6話
「ミカちゃんは、リヴィオのことをどう思っているんだい?」
子供達を学園へと送り出したら、それぞれの部屋の掃除とベッドメイキングをするのも寮母の仕事である。
子供達の部屋は同一の仕様になっていて、十畳ほどの広さの中にシンプルな木の机と椅子、ベッド、作り付けの本棚とドレッサーがある。
他人に見られたくない物、触れられたくない物は、鍵が付いた机の引き出しに仕舞う。部屋の合鍵は寮母も持っているが、机の引き出しの鍵だけは生徒自身が責任を持って管理するのが習わしだった。
二階フロアにある四部屋を奥から順に回り、脱ぎ捨てられた寝衣とベッドのシーツを剥ぎ取って、廊下に置かれた籐の籠に放り込んでいく。洗濯は専門の侍女が請け負ってくれるので、美花は新しいシーツと寝衣を受け取ってベッドを整えるだけだ。
とはいえ、シーツを張るのは結構難しい。シーツの端をマットレスの下に入れる際、どうしても皺が出来てしまい、寮母見習いを始めた半年前は美花だって四苦八苦したものだ。
今では随分と熟れてきて、一つのベッドを整えるのに五分と掛からない。その後、床を掃いてゴミを捨て、机の上を拭き上げる。上に載っている本などは、読みかけの場合があるため別段本棚には戻さず、机の片隅にまとめて置くようにしている。
そんな風にてきぱきと動き回る美花を見守っているのが、帝王の飴色の瞳だ。
帝王は、自身を認識できる人間とは物理的接触が可能なため、その腕に抱えられて移動することも少なくはないが、結局は幽体なので一人勝手に空中に浮遊していることの方が多い。
美花が寮母として独り立ちした十日前からは特に、日中の大半は彼女の側でぷかぷかしていることが増えた。
そんな中、唐突に吐き出されたのが冒頭の問いである。
最後の部屋――階段から見て一番手前のカミルの部屋、そのベッドメイキングを終えたところだった美花の答えは簡潔だった。
「残念過ぎるイケメン上司、かな」
「ほう、残念なのかい? あれは、俺の子孫達の中でも一際いい男だと思うんだがな」
「見た目はねー。私が今まで出会った中でもとびきりの美人だとは思うよ。場合によっては直視するのが憚られるくらい」
「そうは言いつつ、さっきみたいに口付けを強請られても、君は照れもしないがな」
笑いを含んだ帝王の言葉にそうねと頷いた美花だったが、別段美形に耐性があるわけでも男慣れしているわけでもない。
美花はそもそも、多くの官僚や弁護士を輩出する名門一家の末っ子だった。そのため、幼い頃から親に連れられて欧米人と接する機会も多く、頬と頬を合わせたり、ハグしたり、時には軽く口付けしたりといった欧米流の挨拶に抵抗がない、というだけなのだ。
「俺としては、ミカちゃんがリヴィオに嫁入りしてくれれば万々歳なんだがなぁ」
「いやいや、何言ってんのよ、おじいちゃん。首長国の皇帝様が、何処の馬の骨とも知れない……というか、異世界から来たような女を嫁にしちゃまずいでしょ」
「いやいや、むしろその逆だぞ。ミカちゃんがこの世界の人間でないということは、すなわち十六の国々のどれを身贔屓する可能性がない。君ほど、中立な立場の者は他にはおらん」
「ううーん……」
リヴィオはいまだ未婚である。二十五歳というのは、美花の世界では独身であってもさほど珍しいことではないが、こちらの世界では少々婚期を逸した印象になるそうだ。
ただ、首長国皇帝陛下の結婚というのはなかなかに難しいらしい。いかなる場合も公平であることを求められるため、十六の王国から伴侶を迎えることができないのだ。
となれば、相手は自国――つまりハルヴァリ皇国内で見繕うしかないのだが、元々帝王の城下町に過ぎなかったこの国では、当然人口が限られてくる。その上、結婚適齢期で皇帝の伴侶として遜色のない人材となれば、さらに候補は減っていく。
異世界出身というのが問題にならないのならば、確かに帝王の言う通り、美花も皇妃候補に名を連ねられるだけの条件を満たしているのかもしれない。年齢的にも経歴的にも適当だし、何よりリヴィオの絶世の美貌を前にしても怯まないのが良いらしい。
とはいえ、美花には今のところ、リヴィオにも誰にも嫁ぐつもりはなかった。
「こっちの世界に来たおかげでせっかく結婚回避できたのに、今更面倒なのはご免だから」
「ミカちゃんは、元の世界で望まぬ結婚を迫られていたのだったか?」
「迫られたどころか、私の与り知らぬところで勝手に決定事項にされてたのよ。まったく、人権も何もあったもんじゃない」
「ふむ、君には随分と生き辛い世界であったようだな」
時代錯誤も甚だしいが、名のある家に生まれた女性にとってはよくある話だ。見合いの席でも設けられればまだましな方。家に、あるいは親にとって都合のいい相手に、最悪の場合問答無用で嫁がされる。
美花の場合は後者で、ちょうど祖父母の家の台所に立っていた彼女の元に、勝手に結婚相手を決めたと伝えに来たのは母だった。ちなみに名家なのは父方で、母方の実家はたいそう長閑な田舎で祖父は教師だった。
とにかく、どうしても結婚を受け入れ難かった美花は、その時生まれて初めて母に反抗した。
母に対して積もり積もった思いがあった自分の手が、包丁を握りそうになるのをかろうじて理性で抑えつけ、代わりに振り上げたのが今も美花のエプロンの後ろに刺さっているハエ叩きだ。
けれども、それが母を打つことはついぞなかった。
母に届く直前、ハエ叩きは空中で何か別の物に当たり――気が付けば、美花は水の中でもがいていて、慌てて水面に顔を出した時にはもうそこは彼女が生まれ育った世界ではなくなっていたのだ。
この時、母の代わりに美花のハエ叩きに打たれたのは帝王だった。
ただただ寮と学園の間にある池のほとりを自由気ままに空中浮遊していただけの彼が、何故まったく別の世界にいたはずの美花のハエ叩きアタックを食らう羽目になったのか。その拍子に、美花が世界を渡ってしまったことにどういう理由があるのか、論理的に説明できる者は誰もいない。
結果として、美花は実の母を打たずに済んだし、望まぬ結婚もせずに済んだので、御の字と言えなくもなかった。
「結婚相手として、リヴィオ自身が気に入らないわけではないんだな?」
「陛下のことは、別に嫌いじゃないよ。なんだかんだ言っても金払いはいいし、お金持ちだし」
「ううむ……金のこと以外でも、あれに興味を持ってやってくれんかなぁ」
「鑑賞対象としてならSランク」
どうやら帝王は、割合本気で美花をリヴィオに宛てがいたがっているようだ。
ただ、死してなおこの世界における最高権力者でありながら、彼が母と違って美花の意思を無視してまで縁談を進めようとはしないのは幸いだった。
美花が世界を渡るきっかけが、帝王との接触だったのは間違いない。それ故に、彼は身一つで見知らぬ世界に来てしまった美花に責任と同情を覚えているらしい。
美花が思うに、二つの世界は創世の時点から全く別の歴史を辿った並行世界なのかもしれない。何らかの理由リンクしてしまったほんの一瞬、もともと幽体というあやふやな存在であった帝王が美花の世界にはみ出してしまったのではなかろうか。
そんな彼とハエ叩きを介して接触してしまった瞬間、美花の世界は美花までも異物と判断し、帝王と一緒に弾き出してしまった。
対して、こちらの世界が明らかに異物である美花を拒絶しないのは、その住人達が異世界人だからと彼女を差別しないように、あちらの世界よりも寛容だからだろうか。
全ては推測に過ぎない。だが、少なくとも美花の身に起こった現象は帝王のせいでないだろう。
だから、帝王が責任を感じる必要はまったくないのだが、彼という後ろ盾のおかげで美花にとってこちらの世界はたいそう生き易かった。
ふよふよと宙に漂う帝王と会話をしながら、美花は寮母の仕事に勤しむ。
掃除とベッドメイキングにかかる時間は、一部屋大体十五分。美花は、四人の子供達の部屋に三階のリヴィオの私室と自室を加え、毎朝一時間半この作業に費やすことになる。
ただし、全員育ちが良いせいか、ベッドや部屋が散らかっていることはほぼ無いに等しかった。
最後に自分の部屋を整え、全ての洗い物を洗濯係の侍女に託して終了だ。
ちなみに、マリィが寮母を務めていた時、この洗濯係の侍女やシェフを含めた寮で働く全ての人々の雇い主は彼女だったが、現在その権限は皇帝リヴィオに委ねられている。
そのため、寮母とはいえ美花の地位は寮で働く他の人々と変わらず、妙に畏まることもない対等で友好的な関係を築くことができていた。
彼らは帝王を認識できないが、美花が何もない空間に向かってしゃべっていても、そこに帝王がいるんだなと理解してくれる。
「おじいちゃんはさぁ、成仏する気はないの? 何かまだこの世に未練でもある?」
「未練があるわけじゃないんだが……まあ、時機を失ったとでも言おうか。今更どうすれば成仏できるのか分からなくてなぁ」
「そうなんだ。じゃあ、私があの世に行く時が来たら、一緒に連れていってあげるね」
「おお……ミカちゃんや……それ、最高にグッとくる殺し文句……」
生まれ落ちたのとは違う世界で花開いた美花の人生。
幸いと言っていいのかどうかは分からないが、この時の彼女は元の世界に未練はなかった。