9話
「――陛下、折り入ってお願いがございます」
「……うん、願いを聞く前に、この状況を説明してもらおうか」
今日も今日とて札束で埋まったハルヴァリ皇帝リヴィオのベッド。
いつもの朝と違うのは、そのベッドに――端的に言えばリヴィオの枕の真横に、美花が正座をしていたことだった。目覚めたとたん、枕元に他人が座っていた時の衝撃はいかほどか。
「おはようございます、陛下」
「おはよう、ミカ……それで、何故こんなことになっている?」
のっそりと起き上がったリヴィオは、寝乱れた白金色の髪を片手で搔き上げながら、目の前にちょこんと座った美花にため息をついた。
「だから、陛下にお願いがあるんですってば。夢枕に立たれてお願いされたことって、何だか叶えなきゃいけない気がするでしょう?」
「夢枕に立つというのは、夢の中に現れることだろう? だいたい、ベッドの上での約束は無効だぞ。まあ、私の隣に横になって可愛らしくおねだりしてみせる、というのなら考えてやらんこともない」
「枕営業はいたしません。今の陛下のセクハラ発言も看過できません。訴えられたくなかったら大人しく私のお願いを聞いてください」
「枕営業はしないが、恐喝はするのか……」
満面の笑みを浮かべて不当要求をする美花を前に、リヴィオは指で眉間を揉みながら唸る。
願いは何だ、と彼が観念したように問えば、美花はますます笑みを深めて口を開いた。
「――土地を売ってください」
「……は?」
十四歳から十六歳までの各国の王太子が通うハルヴァリ皇国の学園。
ここで行われる授業は、言語、数学、生物、物理、化学、それから地理と歴史の全七科目。
地理と歴史に関しては、各国での教育はどうしても主観的になりがちなので、学年関係なしに討議させる形で授業が行われる。教師は図書館三階の主とも言える館長。彼の好意により、この世界について明るくない美花も時々授業に参加させてもらっていた。
言語、数学、生物、物理、化学に関しては、授業内容が違うので学年ごとに時間割が違う。基礎学習は入学する前に自国で習得済みなのが前提のため、一年生の時点から授業内容は高度だ。
こちらの世界の文字を何とか読み書きできるくらいのレベルでしかない美花では到底付いていけるものではないので、これらの授業への参加は端から諦めていた。
それなのにこの日、地理でも歴史でもない授業が、二学年合同で、しかも美花を加えて行われることになった。
場所は学園一階、図書館に繋がる扉とは階段を挟んで正反対の位置にある実験室だ。
この教室を主に使うのは化学の教師だが、これから授業を行うのは生物の教師だった。
「では、ミシェル。ここに来て実演をお願いできるか?」
「は、はいっ!」
実験室の真ん中に置いた大きなテーブルの周りを全員で囲う。そんな中。ミシェルを自分の隣に呼んだのは、長いアッシュブラウンの髪を後ろで一つにまとめた、青い瞳の男性だ。
彼の名はルーク・ハルヴァリ。前任寮母マリィの一人息子で、皇帝リヴィオにとっては従叔父に当たる。
現在三十五歳になる彼は、すでに十年、学園で各国の王太子達に対して教鞭を執ってきた。
そんなルークによる本日の授業は急遽開催が決まったものだ。
全ては幾日か前の朝、美花がリヴィオにしたお願いから始まった。
結果的に言うと、土地を売ってほしいというお願いは聞き入れられなかった。何故なら皇国の土地は城下町を含めて全てハルヴァリ皇族の先祖代々の財産であるからだ。
いかにリヴィオが隠れ守銭奴であろうと、どれだけ金を積まれても皇国の土地は売却することはできない。彼が先帝から相続した皇帝としての財産は、全てそのまま次の皇帝に渡さねばならないのだ。
美花がこつこつお金を貯めていたのは土地を買うためだったので、その望みが潰えたことに心底がっかりしたのだが、代わりに土地を借りることを提案された。
そもそも美花が土地を必要としていたのは他でもない――全ては彼女を構築するDNAが愛してやまない、白米のためであった。
「ま、まず水に塩を加えて塩水を作ります。濃度は生卵が浮くくらい……実際浮かべてみるといいと思います」
「ふんふん、ふんふんふん。それで?」
「え、えっと、適当な濃度の塩水ができたら、種もみを入れます。沈んだのが中身が充実している良い種もみ、浮いたのは良くない種もみです。これを〝塩水選〟と言います」
「ほうほう、なるほどなるほど。それから?」
ミシェルが行っているのは、芽出しに進めるための良い種もみの選定だった。一際熱心に聞き入る美花に、呆れた顔をしたのはカミルである。
「おい、メイド。いちいち相槌うるさいよ。黙って聞いていられないのか」
「カミルこそ、うるさい。口挟まないで」
「はあ? なんだと、このくそメイドが……!」
「はいはい、くそくそ。――気にしないで、ミシェル。続けて」
美花に適当にあしらわれ、相も変わらず逆上しかけたカミルだったが、隣に立ったイヴの無垢な瞳にじっと見つめられたとたん、振り上げそうになった拳を収めた。上級生としての自覚は、彼の中で着々と育っているようである。
「ミカは、よほどライスに対して思い入れがあるようだ。元々いた世界でも、ライスを育てていたのか?」
美花とカミルのやり取りに苦笑を浮かべつつ、不思議そうにそう問うたのは教師のルークである。
とたんに美花は居住いを正して彼に向き直った。
「はい、ルーク先生。祖父母が大きな田んぼを持っていて、親戚一同力を合わせて米を作っていたんです。といっても、私は手伝いをしていただけなので、ミシェルに詳しく教えてもらわないとなにもできないんですけど」
「なるほどね」
大陸一の農業大国であり、唯一稲作を行っているインドリア王国では、王族もそれぞれ私財として農地を所有している。小作人に丸投げしている場合も多いが、ミシェルは農業に興味があったらしく、米作りのノウハウを把握していたのだ。
そんなミシェルに、リヴィオと土地の貸借契約を済ませた美花は米作りの指南を請うた。そして、たまたまそれを聞きつけたルークが、生物の授業の一環として美花の米作りに立ち合おうと言い出して今に至る。
「選ばれし種もみちゃん達をどうするの、ミシェル。このまま土に植える?」
「いえ……えっと、浅い容器に並べて種もみが浸かるくらいに水を入れ、芽出しをします。温度が高ければ早いと三日くらいで芽が出るので、それまで毎日水を換えます」
「温度が高ければってことは、お湯に浸しておけば芽が出るのは早いのだろうか?」
「ああ、うん……早く芽を出させたいのに低温の日が続く場合なんかは、お湯を使ってもいいね」
アイリーンとイヴも、初めて接する稲作に興味津々だ。上級生と同級生な彼女達からの質問に、それぞれ言葉遣いを変えて答えるミシェルはこれまでにないほど生き生きしているように見えた。
「それで、ミカ。陛下からどれほどの広さの土地を借りれたんだ?」
「はい、ルーク先生。だいたい二坪――この実験室の四分の一くらいです。その広さの借地料なら私のお給料でも毎月無理のない範囲内なので、恒久的に借り続けられるだろう、と陛下が」
「そうか、陛下がそんなことを……。陛下は、ミカがこのままずっとこの世界に留まってくれることを望んでいらっしゃるようだね」
「大変恐縮ではございますが、元の世界への戻り方も分からない身にとっては、有り難いことです」
ルークを相手にすると、美花は妙に畏まってしまう。というのも、彼の雰囲気が元の世界の知り合いに似ているため、自然とその人物に対するのと同じような態度をとってしまうのだ。
そんな美花を目にする度に、何故かカミルは顔を顰める。
「……なに、ルーク先生の前だけいい子ぶってるんだよ、気持ち悪い」
ぽそっと小さく、彼の口から吐き出された悪態。それは結局、美花の耳にも届いてしまい……
「……っ、痛っ……いった!! 足っ!! 踏んでるっ!!」
「あらま、失敬」
テーブルの下で、美花の足が思いっきりカミルのそれを踏みつけた。