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黒きただ人に抱擁を  作者: 壱番合戦 仁
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エピローグ・後編

                      《1》

瞼越しにカーテンの向こうから降り注いでいるであろう朝の陽ざしに、寝ぼけまなこを散々串刺しにされて、僕は屠殺前の牛みたいにしょうもない呻き声を上げた。

「礼ちゃんっ!起きてってば、礼ちゃんっ。もぅ、今日は学校に行く日でしょ? はーやーくぅっ、起きてよぉ!」

一階から母が僕を騒々しく呼び立てながら起床を促す。

「分ーかったよ、母さん。分ったし起きるって。もう……朝っぱらからじゃかあしいな。

チクショウ」

体の眠気がまだ完全に抜けきっていないけど、僕は確固たる目的と意思を以って起き上がる。

意思はともかくとして、目的を思い出すまでに数秒の瞬間を要した。

「むぅ、ふぅぁっっ。

……そういえば今日来る転校生が気になるって話、だったな」

それに、……万が一という事もある。

「よし、池崎の野郎どもに乗り遅れたくないし、さっさと行くか」

僕はチーズトーストとベイクドウィンナーだけの素朴な朝食を済ませ、気付けにキンキンに冷えたミルクをあおり、身支度を終えて登校した。

                     《2》

やっとこさ特別支援学級での六時限目が終わり、ホームルームが始まりかけたところでクラスの男子どもに日直当番を押し付けて、僕が所属するもう片方の学級へ駆けて行った。

「そこの男子、待ちなさい!!」

余りの速度違反にたまたま通りかかった風紀委員長に取っ捕まりそうになった。

だが、こちらとしては会話をするために息を吸い込むのも立ち止まるのも七面倒臭いことこの上ない。

僕はとっさに風紀委員長には難聴の妹がいて、その子は今でも地元の聾学校に通っているという有名なうわさ話を思い出した。

僕は聾唖者の真結先輩に教えてもらったおかげで、最近手話が話せるようになった。

その話が本当ならば、と思い切って手話で弁解してみる。

『ごめんなさい、今急いでいるんです。もしかしたら彼女が待っているかもしれないので、これで失礼します』と伝えた。

風紀委員長の背筋がガキリと凍り付く。

「……きみ、まさか向こうの世界に行ったせいで、耳が聴こえないのか」

何故か少し低くて聞き取り辛い声でわなわなと震えながら僕に問いかけた。

「大丈夫です、心配しないでください。

それでは」

と、舌っ足らずな口調で喋ったのだが、彼は余りのショックに打ちひしがれて、その場に立ち尽くしてしまった。

どうやら、向こうの世界の訛りも相まって、中途聾唖者のような喋り方に聞こえるらしい。

やれやれ、あらぬ誤解を招いてしまったようだ。

全く胸糞悪い。

これから広まるであろう噂を訂正するのもそれはそれで面倒臭いので、勝手に言わせておきつつこのまま優しくされておこう。

ホームルームはそうたいして長くない。

廊下を悠々と闊歩する生徒達を、そこ退けそこ退け礼也が通る、とばかりに強引に押し退けて、僕は期待に胸を大きく膨らませながら通常学級へ急行する。

僕のクラスはどれだろう?

2年A組、2年B組、……2年C組!2年C組って言ったら、僕のクラスじゃないか!……見つけた。

なるべく穏便に登場しようとしたけれど、ここまで大慌てで疾走してきたせいでアドレナリンはドバドバだ。

引き戸に手を掛けて普通に開けたつもりなのに、大きな開閉音を高らかに立てて戸車が三往復してしまった。

「こ、けほっ、けほっ。こんにちは!

かわせみ学級の風祭です!

遅れてすみません!」

肩を弾ませて、担任の山本先生に謝罪する。陳謝するために大きく息を吸い込み過ぎてむせてしまった。

「おい、そんなに慌ててどうしたんだ、風祭?

その様子だとお前、まさか転校生はお前のコレか?」

山本先生が半ば冷やかすように小指を立て、ニヤニヤと笑いながらシャレにもならない冗談を口にした。

先生の指摘が半ば痛いところを突いていて、僕はさらにむせ返った。

クラスメイト達の甲高い笑い声が教室中に乱反響する。

もう噂は広がることは間違いないので、堂々と聾唖者として振る舞うことにした。

何というか、もう訂正するのが面倒臭い。

『山本先生、僕は耳が聞こえにくくなってしまったとこれから誤解されそうです。

低い音が聞き取れないということにして置いて下さい』

教室中の笑顔が凍り付いた。

少数ながら聾唖者が通うこの学校では、手話の技術は教員を養成する上で必須科目となっている。

生徒の中にも彼等と仲良くなりたいがゆえに手話を覚えるものも少なくない。

また障害のあるなしに関わらず、誰もがクラス内だけでの内輪話に花を咲かせられるように、生徒が自主的に既存の日本語の手話を改造しているおかげで、各クラスごとに独自の言語が発達している。

最近は点字を暗号化してラブレターを作成する輩まで現れだした。

うちの学校は意外と呆れるくらいユニバーサルなのだ。

故に山本先生のみならず、この教室の誰もがある程度、手話の意味を知っているだろう。

でも彼等がある程度は標準手話が分かるといっても、結局のところ学生訛りの強い2年B組弁の手話を話しているのでやっぱり僕の手話を誤解している。

事態を察知した山本先生は、僕に手話ですぐに返答した。

『解った。話は合わせておく。

デマの方はこちらで穏便に片づけておくから、安心して勉学に取り組むと好い』

『承知しました。この度はご迷惑をおかけしまして申し訳ございません』

『何てことは無い、さあすぐに席に戻れ』

僕は感謝の意を込めて真摯に頷き、彼の指示に従った。

秘めやかな囁き声と暗号化させた点字メモが机と机の間を飛び交う。

僕は、クラスメイト達がメモを渡すために伸ばした腕を押し退けて、そそくさと自分の席に座った。

「えー、衝撃的なハプニングがあったので中断してしまったが、ここで転校生を紹介する。

本来は授業が始まる前に発表すべきことなのだが、そろそろ中間テストだからな。

もともと駆け足でお前たちに授業内容を叩き込む必要があったのだが、理由はそれだけではない。

うちのクラスの平均点は毎年学年最下位だ!

クラスの生徒の資質に関わらず、お前たちの成績を上がらないのはそもそも教師の指導法の問題ではないか、という議題が昨日、教員会議で持ち上がってな。

授業を優先するため、やむなく転校生紹介のスケジュールを後倒しにする運びとなったのだ。

それらの事情については、お前たちにはきちんと謝らなくてはならない。

済まなかった」

こんな細かいことまで、きちんと誠実に謝罪してくれる山本先生に対する生徒の好感度は爆発的に上昇した。

やれ、「顔を上げて、先生!」だの、やれ、「そんなに謝らなくていいんですよ!」だの口々に許しを口にする生徒の中には、目に涙がにじんでいる奴もいる。

って、こいつ池崎じゃないか。泣き上戸だったんだな。

僕は軽いパニック状態に陥りかけた教室を睨め付け、即刻立ち上がった。

「いい加減にして下さい!!弟子馬鹿、師馬鹿にも程があるでしょう!

さっさと転校生を紹介しちゃってくださいよ、もうッ!」

「分かった、分かった。

おい、愛川。入ってきていいぞ」

引き戸の奥から現れた生徒と目が合う。

―――――――――時が止まった。

そう錯覚したのも束の間で、彼女が自己紹介を促されるまで二人して見つめ合ったまま動けずにいた。

その子は面立ちも背丈も、腰まで届く真っ直ぐな髪や肌まで―――――――――、アイルにそっくりだ。

彼女ははっと我に返り、前を向いて流ちょうに自己紹介を始めた。

「初めまして。

私、愛川・ヴァルキュリア・刹良って言います!

名前は刹那の『せつ』と良い子の『ら』で刹良って言うんだ!よろしくね!

趣味は料理と読書と……ええっと、恥ずかしいけどお昼寝かな……。

あとあとっ、特技はエストックっていう刺突用の剣を使ったイタリア式剣術と、ツヴァイハンダーっていう重たい両手剣を使ったドイツ式剣術です!

ああ、そうそう、中国拳法も少しできます!これは全部我流だけどねっ!

セクハラしたらウーノ・ドゥ―エ・トレ!で串刺しにするよっ!

気を付けてください!

みんな、これからよろしくね!」

茶目っ気たっぷりの自己紹介に教室がドッと沸いた。

刹良が教室の奥のロッカーに鞄を入れるために僕の横を通り過ぎた。

「放課後、屋上まで来て」

胡椒とバニラが入り混じったかのような懐かしい香りが鼻先をかすめ、彼女は風に揺れるカーテンのように白髪をたなびかせながら、言の葉を置き去りにしていった。

                       《3》

「あの子、まだ来ないのかな」

夕暮れもほど近くなり、そろそろ僕も不安になってきた。

夕映えに染まり行く街の風景は見事な絶景だったが、そんな事よりこの屋上まで待っていたところで刹良は来るのだろうか。

「やあ、レイヤくん」

 背後から聞き覚えのある呼び声が聞こえた。

 「……サエリ」

 振り返るとそこには、学校が指定している紺色のブレザーの上に、白くてかなり薄手のトレンチコートを着たサエリが立っていた。

 「ボクにとってまずいことになった。もちろん君にも関係のある話題だ。少し話をしよう」

 サエリは強張った声で告げて、僕の横を通り抜けざまに手を取って引っ張った。その多少強引な振る舞いに僕は戸惑ってしまう。……一体、何の話だろう。

 彼女は屋上に備え付けられたベンチに腰掛けて、僕を座らせた。そしてトレンチコートのポケットから、炭酸強めのサイダーを取り出してふたを開け、一気に飲み干した。細く、長い長い息をついて、サエリは気持ちを切り替えた。僕の顔を見ずに夕焼けを見つめている。

 「アイルが生まれ変わって、生き返った」

 サエリは顔を抑えて、蹲った。その横顔に何の言葉もかけてあげられない。それがとても悔しかった。その指の隙間から、透明な涙がぽろぽろと零れ落ちる。洟をすする静かな音だけが、僕の耳朶を打った。サエリは自分の気持ちに正直だった。それは昔から変わらない。心象世界から彼女を救ったときも、思い出を見て同じように心に思った。

 「冴、知っているよ。冴は、レイヤ君にとって、アイルの代わりだったって」

 「そんなことないよっ。何で、そんな」

 「だって、レイヤ君が冴と話しているとき以外は、いつもアイルの事を考えているもの」

 夕風が、サエリの涙をさらって行った。僕たちの周りに沈黙の帳が下りる。サエリは涙をぬぐって、天を仰いだ。

 そして、ポケットからティッシュを取り出して洟をかんだ。彼女は僕を振り返って、悲壮な決意を目元ににじませてこう問うのだ。

 「冴と刹良ちゃん、どっちを選ぶの?」

 ————————思い出した言葉がある。誰かが言った。『何かを選ぶことは何かを選ばない事でもある』と。それが正しいなら、『誰かを救うことは、誰かを救わない事』なのかもしれない。

 「見ていてほしい」

 「何を」

 「僕は、ここへ刹良に呼ばれた。これからすぐ、あの子とのやり取りがあると思う。その結果次第で決めるよ」

 僕は真っ直ぐ彼女の瞳を見つめて、正直に胸の内を明かした。そのおかげもあってか、サエリは居住まいを正して頷いてくれた。

 「分かった。冴、昇降口の扉の裏に隠れているね」

 サエリは立ち上がって、屋上の扉のすぐ横へ歩いて行った。その後、十分二十分と無為に時間が過ぎていく。日が沈みかけた頃、ようやく階段を駆け上る足音が聞こえてきた。


 そこに真っ直ぐな片手剣を×の字に二本背負った刹良が立っていた。

 「刹良……、いや君は、アイルなのか」

 僕は刹良に、いくらかの確信をもって問う。

 「覚えていてくれたんだ……」

 愛川・ヴァルキュリア・刹良、否、転生したアイル・インは瞳を涙で滲ませ、あふれ出す感情に耐え切れなくなって僕の胸元に駆け寄った。

 「レイヤ君っ」

 僕もアイルの下へ走っていく。

 「アイルっ!」

 そのまま僕を抱き締めようとしたアイルを受け止めたかった。

 しかし心を鬼にして、僕はその雪野原のように真っ白な頬を張り飛ばした。

 「レイヤ、君……?」

 アイルは何をされたのか分からずに呆然としている。

 「……何で。何で一杯嘘なんか吐いて一人で抱え込んじゃうんだよ」

 無力感で胸が痛くて、心が空洞になっちゃったみたいに虚しくて。

 「何でもぶっ壊しちゃう女神様なんかに無理矢理なってまで、覚えていることをぐちゃぐちゃにつぎはぎしてまで、僕に隠さなくちゃいけないことって何だったんだよ」

 両の拳を固く握りしめて、俯いたまま泣いていた。

 炎が上がりそうなほど顔が熱い。大粒の涙がぽろぽろと零れる。

 「ごめんなさい」

 夕映えに煌めく涙で視界が万華鏡みたいに滲んで前だって見えやしないけれど、刹良が辛そうな顔をしているかどうかなんざとっくに分かり切っていた。既に知っていたことだ。

 たとえどんなに、僕が前もってこうなる事を知らなかった事が正しかったと証明したとしても、今の僕にとっては既知感に近しい気持ちしか持ちようがない。

 まだ起こっていないことを知っていたような気がするなんて、途轍もなくおかしなことだ。

 でも僕はこうなるって、こんな風にこの子が苦しむって予感めいたものを感じていたんだ。

 愛する人が目の前にもう一度現れたのに、果てしなくつまらない。

 『果てしなくつまらない』なんて脳内文章が、どんなに不適当で、用途を取り違えたみたいな表現だったとしても、この気持ちを敢えて簡潔に言い表すなら、こんなにふさわしい言葉なんかきっと見つかりっこない。

 それでも僕は、正直な今の心境を伝えたことに僕は意味と価値があったと思っている。何て僕は身勝手なんだろう。

 けれど本心を伝えた事が自己満足なのかどうかは涙を拭ってアイルの顔を見れば、すぐに知れることだ。

 賞味期限が近いからと言って、アメリカ製の粗雑なアーミースプーンで味気のない乾いてパサパサになったツナ缶の中身を搔き出して、口の中に突っ込んだみたいな。

 そんな虚しさと不快感が、その陳腐な味によく似た瘴気を連れて胸の奥に居座った。

 「でも、私はレイヤ君ならそう怒鳴って私を張り飛ばしてくれると思っていたよ」

 その台詞に僕は耳を疑った。涙をぬぐい、顔を上げると。

 「成長したね、レイヤ君」

 彼女は少し困ったように、しかし自分を殴り、辛辣に批判した僕を何故か心底嬉しそうに見つめていた。

 その顔には深い安堵と喜びが滲んでいる。

 その顔には眩しすぎるくらい純粋な二つの感情だけが浮かんでいるはずなのに、僕には真っ白な光を受けたプリズムのように複雑に輝いて見えた。

 それはまるで、旅行前に必ず持っていくと決めていた大切なぬいぐるみを、押し入れの奥からやっとの思いで見つけたホコリまみれの少女のような、晴れやかな笑顔だった。

 暴力だって正しく使えばまともなコミュニケーション手段になるだなんて、そんな馬鹿げた事を言ったのは誰だったっけ。

 そんな事を思い返して、ふと中々その論も侮れないと口元を緩めた。

 相手に納得してもらえる暴力はもはや暴力ですらないのかもしれない。

 そのことについてこれ以上考える間もなく、彼女が安らかな面持ちで僕がひっぱたいた頬に、ただそっと両手を添えて居る様子を目にした。

 「何故嬉しそうに頬を抑えるの」

 「……この痛みは、レイヤ君が私から依存することを止めようとしている証だから……、大切なの。

今、私はとても幸せよ」

 瞬間。僕はこの子はこの年ですでに母性を備えているのではないかと直感した。

 「まさか」

 今の彼女はもしかして。

 「あ、気付いちゃった?()()()()()()()()()()()()()()()()()

 途端に呼吸し損ねてむせた。

 だって仕方ないじゃないか、己が好いた年頃の女の子と久しぶりに涙の再会を果たしたら、まさか年増になっていたなんて。

 精神的にかなりのショックを受けた僕の反応を、刹良がクスクスと口元を抑えながら上品に面白がる。おいおい、前世ではそんな仕草なんかしなかったじゃないか。こんなのってありかよ。

 「大丈夫よ、そんなに心配しないでも私は私のままだから。

 ただ、細かい考え方が大人びて、本能とか体の造りとかそういったことが私の中で変わっただけ。人格も感性も普通の十八歳だよ」

 今の僕の表情が何を訴えているのかは、この顔を覗き込めば容易に理解できるのだろう。

 刹良は僕を宥めるようにはにかんだ。

 「それでもね。何時までも子供ではいられないって想ったんだ。

 でもそれだけじゃなくて、レイヤ君がここまで成長したんだから、私もレイヤ君から自立しようって決めていたんだよ」

 彼女は芯の通った真っ直ぐな視線を僕の双眸に注いだ。

 刹良の意思を強く尊重したくて、僕はしっかりとうなずいた。

 「そうか、その決意だけでもすごく立派だと思う。応援するよ」

 「ありがとう。それでね、レイヤ君に一つお願いがあるの」

 「なんだい?君の頼みなら何でも聞くよ」

 「そう、ありがとう。それなら剣の舞でも踊ろうよ。但し、勝ち負けありの実戦形式で」

 「ええっ?なにそれ怖い……急に一体どうしたの」

 刹良はクスクスと忍び笑いを漏らし、滑稽な僕をダシにしてまじまじと観察している。

 この子、絶対僕の事をからかっているだろう。

 「レイヤ君が私に勝ったら何でも一つだけ言うことを聞いてあげる。でもその逆もまた然り、だよ。どうかな?」

 どういう魂胆だかはとんと見当もつかないが、それとは別に彼女にして欲しいことならいくつかあった。

 中でも一番の欲求は―――――――――。

「じゃあ、僕が勝ったら君と別れるよ」

 刹良は、えっ、と虚を突かれたようにごく短く口走ると、口の端を四角にしてドン引きした。

 『折角の美人が台無しである』って昔そんなことを思ったような気がするが、全く同じ心境だ。

 「私、あなたに自立してほしいからって、そこまでして欲しいわけじゃない」

 化石みたいなカチコチの石ころと化した声には、若干の軽蔑が混じっていた。

 少しとはいえ、僕は彼女にかつてないほど純粋に軽蔑されていた。

 こう言ってからには引き下がれない。僕は今でも彼女の事をとても愛している。

 でも、その愛情がたとえどんなに確かなものであったとしても、僕は過去を引き摺る訳にはいかないのだ。

 何を犠牲にしても、僕は前を向いて自分の力でなるべくこの人生を歩んでいくと決めたのだ。

 僕を失望の目で見つめるアイルをキッと睨み返す。

 「意固地になっちゃって。私に頼るのをちゃんとやめたと思ったら、今度は全部自分一人で抱え込んで生きていくのね。そんな生き方で上手くやっていけるつもりなんだ?

 結局そうやって、目の前の現実から逃げているだけじゃない。この意気地なし」

 返す言葉も無かった。

 というか、もうこれ以上僕の言葉は要らないような気がした。

 「それで?結局は私の剣の腕前を疑っているんでしょう?」

 「確かに君の努力を否定するわけじゃないけれど―――――――」

 刃が空気を渡る。

「は?」

 何が起きたのか、さっぱりわからなかった。彼女の手元から伝い見たそれは木製のバスタードソードだった。

 「今、あなた一回死んだよ」

 鼓膜が凍り付きそうなほど冷ややかな声が、叩き割られた窓ガラスの破片のように耳を串刺しにした。日本刀じみた視線が眼球に突き込まれる。僕は目玉を切り刻まれたのか。眼圧が高まり目が痛い。

 程なくして全身の皮と言う皮が粟立ち、筋肉が瞬く間に委縮した。

 どんなに我が身を抱いてもガチガチと体が勝手に震えだすのを止められない。

 「五連重範囲撃・グレイテスト・ペンタゴン」

 刹良は耳慣れない剣技名を呟き、ひらりと喧嘩独楽のように身を翻して死角に回り込み、僕の胴に次々に重撃を叩き込み始めた。

 背後二方向と両脇腹を切り刻まれた僕は、とっさに自分は五角形に斬り刻まれているのだと察し、中段受けの構えに入ろうとした。

 だが、腕が持ち上がったことで腹の筋肉が弛緩した瞬間を、彼女は逃がさなかった。

 「ハァッ!!」

 僕が右サイドを受けることを読んで、刹良は両手首の切り返しと極限まで最小化した竜巻じみた足捌きにによって左サイドを横薙ぎ一閃。

 体当たり気味に放たれた斬撃が僕を一メートル先まで吹き飛ばした。

 地面に頭から叩きつけられ、無様に脇腹を抱えて蹲る。

 遠くですぅっと息が吸い込まれた。

 「女だからって舐めないでよッ!!大好きだったのに見損なったわ!!あなたはっ、断じて絶対にそんな弱虫などではない!!男だろう、立ちなさい!!今までの私が弱いあなたも含めて、あなたを愛していたとしてもっ!!これからの私は、弱いあなたを愛したまま許さないんだ!!」

 すぐにピンときた。僕がかけてしまった呪いのせいだ。

 僕がこの子に吐いた、『僕は人の気持ちに寄り添えるとても強い人だ』なんていうハリボテじみた優しい嘘の正体を、この子は知っている。不味い、刹良は、僕の嘘を徹底的に真実に作り変える気だ。

 「私の事を好きなままでいたければ、この勝負、受けて立って見せなさいよ」

 彼女の言うことは厳しい愛に満ち溢れ、まっとうでありながら僕にとっては理不尽だ、不条理だ。だがそれが何だ?

 埃を払い、僕は陽炎のように、ゆらりと立ち昇った。

 「ふぅん……、あっそ。言っとくけど、それ、取り消せないよ?例え君であっても土下座したって叶えるつもりは失せたし」

 すぅっ……っと体の温度が消えていく。

 僕の肚の内で小さな暴力衝動が産声を上げた。

 「最初に聞いておくけど、君がいう『成長した僕』とやらに半殺しにされても文句は無いんだね」

 ドスを利かせた問いかけと共に、僕は足元の通学鞄から二本の金属棒を取り出した。

 「それは……?」

 「琉球古武術伝統武装・『サイ』だ」

 このサイという細い十手のような武器は、刃物を受け止めるために長短の差をつけて枝分かれしてあった。刀身に相当する長い方は『物打ち』、刀や棒を受け止める短い方は『翼』という。

 しかも、ただのサイではない。

 江戸時代から連綿と受け継がれ、今まさに失われようとしている製法により精製された幻の鋼、『玉鋼』によって作られた業物である。

 僕は刹良を威嚇するように裏拳を放ちながら、順手に持ったサイで空気を裂いた。

 それでもアイルは、瞳の色をより一層厳しくするばかりで少しも動じない。

 「その様子だと引き下がるつもりはなさそうだな」

 「何を今さら。さっさとルール説明済ませるよ。余計な口を利くと、素敵な笑顔を浮かべっぱなしにしてやるから」

 おい、今刹良の奴、洒落た暗喩で口の端を切り裂くって言ったか?こいつは傑作だ。恋人同士で模擬的な殺し合いモードに入っている。ますます興が乗ってきた。

 「ルールは簡単。私のスマホから『情熱大陸』って曲が流れている間が試合時間。曲が終わっても決着が付かなかったら延長戦としてアンコール曲が終わるまで続ける。前奏が流れている間は、必ずそれぞれの流派の礼をして、代表的な基本技をすべて見せる事。バイオリンパートが始まったら試合開始。あと、『剣舞ルール』っていう特殊ルールも適用される。必ず攻撃はリズムに合わせて行う事。双方のリズムが崩れたら、曲を中断して試合再開ね」

 「勝利条件は?」

 僕が抑揚のない声で尋ねると、彼女の顔に獰猛な笑みが滲んだ。

 「相手が持つ全ての武器を地面に落とした上で、唇を奪ってイかせた方が勝ち。ちなみに下の方を触られても文句は無しね」

 刹良はそれっきり黙りこくってしまった。おいおい、此の子本当は性同一性障害なんじゃねぇのか。

そう疑いたくなるほど、アグレッシブだ。だがまあいい、恋愛的な意味でも暴力的な意味でも可愛がってやるか。夕風が次々と僕らの間を横切っていく。

 僕がゆっくりと空手の礼をするのに対して、刹良は一旦バスタードソードを背中の鞘に納刀し、またゆっくりと引き抜いた。そして十字に宙を斬り払い、顔の前に垂直に立てた剣の柄頭に口付けをする。

 お互いに前に進み出る。

 刹良がスマホを取り出し、『情熱大陸』を再生した。

 決闘前の取り決め通り、基本技を実演する。

 繰り出したのは『風祭氏八極拳・金剛八式・探馬掌』だ。

 サイを腰のベルトに差し、静かなる前奏に合わせて、目の前に相手がいるという想定で首元をすくって締め上げ、手首の返しで頤を打ち上げる。

 トドメに五指を丸めて把子拳を作り、大きく踏み込んで中段突きを放った。

 対する刹良は『ドイツ式片手剣術・アイルスタイル・女の構え』を取っている。

 左肩を僕に向け、半身になることで、眉間、鼻の下、鳩尾などの急所が最も集中する正中線を隠した。

 掴んだ剣は長時間の乱戦に耐え、性差による体力差を埋めるため、体力を消耗しにくい垂直両手持ちに構えている。

 その姿はまるで、別れ話を持ち出した僕の言葉に対して、恋人として怯えているように見えた。

 わざわざ多くの構えの中からこの構えを選んだのは、単なる僕への皮肉や、戦いやすいから、などと言う安っぽい理由だけではないだろう。

 あれ、目の前がまた滲んで……。

 瞬間。

 ざくり。

「……なっ!?」

 今のは何だ、幻聴か?何故どこかから何かが突き刺さるような音がして。

 「胸が、痛い……?」

 今更何故こんなにも悲しいのだ。考える間もなく、『情熱大陸』はイントロを迎える。

 「シィィッ!!」

 助走をつけたチーターのようなステップにより、刹良の足元の地表が小爆散。

 凄まじい量の砂煙と共に、剣身にしっかと左手を添えたまま、左肩による体当たりを仕掛けてきた。

 「エイッ!!」

 体全体の重量と重心を使った大がかりな攻撃に対抗すべく、渾身の力を込めて前屈立ちに踏み込み、両手で体当たりごと突き離した。

 だがその目論見は見事に外れた。

 一度踏み込んできたはずの刹良の脚が、僕が突き飛ばした瞬間に合わせて踏みとどまったのだ。

 「な、なっ……!!」

 『に』、と言い終ろうとしたときにはもう遅かった。

 「『ドイツ式剣術・アイルスタイル・シュトライク・デル・レフレクスィオーン』ッ!」

 彼女の踏み込みによる推進力を打撃によって阻んだことで、刹良の深い踏み込みをさらに助長してしまった。

 剣身を用いた体当たりが襲い来る前に、バックステップを踏んで緊急回避する。

 「喰らいなさいッ!!『ドイツ式剣術・アイルスタイル・パイチェ』!!」

 木製とはいえ、片手剣としては超重量級であるバスタードソードを、軽々と鞭のように叩きつけてきた。

 『剛柔流・琉球古武術・諸手上段受け・諸手上段打ち』

 腰からをサイを引き抜き、音速を超えるか、と寒気を覚えるほどの素早い斬撃を、交差することで受けきった。

 「返しだァッ!!」

 両側からこめかみへ物打ちを打ち付ける。

 「あぅッ!!」

 頭の急所を痛打されたことで脳震盪を起こしたのか、刹良がスタンした。

 その隙に奥義『風祭氏八極拳・八大招式・月下狼奔泉』を放つ。

 月夜野を駆ける狼が泉を求めるように不規則な突進を繰り返し、すれ違い様に刹良を打ち据える。

だが、実際に僕が打ち据えたのは彼女のバスタードソードだった。その猛撃を完璧に受け流した刹良の眼がギラリと妖しく光る。

 何時の間に柄に手を掛けていたのか。

 僕の鼻先に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 「なぁっ!?双剣流片手直剣術だと!?」

 馬鹿な、あり得ない。両手に片手剣を装備するこの戦術は、宮本武蔵の『二天一流剣術』でもない限り、アニメの中で行使されるほどどんな達人にも再現できる代物ではない。

 金属製の内、重い物なら1.5キログラムはあるとされるバスタードソードは、生半可な筋力で扱える代物ではないだろう。

 間合いを完全に制圧された僕は来る連撃に備え、感付かれない程度に構えるほかに対処のしようがなかった。

 それをこともあろうに女性が双剣流で使いこなすなど、よほどの腕前と筋力増強が前提に無ければ成立しない。

 いわゆる人体のみでは理論上不可能ではないが、誰も真似できない、真似したがらない一つの格闘技や武術における技術的臨界点。

 これが、『アイルスタイル』の真骨頂だというのか。

 「『ドイツ式剣術・アイルスタイル、五十六連軽集中撃、ザ・フレア』」

 名が体を表した。

 刹良は燃え盛る剣の太陽と化し斬撃と刺突の太陽フレアを伴い、まるで僕の背後の壁に墜落するかのように僕の全身を巻き込んで焼き尽くす。

 絶え間なき連撃たちは、打撲痕と言う名の赤黒い命の花を咲かせ、その血の花畑を眺めながら灼熱のワルツを舞い踊る。

 「やぁぁぁァァァァァァッッ!!」

 脳裏の劇場で剣戟が鳴動の仮面を被り、叫号が死のステップを踏んで、迫りくる一撃一撃への恐怖が、殺戮喜劇のフィナーレを告げるかのように、主人公ぶって高笑いしていた。

 「ぶっ飛んじゃえッ!!」

 気分的には今にも灰人形のようにさらさらと崩れ落ちそうな僕に、プロミネンスの如きアッパースラッシュと、太陽スピキュールを纏ったような三連回転斬りと共に、超新星爆発の如き叩き付けるようなジャンプ斬りと、下腹を踏み潰すような飛び蹴りが同時に繰り出された。

「うわァァァァァァッッ!!」

「逃さないッ!!」

 吹き飛ばされた勢いで一瞬、フェンスに(はりつけ)になる。

 そのチャンスを刹良、否、かつてのアイルは逃さなかった。

 「行っけェェッッ!!『ドイツ式剣術・アイルスタイル・重双突進撃双子の(ドッペル)処刑者(ヘンカー)』ァァ!!」

 磨き上げられた木剣が、死神の鎌みたいに夕日の輝きをはじき返し、僕ののど元目掛けて振り下ろされる。

 ――――――――――死。

 「ぃ、ひぃ」

 【ソレ】がすぐそこまで迫っている。

 「ギャアアああっぁっぁ嗚呼ッッぐぶっ」

 喉仏を圧迫され、下腹を突き刺されたことで吐血した。

 右肩はとうに脱臼しており、両肘の腱を痛めたのか力が入らない。

 聞き手のサイを落とした僕は既に満身創痍だった。

 『ドイツ式剣術・アイルスタイル・デッドリィチャチャチャ』

 天災じみたどす黒い死を振り撒きながら、まるでチャチャチャでも踊るかのように『情熱大陸』のサビに合わせて変則的な刺突と斬撃の合の子を生み出していく。

 サイでその(ことごと)くを叩き落とし、遂にサイの『翼』、つまり刃受けでアイルのバスタードソードをとらえた。

 「今ッ、何ィ!?」

 アイルに『だ』と言い終わりかけて、思わず止めるほどの奇手を彼女が打った。

 よりにもよって『葉問詠春拳・托手(タクサオ)』だ!

 なんと、バスタードソードを双方とも手放し、僕の両腕を下から両掌で弾き飛ばしたのだ。

 どうやら、前腕部の骨がひび割れていたらしく、余りの痛みに最後のサイが吹き飛んだ。

 『葉問詠春拳・日字連環衝(リーヅーリェンファン)(クワァン)圏手(ヒュンサオ)

 よりにもよってあのブルース・リーが使っていた、チェーンソーパンチが僕の腕を粉砕せんと牙を剥く。

 驚嘆すべきはその威力ではない、むしろ生半可に受けてしまうと粘りつくような搦め手、『圏手(ヒュンサオ)』に、相手のレンジまで腕ごと体を持っていかれそうになることだ。

 『五行通背拳・五行掌・(ツァイ)(パイ)小穿(シャオチュァン)

 させるか、とばかりにかじりかけの中国拳法・通背拳の基本技を、今までの格闘センスと脊髄反射任せに繰り出す。

 だがそのいずれも、数々の見た事も無い下段払い、抑え付け、中段揚げ受け等に撃墜されていく。

このままではまずい、と瞬時に判断した時にはもう遅かった。

 「ああっ!?」

 ついに圏手(ヒュンサオ)によって両手を捕らえられた。

 『合気会合氣道・四教』

 手首の動脈を絞り上げられて絶叫。

 『合気会合氣道・二教』

 そのまま後ろに回り込まれ、肩甲骨ごと腕の全関節を極められた。

 『プロレス・ボディロック』

 脚を踏みつけられながら前のめりに倒され、転びかけた所を抱き締め上げられた。

 「ぎぁぁっ……!!たす、たすけっ……」

 「だったら何か一言いうべきで、しょッ!!さんはいッ」

 「がぁぁっ、わか、った、降参、す、るから、……助けてぇ」

 半泣きで情けない弱音を吐いた僕に、愛川刹良ことアイル・インが、あらそう、と零した次の瞬間、彼女は躊躇もへったくれも無いとばかりに、自らの舌を僕の口の中へ刺突した。

 え、嘘だろう?

 口中血みどろにも拘らず、頭をかき抱かれて濃密に口付けされているだと。

 僕はこの状況を信じてしまうのか。

 「ん、ちゅ、ちゅぅっぷっ。にちっ、ちゅぴっ、ちゅっ」

 全身の打撲と骨折の痛みから逃れようとしているのか、それとも性的に隷属されている事への背徳感を求めているのか、あるいはただ単に許してほしいだけなのか。

 まともな頭で考えついた事ではないので、どれも理由にならない気がした。

 制服のズボンのファスナーと、トランクスパンツのホックを外されて、その手が差し込まれる。

 「わ、わぁっ、そこ、駄っ、ちゅむぅっ!!」

 身動きできないように、フェンスに優しく身体を押し付けられて全身の尊厳を蹂躙される。

 ぼぅっとかすむ脳裏に何も思い浮かべていない僕から、ようやく唇を離した刹良は僕の耳元で恐ろしい事実を囁いた。

 曰く、『屋上だから、下からも監視カメラからも丸見えだよ?大丈夫、一緒に叱られてあげるわ』と。背筋を寒気にも似た悦楽が駆け上る。

 「さあっ、正直に己の性癖を仰い!!このドヘンタイっ!!」

 「も、もしかしたら僕、露出狂でしょうかッ?」

 「知るかっ、このマゾ男ッ!!大好きッ!!」

 「ヒキョウだっ!!寄りにもよってこの際に『ダブルバインド』を使うなんて!!そんな小手先の心理学的テクニックには、僕は屈しないぞっ!!」

 「口答えするなっ!!さぁて、何時まで私の調教に耐えていられるかなッ!?」

 「うぁぁっ……、SMプレイなんて絶対嫌だったのにぃ!!嫁が目の前に居たって、こんなザマで婿に行けるかァッ!!」

 「あら、嬉しい戯言を吐いてくれるじゃないの、ご褒美にさらに蹂躙してあげるよッ!!」

 「誰かァッ!恋人が痴女になったっ、助けてく、ちゅむっ」

 ああ、嗚呼、イ。

 「ッックゥゥゥゥッッ!!」

 背筋がピンと反り返り、あらゆる痛覚を吹き飛ばして快感が脳裏一杯に溢れ出した。

 「おっと」

 『おっと』なんて女性に全く似つかわしくない台詞と共に、刹良がグタグタにふやけて卒倒しかけた僕の体を支えた。

 至近距離で荒い二人の吐息が混じり合い、うすい靄を(かたど)った。

 夜空を見やると満点の星々がダイヤモンドみたいに瞬いている。

 「ねぇ、私の事、今でも愛している?」

 彼女に迷いを見せることが色んな意味で間違っているような気がした。

 「ああ、……愛しているよ」

 「それなら」

 あんなに真っ白で消えてしまいそうなほど儚かった彼女が、向日葵(ひまわり)みたいなとびっきりの笑顔を向けてくれた。

 「結婚して、責任取ってくれるんだよね、私の守護者(ガーディアン)さま?」

 こんな、こんな殺し文句でプロポーズされたら、断れる訳がないじゃないか。

 ゆっくりと頷いて、僕も最高の笑顔を咲かせた。


 バァン!と昇降口の扉が弾けた。僕と刹良は突然の事に驚いて飛び起きる。顔を真っ赤に染めたサエリが、両こぶしを握り締めて立ち尽くしている。その表情は、悲憤と悔悟で塗り潰されていた。ガツッ、ガツッ、と地面をけりつける音が虚しく響く。


 「好きだったのに」

 地面にぶつける怒りが徐々に萎んでいく。彼女の胸を、やり場のない悲しみが満たしているのをその涙で察した。

 「好きだったのに、生き返るなんて反則だよ……。ひどいよ、酷いよぉっ。あ、ぁ、うぁぁぁっ、ぁっ、わぁぁっ!!」

 真顔で距離を置いた僕たちは、泣き叫ぶサエリを静かに見つめた。そして、刹良がポツリと零す。

 「あの子で、私が死んでいた間を乗り切っただけなんでしょう?」

 「————————うん。残酷だけど、そうだよ」

 「私、レイヤ君の非情なところが怖いな。私だったら、そんな風に割り切れないよ」

 何も答えずに遠い目でサエリを見つめている内に、彼女はこれ以上の無様をさらす恥辱に耐え切れず、立ち上がって叫んだ。

 「レイヤくんなんて、大っ嫌い!! 馬に蹴られて死んじゃえッ!!」

 サエリが、僕を中指で指さして最大限の呪詛を吐いた。彼女は振り返ることなく、昇降階段を駆け下りて行った。そしてあたりは静まり返る。そして刹良は立ち上がって、僕を立たせた。

 「ねえ。これからの話をしようよ」

 お互い、荒い息遣いを隠す様子もない。あまりの急展開に息が詰まっていた。やっとの思いで落ち着きを取り戻して、刹良の提案に頷いた。

 「レイヤくんは、あの日、私と初めて出会ったとき、白エルフの私を、ちゃんと『一人の私』として見てくれたよね?私は、それがすごくうれしかった。だから、また一から始めるために、もう一度あの日を繰り返そう」

彼女は、大きく深呼吸して胸をなでおろした。それから、スカートのポケットから、クレンジングウォーターを取り出し、化粧を落とす。途中から後ろを向いて、顔を拭きは決めた。そして、顔を按摩して、思いっきり体を伸ばした。ゆっくりと、彼女が僕を振り返る。

 ————————その顔は、重度知的障害者の特徴を多く備えていた。

 「……でいばぐん(レイヤ君)

 彼女は、あえて発音のコントロールを放棄し、じっと彼を見つめている。これ以上ないほど、真剣な目で、じっと僕を見据えている。その口からはよだれが出ようとしているけれど、彼女は自分を偽ることはしない。そのままの自分を受け入れてくれることを、その面差しから見て取れた。

 「ぼう一度、私うぉ受げ入れで」

 ……そうか。彼女は、障害を持ってこの世に生まれて来たのか。顔も、中身も相当変わってしまったのかもしれない。でも、僕はこうして打ち明けてくれたことにほっとしていた。

 だって、彼女が素顔を見せてくれて、すごく嬉しい。そして僕は、こうも思っていた。

 『なんて、小さなことにこだわっていたんだろう』と。

 障碍者か健常者かなんて、何の価値の差もないんだ。個人一人一人が尊くて高価なんだということに、今更気が付いた。大切なことを教えてくれた彼女が愛おしくて、折れた自分の腕に鞭を打って、そっと彼女を抱きしめた。


 「ずっと会いたかったんだ。大切なことを教えてくれてありがとう。君を、愛している」

 初夏の暖かい風が僕らをそっと包み込んだ。そして、月明りに照らされた僕らは、そっとキスをした。天際の星々が優しく僕らを見守っている。


『黒き悪夢に撃砕を・完』

はい、皆様ここまでいかがでしたでしょうか?

最期までご覧くださった皆様、いやいや自分は最初から最後まで読んだぞ、という勇者様。

本当にありがとうございました。

きっとレイヤたちも、作品世界で喜んでいる事でしょう。


元々この作品は、第一に作者である僕自身の過去にケリを付けるために書き始めたものです。

切っ掛けはともあれ、内輪受けのみながら、様々な人に喜んでいただける物を書けました。

もし、このあとがきを読んでくださっているあなたが、僕の知らない方であるとするならば。

それについて僕は『幸せだ』と答えましょう。


最後に、この作品のベースを形作って下さった、関 旭宏さんと多くの下読みさんに謝辞を述べたいと思います。

皆さん本当にありがとう。

皆様のアドバイスはちゃんと僕の中で生きていますよ。

だから安心してくださいね。


と、長々と書き連ねても格好がつかないので、ここらで筆をおかせていただきます。

次回作をお楽しみに。


2018年12月27日 『壱番合戦 仁』より。

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