが塗られた無傷のトーストをお皿に置きつつ、トースターのつまみを回している。
「休日の朝から何枚食べる気なの」
「四枚」
「また怒られるよ」
「しょうがないよ。糖分が足りないと推理ができないから」
お母さんはパートの帰りに自分の店で買い物をして帰ってくる。お母さんが出かけてから食パンが予定以上に減っていると、また高音で文句を言ってうるさい。
怒られるのはさくらだけど、いちばん苦しむのはわたしだ。
ま、今日はお母さんの帰宅時間にはうちに居ない予定だからいいけど。
「出かけるの?」
「よく分かったね」
わたしが答えると、さくらはわたしの姿を上から下までチェックした。
「……コンビニ!」
「ハズレ。図書館」
「惜しい。モールや美容院じゃないとは思った。お母さんになんか言われない?」
「もう言われた。出かけるなって」
「板井家の次女としても出かけて欲しくないよ」
「図書館までは車や人の多い通りしか歩かないよ」
「住宅街から通りに出るまでがあるよ。一分あればひとは行方不明になれます」
「じゃあ、その区間はダッシュで」
「あはは、おねえちゃんのほうが不審者だ」
「行きは明るいし、帰りは帰宅ラッシュのタイミング狙うから」
「おねえちゃん、図書館では本を借りないって言ってたよねー?」
「うん、返しに行くのめんどくさいし」
「調べもの?」
「そうだよ」
ウソではない。颯太くんとは事件関係を調べることになるだろう。
「デートなの?」
「探偵さん、コンビニ判定はどこに行ったのかな?」
「だよね。デート未満か~」
デート未満。後輩と図書館で勉強や調べものをするだけ。いつも図書室でやっていることと同じ。部活で土日に学校へ行くようなものだ。
だけど明日は、モールのメガネ屋に行くことになっている。映画の話で盛り上がった弾みで、面白そうなのがあったら観ようとも話している。
「今の間。デートは別に行くか、えっ、これってよく考えたらデートじゃん? のリアクションだよ」
さくらがメガネをかけていたら、キラリと光るシーンだったろう。
検索能力だけじゃなく、洞察力も侮れない。
「……フレンチトースト焼いたげよっか」
「お砂糖とバター多めで!」
さくらは残っていた食パンの二枚を引っ張り出して袋をからっぽにした。
わたしはフレンチトーストを焼く専用のフライパンを棚から引っ張り出す。それは奥のほうにしまわれていた。
フレンチトーストはわたしの最初におぼえた料理だ。昔はよく、さくらに作ってやっていて彼女の大好物でもある。
さくらだけじゃない、お父さんも、お母さんも、おばあちゃんも好きだったし、おいしいって褒めてくれていた。
最後に作ったのはいつだったっけ……。
「偽の本のリストを送っとくので、あたしがお願いしたから図書館に行ったことにしてください。実際には借りなくてもいいので」
「ありがと」
わたしはバターの香りに気分を良くする。
さくらは「おいしく食べたいので」という理由で自分で焼いたトーストを一枚こちらに回してきた。
朝食を食べそこなっていたわたしはそれを平らげ、幸せそうなさくらをチラ見すると、フレンチトーストも半切れだけ回してもらえた。
食器を片付けていると、お父さんが起きてきた。
「食パンが……無い」
からっぽの袋。スティックパン藤田みたいなリアクション。
「食パンはコンビニかスーパーにあるよ」
さくらが耳寄りな情報を伝える。
「お母さんは仕事か」
「そうです。だから、お昼ご飯も無くてひもじい」
「ふむ。何か食べたいものはあるか?」
お父さんの午前中の予定が決まったらしい。
「おいしくないナポリタンスパゲティ」
さくらは微妙な要望を出した。
「おいしくないナポリタンスパゲティ。冷凍とかってことか?」
「冷凍食品のパスタはおいしいよ。お弁当の端っこに入ってるようなやつが食べたい」
「コンビニのも最近はうまいぞ。弁当のそれは分からんが」
「じゃあ、スーパーのお総菜コーナー見てきてよ。サラダとか煮物のところに一緒に置いてあるかも」
「スーパーか。うちの近所のには最近は行ってないな」
お父さんがスーパーに行く……。
お母さんが務めているのは、うちから二番目に近いスーパーだ。
お父さんがそっちに行くか分からないし、行っても何も起こらないかも知れないけど……。
「ラーメンが食べたい」
わたしは口から出まかせを言っていた。
「珍しいな。あおいがラーメンなんて。食べに行くか?」
「女子高生連れてラーメン屋はナシだよ」
言っておきながら、わたしはやっぱり行きたくなかった。
「俺と一緒ならセーフだろ。それか、カップ麺か袋麺ってことか? 姉妹そろってチョイスが微妙だぞ」
「どうせ食べるなら、ちゃんとしたの食べればいいのに」
お父さんとさくらはそろって首を傾げている。
「えっと、出前が良い。最近、ここも宅配サービスのエリアに入ったんだよ」
記憶の片隅からチラシを引っ張り出して助け舟とする。
「おもしろいかも。あれって、お店がバラバラでもいけるんだよ。あたしはお寿司と豚骨ラーメン!」
トーストを平らげた子がなんか言った。
「おもしろいな。じゃあ、俺もあえて普段食わない変なものを頼むかな」
お父さんは乗り気になってスマホをいじり始めた。
なんとか、スーパー行きは回避できそうだ。
前までこんなこと気にしなかった。もしもお父さんが“あの現場”を見て家族が壊れても別に構わないと思っていた。
「近所にこのお店あったっけ?」
「配達エリア内になってるから、あるんだろうなあ」
「お店によってはサイドメニューだけでもいけるっぽいよ」
一緒のスマホを覗き込むさくらとお父さんを眺める。
わたしは今、幸せかもしれない。だから壊れて欲しくないんだ。
こめかみが少し、むず痒くなった気がした。
配達は混んでいるらしく、時間を見て早めの注文をした。
すると、予想よりも早く届いてしまって、胃の中にトーストが残ってるうちにお昼ご飯とご対面になった。
わたしは煮干し出汁の醤油ラーメン。さくらはお寿司。お父さんはよく分からないメキシコ料理と、チキンとブリトーと、麺の伸び切った豚骨ラーメンを食べた。
お父さんは瀕死状態になり、リビングでDVDを見始めた。
昭和や平成に放送されていた教師もののドラマだ。うちの先生のあだ名の由来はそのシリーズの主役の先生だ。
大昔は学校教諭のバイブルみたいな扱いもされたらしいけれど、教師が生徒を殴るシーンもあるので今の時代にはそぐわない気もする。
だけど、さくらは割と好きらしく、最近は一緒に見ているようだ。
さくらがお父さんに話しかけている隙にわたしは家を出た。
ドアを閉めると同時に、スマホが震えた。
『今、家族でモールに来ていて、少し遅くなりそうです』
テンションが下がる。よく考えたら、どこが幸せなんだろ。
この前は危ない目にあったし、変な超能力に目覚めるし、クラスメイトが殺されたかもしれないのに……。
図書館に入り、適当に時間を潰すことにする。
さくらには「借りなくていい」とは言われていたけど、リストアップされた本を試しに探してみることにした。
ほとんどが事件捜査や事件に関わった人間の著書だ。さくらも普段からこういう本を読んでいるのだろうか。
その中のひとつに、殺人犯の親が書いたという本があった。
なんとなく、これはわたしも読まなければいけない気がした。
わたしは殺人犯の手記を読んで、最初のうちは共感を覚えていた。親のほうはどうだろうか。
さくらに頼まれていた本をひと通り見つけ出すと、けっこうな重さになった。分厚い単行本が三冊と、文庫サイズ一冊、ミステリー小説が一冊。
頼まれていたのとは別にイジメ関連の本を一冊忍ばせる。
返却期限は二週間後だ。
『遅れてすみません。どこに居ますか?』
スマホから顔を上げると、図書館内らしからぬ移動スピードで誰かを探す背の高い少年を発見した。
「遅い」
ストレートに不満をぶつける。
「すみません。家族とモールは来週の予定だったんですけど、急に今週に変更になって、メガネのついでに明日にするかって言われたので、ちょっとごり押しで今日にしたんです。そしたら、思ったより長くかかって……」
言葉を並べる颯太くんは息を切らせて額に汗を浮かべていた。
「そういうことならよろしい。ジュースおごったげる」
わたしは遅れた理由に気分を良くし、図書館内に設置されているカフェスペースに彼を連れ込んだ。
市立の図書館は本だけでなく、地域の活性化を目的として、小さな講義室や防音室の貸し出しも行っている。
入り口のそばにはカフェが入っていて、それも福祉関係の方面から都合されたお店だ。
少し前に流行病があって、世間様で自粛がはやる前は、支援が必要なひとが店員を務めるカフェだった。
自粛ムードが明けてからは、老人ホームと提携してお年寄りがやっているカフェに切り替わっている。
「ここ、おいしいって聞いたことありますよ」
「そうなの?」
「地域の情報を発信するサイトで取り上げられてました」
「何か食べる?」
「いえ、お昼はモールで食べたので」
「わたしもお腹いっぱい」
「お昼は何を食べたんですか?」
「……ラーメン」
なんとなく答えづらい。
「ぼくもラーメンだったんですよ。ラーメンでは何味が好きですか?」
彼お得意の人懐っこい笑みだ。
「醤油か塩かな」
「おいしいですよね。醤油も好きだけど、あまり選びません。塩があるとそっちに流れます。でも、麺ものだとカレーうどんが一番好きです」
「カレーうどんかあ。味は好きだけど、ああいうのは絶対に服に汁を跳ねさせちゃうから、外じゃ食べられないかも」
お腹いっぱいのところにコーヒーとジュースを飲みながら食べ物の話。ほんの少しだけ胃袋が悲鳴を上げた。
明日は朝を抜いて出よう。そのほうがおいしくランチを食べられると思うから。
「飲んだら汗が出てきました」
颯太くんの汗は余計に酷くなっている。
「拭いたほうが良いよ。エアコン効いてるから風邪ひいちゃう」
「あ、えーっと……」
男子はハンカチとか持たないか。
「はい、これで拭いて」
わたしはポーチからハンカチを取り出して差し出す。
「え、えっと」
「ほら。本に汗垂らしたら怒られるよ」
そう言ってわたしは腰を浮かせ、彼の額にハンカチを押し付けた。
「じ、自分で拭けますから」
ハンカチを受け取り、化粧のパフを使うみたいに汗を拭く颯太くん。
「洗って返……」
彼が言い終わる前に手を差し出す。気にしなくてよろしい。
ポーチにハンカチを戻すと、消え入りそうな声でお礼を言われた。
「あの、あおい先輩」
颯太くんは財布を手にしている。
「いいから、いいから」
図書館では無料で水が飲める。それをわざわざお金を払ってまでカフェの席に座っているのだ。
もう少し、「誰かとのお茶の時間」を楽しみたい。
わたしは特に何も話さずに、正面に座っている後輩くんを眺めた。ちょっとだけ、彼氏彼女っぽい気がしないでもない。
だけど彼は、数か月前までは中学生だ。それでもわたしよりずっと長身で、大人びた顔。なんだかチグハグだ。
「ね、わたしっていくつくらいに見える?」
「初めて見たときは、一年生か二年生だと思いました……」
「子供っぽいかな?」
ちょっと不満。
「特にそんなことは。話をしたらやっぱり三年生っぽいなって。単に、ぼくが女子の区別をつけられないだけです。あおい先輩と話し始めてからはクラスの女子が中学生と変わらないように見えてきましたし」
やや早口で取り繕う彼。
「そっか」
満足。
「あ、でも。あおい先輩はメイクとかしてないですよね」
「……」
してるっつーの。別にバッチリキメてるわけじゃないけど。
ちょっと分からせてやろうと、顔をズイと近付けてやる。
「……あの?」
困っている。接近しても分からないらしい。
「こんにゃろ!」
わたしはたまにさくらにするように、彼の頭を軽く引っぱたいたのだった。
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