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黒きただ人に抱擁を  作者: 壱番合戦 仁
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黒の章(弐)

                       《1》

 シルハ様の案内によって、再び僕らは七つの大門の前へたどり着いた。

 シルハ様はその大門の中でもひときわ大きく、また旧い門を選び、先ほどと同じように取っ手飾りの口に腕を突っ込み、ことさらに力を込めてレバーを引いた。するとまたもや、両側とも引き戸のように門扉が開く。作業を終えたシルハ様の額には、玉のような汗がにじみ出ていた。彼女の催促に従って、真闇の奥へ怯まず進み行く。黙っていると一層不気味なので、自然と会話が弾んだ。口火を切った人は、やはり普段、人と対等にしゃべる機会がないからか、シルハ様だった。

 「城の文献によると、最後に開けたのは私のお祖父様の代だから相当レバーがさび付いていたみたいね」

 「そんなに旧いんですか?それなら、さぞや歴史があるのでしょうね」

 「ええ、もちろん。ここから先は、魔法と……、いいえ、()法と対をなす力が眠る場所。それがこの門の先にある聖地だよ」

 シルハ様は魔法という単語の『魔』という部分に、強くアクセントをつけて強調した。これを聴いてコウが不思議そうに首をひねる。勿論僕は歩きながらそんな彼の様子を眺めていた。

 「()法。それが正しい魔法の呼び名なのか?今まで巷では聞いた事もなかったぞ」

 「それは、城内でも一部の人しか知らないから、まあ、仕方のないことだと思うわ」

 「ふむ、でもなるほどな。この発音ならば本来の魔法のがもつ危険性が浮き彫りになる。言い得て妙だ」

 「確かにそのとおりね。っと、着いたわよ」

 足を止めると、そこには二つの清潔かつ巨大な寝台が鎮座していた。立派な天蓋がついており、天蓋を支える柱には簡素ながら見事な点描細工がなされていた。そこから薄い絹織物が垂れ下がっている。どうやらそれが仕切りになっているらしい。不自然なことに、ベッドには全く故障や汚れが見られない。

 「疑問に思うかもしれないけど、これの正体は私にもわからないの。文献が古すぎて破損しちゃってね。ただ使い方だけはわかっているし、破損したのも最近のことだから由来は伝わっているよ」

 「素晴らしい!なんと神秘的なのだろう!寝る、ということだから、夢や心に関係する品物とお見受けするけどー!わーい!」

 サエリが知的好奇心に駆られて、寝台をためつすがめつしている。もうその様は、飼い主の周りではしゃぎまわる黒いプードル犬とそうたいして変わらない。可愛い。和む。

 「当たらずとも遠からずね」

 「その、心は?」

 「曰く、異次元の世界で使われていた神器。あなたたちが住んでいた世界よりも、二つ上の次元から呼び出されたものらしいわ。しかも、上に行けば行くほど、素晴らしい世界で、五次元ともなるとソウルメイトや転生もないし、天国同然なんだっておじいさまから聞いたことがある。――――たとえば、今回犠牲になったアイルさんも、何か妙なものを持っていなかったかしら?ほら、むき出しのきれいなペンダントみたいなやつ」

 「あっ。そういえば、あのペンダントに虚が一気に集まってから、彼女は」

 まさか、あれは破壊神の神器だったというのか。だが、あのようにどの魔法とも関連が無い力はこの世界では異質すぎる。ということは。

 「ええ。お察しの通り、アレは異次元からもたらされた魔神の力。ほかの創造神や、維持神の力も同じ由来だと古文書には記されているよ。だからこの寝台もも、同じようにここよりもはるかに上位の世界からもたらされた宝物なの」

 宝物。そんなものを紹介するからには、使うのだろうか。ワクワクし疲れて、興味と眠気がいっぺんにやってきた。それを察して、シルハ様が僕に向き直る。

 「これから、レイヤさんにはサエリさんの心の世界を探検してもらうわ。うまくいけばその世界の奥で、相手の心の本体に出会える。そこでレイヤさんはサエリさんを癒してあげて。そうすれば儀式は完了だよ」

 それを受けて、サエリが凍り付いた。くるりと後ろを向いて座り込み、少しの間わが身をかき抱いた後、立ち上がって真顔でこちらを振り向き、僕の方へすたすた歩いてくる。そして、ぴたりと立ち止まり、眉間に目いっぱいしわを寄せて俯いた。

 「約束して」

 「何を」

 「もし、ボクの本性を見るなら、絶対に受け入れて」

 己への恥か怒りか、言い募るサエリの頬は真っ赤に染まっていた。体をカチコチにこわばらせ、僕の目に穴が開くほどじっと見つめている。明らかに様子がおかしい。

 でもよくよく考えてみれば、不自然というほどでもない。僕たちは間接的にサエリの話をしている。何らかの核心を突かれた人の反応は、大きく分けて苦しむか怒り狂うかのいずれかに分かれる。今の状況は前者なのではないか。脳裏に様々な憶測が飛び交う中、サエリは目を潤ませて、悔しそうに、悲しそうに目を伏せた。

 「ボクを受け入れて、赦して」

 そう言い切った途端に、そそくさと寝台へ入って行った。無論というべきか、意外というべきか、彼女は仕切りの垂れ幕をしっかりと閉めた。

 「何なんだ?あいつ。――――変なの」

 核心、か。どうもサエリにとって一番知られたくない秘密を、これから目の当たりにする気がする。

 何はともあれ、儀式中は部外者立ち入り禁止らしいので、サエリと僕以外は退場することになった。

 そして僕たちは、それぞれの寝台に入った。

 「ふぃーっ……。ふかふかだ……」

 靴を脱いで、服のほこりを払ってから入ると、極上の寝心地だ。このところ宿屋での生活が堪えていた。もうすでに、極楽気分である。

 「……。ん?」

 隣から衣擦れの音がする。メッシュのベストがわしゃりと音を立てて脱ぎ捨てられて、次いで黒いシャツとスラックスが――――。って、オイオイオイオイ!全部脱ぐ気かよっ。ま、まさか、まさか……!!致すつもりなのか!?悶々と妄想を膨らませる間もなく、衣擦れの音が止んだ。

 「全部脱いじゃったのか……。マジかよ」

 僕はぶつぶつ呟いて、頭を抱えるばかり。スルリ、スルリと肌を撫でまわす音と、かすかな吐息がモロに耳に来る。あとはもう止まらなかった。たびたび上がる悦楽の声と、明らかにソレとわかる水っぽい音で一向に眠れない。そこで閃いた。すべてのピースがつながったのだ。サエリは自分の本心をまじまじと直視されると聞いて、ひどく動揺した。そして観念したかと思えば、あの台詞。自分自身が、とても他人には受け入れがたい人物なのだ、と自覚している証拠だ。それに彼女が、何故今まで男の格好をして、自らをボクと呼ぶのかについて、気にも留めてないかった。だが、抑えがたい性欲を留めていたとは考えられないか?だとすれば、すぐそばに僕という異性がいても、この状況は何ら不自然でないともいえる。だとすれば、彼女が赦してほしいこととは……。

 「オイオイ、冗談じゃねえぞ。こんなことを遠回しに伝える時点で、どうかしているんじゃないか」

 僕はアイルを亡くしたばかりなんだ。とてもではないが、もう一度異性を救う余裕など、無い。ところがこの状況はどうだ?もう今更、拒める段ではないのだ。理不尽だ、不条理すぎる。

 「いや、でもよく考えろ。もうアイルには生きて会うことは叶わないんだ。彼女のことを忘れたくないけど、いつまでもくよくよ悲しむのは彼女の遺志じゃない。それに普通に考えて、同じ年ごろの異性の隣でシたりするか?しかも、義理とはいえ従妹だぞ?」

 そうだ、親戚中であいつは有名だった。女だてらに男ぶった変人で、見た目とは裏腹に【色恋に対して非常にガツガツしている】と。

 「あいつ、僕のことが好きなんじゃ……?」

 結論に至った途端、隣のベッドからひときわ大きなかすれた嬌声が上がった。もう間違いない、天国でも見ていらっしゃると見える。もはやため息しか出ない。むこうも別の意味でため息しか出ない。緊張が解けたのか、不意に体がだるくなってきた。あまりの出来事に性欲もわかない。そのまま僕は眠りに落ちていった。


                        《2》

 鞄を持って薄暗い小部屋に立った。ひどく、据えたホコリとカビのにおいがする。恐る恐る目を開けると、一本の通路が伸びていた。奥から気色悪い臭いが風に乗ってこちらまで吹き付けている。ツルツルに磨かれた黒曜石の様な壁を見ると、表面ではテレビのように様々な映像が流れていた。どれも、サエリの主観で映されている。

 「サエリの、記憶か」

 まず一つ目の記憶は、小学校のころのものだった。なまじ女の子でありながら体の使い方を心得ていた。空手の前屈立ちに近い仕掛け方で猛烈に迫り、三学年上の男の子を一メートル半も吹き飛ばす様子が映されていた。

 「あーあー、やっちゃったよ。あの子、昔こんなことやっていたのな。ありゃ、今度は仲間が復讐に来たのか。アイタタタタ……。まとめて返り討ちかよ。これは友達ができないわけだ」

 昔から短気が目立つ性格だったらしく、自室で膝を抱えて泣いている様子も映された。

 少し歩き、次の画面へ移ると、今度は中学生になる前の春休みのシーンだった。彼女は思春期を迎え、年頃の少女になった。

 「うわっ、これ、男が見ちゃいけないやつだろ。うへぇ、リアル初、ゲフンゲフンッ」

 き、気まずい……。それにしても、やはり昔から親戚ばかりに恋する奴だったらしい。血縁をたどって遠縁の親戚限定で合コンまでしている。しかも何等親以上なら付き合うかも設定できるようにしたようだ。

 だが、そこから数週間後、彼女に転機が訪れた。それは、サエリに彼氏ができたのだ。お相手は僕たちの祖父(じいじ)のいとこの孫、通称|三従兄(みいとこ)という間柄の男子高校生だ。

 「見れば見るほど、幸せの絶頂って感じだな。って、オイオイ。お持ち帰りかよ。おいしく頂かれているじゃないか。まあ、この手の動画は見慣れているから平気だけど」

 その後、ますますカラダの関係は深まっていったらしい。

 「ん?サエリの様子がおかしいな……。あッ!致しているっ。ええっ?!まだするのか?学校に遅れちゃうぞっ。って、あーあ。もう遅刻確定だ。今度は早送り再生か。うええ、どんどんひどくなっていくじゃないか。彼氏に何されたらこうなるんだよ……。さっき見た限りだとそう変なことはされていないはずだが……」

 そこから、サエリはどんどん壊れていった。彼氏の顔を見るたびに疼くようになり、学校でも止まらなかった。次第にカラダばかり求めるサエリに愛想をつかし、彼氏はサエリに別れを告げた。それからは毎晩のように自室で暴れるようになり、家族への暴言暴力が前にもましてひどくなっていった。女性でいることにコンプレックスを抱くようにもなり、男の様な振る舞いが目立つようになった。ある春晩のこと。彼女はアルバイトと投資で貯めてきた五百万円を旅行鞄に詰めて、繁華街のネオンへ消えていった。そして映し出されたのは――――。

 「う、ぅわあっ!!な、んだ、これはっ?!」

 いわゆる乱交パーティーだった。キメセク禁止というルール以外、何の御法度もない性宴が行われている。人間の範疇とは思えない程、緩み切り、ただれ切った顔をぶらつかせて、嬉しそうに犯されている。こうして一週間の間、ホテルからホテルへ渡り歩き、ついにその時が来た。

 「……身重になったか。果てない地獄の始まりだな」

 そこからはお決まりのパターンが続いた。言うまでもなく、両親に子供の認知や消息を絶ったことについて怒鳴り散らされ、当然ながら半年間停学になった。

 「こ、これは……。すごい叫び声……。トラウマものだな」

 堕胎の真っ最中が映し出される。その様は、さながら地獄絵図だった。とても人前で言葉にできない。

 こうして、身も心もボロボロになった彼女は、引きこもって本ばかり読んだ。推理小説をむさぼるように読み、親戚からはますます変わり者扱いされるようになった。地元に本拠地を構えるNPO法人の自立支援サービスを親がインターネットで見つけた事がきっかけで、家業である興信所の手伝いをするようになり、少しずつ立ち直っていく。

 そして、今年の正月にカザマツリ本家へ集まった時の事が投影される。そこでサエリは、一人の個性的な男の子を見出し、一瞬で一目惚れした。そう、寄りにもよって、他の誰でもない僕本人だった。

 「ああ、だからあの時、サエリは推理小説の話をいきなり僕に振ってきたのか。意外と僕ってモテるんだな」

 こうして、動画が終わりを迎えた。だが、気になることはまだいくつかある。

 「ここは、サエリの心の中、だよな?さっきから臭うけど……。何だこれ」

 臭いをたどって、奥へ歩む。進むにつれて、カビやホコリの臭いは鮮度の低い魚介のような臭いに変わっていく。何故か身に覚えのある臭いだった。

 「この臭い……。どこかで嗅いだような。ぅぅっ、何かジメジメしてきた。気持ちわ」

 ぐちょり。と粘着質な水音が――――。

 「え?」

 にちょっ、にちりぬちっ。【ゃ……、――――めっ。……どが】

 「人の声?まさかっ。サエリィッッ!!」

 ぐチョるにちリグチッごポぉ。聴くに堪えない()()()()()()()()()()()()音に吐き気を催しながら、最奥にたどり着いた。そこでサエリが。

 「な、うはわああああッッ!!サエリィィ!!?」

 ウツボカズラの蜜袋のような半透明の器官に飲み込まれたサエリが、肉の柱としか形容できない筋繊維状の触手に全身を辱められていた。口からはよだれとうわごとだけが延々と漏れて、目にはもう光など一条も籠ってなかった。

 『い、ゃだよ。の、ど、かわい、た。――――もう出ないのに』

 サエリの女性の証には、何本もの触手が突き立っていた。彼女のカラダ全体を執拗に触手が這い回る。

 『もう、つかれ、たよ。赦し、てよ、嫌ぁっ。赦してっ』

 悲痛な叫びは届くことはなかった。何度となく繰り返してきたのだろう。またサエリは、虚ろな目のまま達してしまった。もう黙って見ては居られない。

 「待っていろよ。今助けてやるからな」

 最初から背負っていた中国刀を引き抜き、サエリのもとへ高く跳躍する。

 「哈ァァッ!!」

 型もへったくれもない力任せのジャンプ斬りだったが、慣性と十分な重量によって怪物を叩き切った。どろりとしたイカ臭い粘液の中から、一糸まとわぬサエリが零れ落ちる。荒い息をついて、サエリが僕を呆けた顔で見上げた。

 「レイ、ヤくん。冴、は」

 「もういい。何も言わなくていいんだ。君が心の奥底で独りぼっちだったって事は、十分わかったから。さあ、おいで。体をふいてあげる」

 手元のボストンバッグから、バスタオルを取り出して全身をくまなく拭いてあげる。サエリの表情から少しずつ硬さが抜けていった。

 「レイヤくん、お腹の中が、えっと」

 「解った。顔背けておいて。うん、そうそう。ちょっと我慢してね。よいしょっ」

 大体の見当をつけてお腹を少しずつ押すと、出るモノがちゃんと出た。

 「ぅ゛ぅっ。はァッ。はっ、はっ、はあ……。ありがとう」

 これで中も少しは清潔になるだろう。大事なところは拭いた。あとはお風呂に入ってもらうしかない。ボストンバックから大きめのTシャツを取り出して、着替えさせてあげた。

 一体、彼女は何を想ってこの心象世界に囚われるようになったのだろう。過去を見ても心情は描写されていなかった。僕は気になって、それとなく視線で問いかける。

 「――――判っている。冴からちゃんと話さなくちゃダメだよね」

 サエリはすっかり様子も口調も変わってしまった。耳をしきりに触り、時折辛そうにあくびをかみ殺している。心理学的見地から見ても、強いストレスを感じながら甘えたがっている証拠と言える。

 彼女はそんな気持ちを必死に押さえつけながら、昏い過去を告白しようとしている。やがて、ようやく気持ちにまとまりがついたのか、ゆっくりと僕の瞳に視線を移し、重い口を開いた。

 「冴はね、昔はあんまり頭がよくなかったの。くだらないことですぐ笑うし、どうでもいいことですぐ泣くし、怒ると誰にも手がつけられなくて……。気持ちに振り回されてばかりでとんでもないこといっぱいしちゃったんだ」

 サエリは指を口にやって、爪をかじりながら悔しそうに語る。なるほど、精神的に不安定になっているのか。勉強しておいて正解だった。思う間もなくサエリは口からそっと爪を吐き出して、遠くへ放り投げた。

 「そのうち、『もしかすると、このまま女の子らしくいたらもっと感情的になっちゃうんじゃないかな』って思ったら、真っ暗な落とし穴に落っこちちゃったみたいに怖くなって、あんな風に男の子みたいに理屈っぽく頭で考えて生きれば、おとなしくなれるかなって思ったの」

 だけど、思春期を迎えて間もなく、問題は別の形で表面化した。先ほど見た通り、強いストレスが性欲に変換されたのだ。

 「もう、あの頃のことはよく覚えていないんだ。冴にとっても、自分が何であんなことしたのかよくわからない。もうめちゃくちゃだった」

 段々とサエリの顔が苦しそうに歪んでいく。空気に溶けて消えてしまいそうな体をかき集めるように、固く、硬く、自分の体を抱き寄せる。

 「一つだけ確かなことは。冴が冴じゃなくなって、どんどん自分が体の外に溶けて行っちゃいそうで、すごく怖かった。――――怖かった。地獄に落ちるってこういう事言うんだ、ってその時始めて思い知ったの。……あ、れ?またっ。また溶けちゃうッ!冴が、消えて――――」

 「サエリっ!?」

 明らかにサエリの様子が、おかしくなっていく。サエリの輪郭が少しずつぼやけていき、彼女を構成する心の中身が少しずつ漏れ出していく。好きな色とか、大事にしている信念とか、そういった情報が指数関数的に漏れていく。目に見えないそれらの情報が、流れ出る血潮のように目に見えるのだ。

 「――――こわい、よ。おとう、さん、おかあさんっ。……消え、たくないよ」

 サエリはドロドロに溶けた手を伸ばして、必死に助けを求める。今度はアイルと違って、僕の助けを必要としてくれている。だから。――――もう、僕は迷わなかった。

 「ぁ」

 ぎゅっと抱きしめた。この子が立ち直るまでずっとそばにいようと、僕は決意したのだ。

 「大丈夫。もう安心して。君が立ち直るまで、僕はずっと君のそばに居るよ。そして、君を支えてあげる」

 僕が優しく耳元で囁くと、ようやく症状が治まってくれた。こわばった体からは力が抜け、サエリは甘えるように身をすり寄せてくる。これでひとまず安心だろう。

 「……うん。やっぱり、お礼しなくちゃ。ねえ、レイヤ君。交換こしようよ。レイヤ君は何が欲しい?」

 「どんなものだったら、くれるんだ?」

 「冴と、キミが幸せになれるなら何でもあげるよ」

 交換。なるほど、対価を要求することで引け目を負わせないという事か。なら答えは決まっている。

 「君の知恵と知識を借りたい」

 サエリに真面目な顔でそういうと、彼女は丈の余った袖を口元に当てて、小さく笑った。

 「うん、解った。じゃあ、冴は」

 一言区切るなり、サエリは僕の肩を両腕で包み込み、僕を上目遣いで見つめる。警戒できなかった。とてもではないが、怠そうな挙動からは害意が見られない。先ほどは気が付かなかったが、マンゴーとオレンジの様な甘酸っぱい臭いが、かすかに僕の鼻をくすぐっている事に気が付いた。

 「レイヤくんの恋人になりたい」

 厳しい言葉だが、ここで引き下がる僕ではないといつの日かも言ったはずだ。ならば、ここでも言うべきことを言うまでだ。

 「こちらこそよろしく」

 その時の彼女の顔を僕はきっと一生忘れないだろう。そのとき、サエリは水晶のような涙を流して、うっとりと微笑んでいた。

 それからしばらくの間、僕とサエリは静かに身を寄せながら穏やかな時間を過ごした。なんとなくだけど、ぼんやりとした赤い光線が僕とサエリの間に架かっているのが見て取れた。それは少しずつ輝きを増していき、やがて最後には限りなく白に近い黄色に変わっていった。それを見て、僕らはくつくつと忍び笑った。後になるにつれて段々と耐えきれなくなり、お腹を抱えて笑い転げた。だって、こんなに関係が面白いように進んで、あっけなく恋に落ちるなんて、これほど愉快なことなんてそうそうあるものじゃないだろう。僕らは幸せだ。薄昏くてホコリ臭かった、部屋は少しずつ明るくなっていき、部屋の壁は砂の城のように崩れ落ちて、風景は陽の光降り注ぐ草原へ変わっていった。

 笑い疲れて、晴れやかな太陽をすがすがしい気持ちで見上げながら、僕らは手をつないだ。風に吹かれて、その手のぬくもりを感じながら、少しずつ心が溶け合っていく。意識が白く染まり、天にも昇る心地を覚えながら、眠りについた。

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