散華
桜の花が咲いていた。
ただただ、淡く仄白く咲き誇る。時折、気紛れな風が吹き、花びらを散らした。
桜の落涙に似ていた。
狂い咲きで知られる桜は、猛った狂乱と言うよりは、静かな童女の密かな蒙昧だった。
花散らす風に弁えや分別はない。ひとえに吹くのが風であるゆえに。
花の天蓋の下に男が仰臥していた。着物はあちこち裂き破れ、全体が血に塗れている。その濃き紅に舞い散る花びらには、背筋凍らせる美しさがあった。男の額には真珠色の突起が二つ。彼は鬼だった。人間との戦いに敗れ、最期の場所を求めて狂い咲きの桜までようよう、辿り着いたのだ。まだ早春の宵、それでも桜は咲き誇っていた。男は――――鬼はそのことに安堵した。風が吹き、花散らすごとに彼の命も散り溶けゆくようであった。
今は昔。
鬼は人の女に恋をした。
鬼に相応しく苛烈な熱をもって女を愛した。
女もまた鬼の恋情に応え、二人は深山の奥の奥にひっそり隠れ暮らした。幸せというものをついぞ知らぬ鬼は、これはどういうことであろうかとたびたび自問した。
なぜ、女が笑うだけで心が温もるのか。
なぜ、女が泣くだけで心が痛むのか。
なぜ、女がただいるだけで心が満ちるのか。
なぜ、なぜ――――――――。
鬼はしかしこの問いを深く追求しようとしなかった。する必要を感じなかった。
幸福とは、享受している者に詮索という行為を放棄させる。
やがて女が病に臥せ、儚くなった時。
鬼は問いの答えを得た。
そして泣いた。
物心ついてより初めての涙は、火のように熱かった。
人里では、これを風の噂で聞きつけ、鬼を討伐する運びとなった。いつの世も異形は悪とされる。鬼は力に秀でていたが、多勢に無勢。果てにはなぶられるように傷を受け、ほうほうの体で逃げた。命を惜しむゆえではなく、死に場所を求めて。死ぬのなら、女を埋めた桜の下が良いと思った。鬼の願いは、そうして成就しつつあった。
吹く風がまた花びらを散らす。
花が散る。花が散る。
鬼が散る。
鬼はもう感覚のなくなった手で花びらに手を伸べた。全く不思議なことに、そして奇妙なことに、花びらに触れた束の間、今はもう亡い女と手を重ね合った心地になった。悲しみがあった。怒りも、憤りもあった。それでも今、こうして桜のもとで死出の旅路に就こうとしている己は、何と幸せなことではないか。あまつさえ、死んだら躯は土に帰り、そうして女とまた一つに融け合えるのだ。
鬼が目を閉じた。
花が散る。
鬼が、散る――――――――。
写真提供:空乃千尋さん