36話
階段の踊り場に取り付けられた窓から、朝日が斜めに差し込んでいる。
強い光は窓枠の輪郭を滲ませ、照らした階段の一段一段に濃い陰影を作り出していた。
窓の向こうには大きな池を備えた庭園が広がり、その一角には小さな田んぼが見える。
美花はコツコツとパンプスの踵を鳴らして階段を下りながら、すっかり実りの色に染まった一角に眩しげに目を細める。
ちょうどその時、一階から二階へと繋がる踊り場から、お馴染みのシェフが顔を出した。
「おはよう、ミカさん! 君の微笑みは朝日にも負けないくらい眩しいね! その笑顔に照らされて、きっと今日も輝かしい一日になることだろう!!」
「おはようございます、シェフ。相変わらずお上手ですね。今日もよろしくお願いします」
シェフの芝居がかったキザな挨拶にも美花はもう慣れっこだ。彼は文句無しに善良な人間の上、先日は不法侵入してきたケイトの父親をフライパンとフライ返しで撃退して株を上げていた。
今日も、朝食の用意ができていると告げて一階へ戻るシェフを見送ると、美花はさて、と呟いて二階の廊下に向き直った。
今日もまた、四つの部屋の扉を朝の挨拶とともに順々にノックしていく。
三つ目の部屋までは、いつも通り順調だった。部屋の中からすぐに挨拶が返ってきたし、一番目の部屋のイヴなんてわざわざ扉を開けた上、美花のほっぺにちゅっと可愛くキスの挨拶をくれた。
問題なのは、やはり四つ目の部屋だ。
「おはよう、カミル。起きてるの?」
カミルはここ最近、ずっと自力で起きようと頑張っていたのに、今朝は何度声をかけても返事がない。
前に、返事がないと思ったら高熱を出してベッドでうんうん唸っていたこともあったので、心配になった美花は久方ぶりにエプロンポケットから鍵の束を取り出した。
慣れた様子で選び取った一本を扉の鍵穴に突っ込む。ガチャリ、と意外に大きな音を立てて鍵が開いても、扉の向こうでカミルが慌てる気配はなかった。
扉を開けば、正面にある大きな窓のカーテンが閉まったままで、朝日が遮られた室内はいまだ薄暗い。
窓際にはシンプルな木の机と椅子があり、机の上には本がきっちりと積み上げられている。
扉から向かって左側の壁際には作り付けの本棚が、一方右側には壁側を頭にして、人一人分こんもりと膨らんだベッドがあった。上掛けからは、少し癖のある赤い髪が覗いている。
美花はまずベッドに近づくと、上掛けを少しだけ剥いで赤い髪から覗いた額に手を置いてみる。額はむしろひんやりとしていて熱の心配はなさそうだ。美花はほっと安堵をため息を吐き出した。
「カミル、朝ですよ。起きなさい」
「……うう」
肩の辺りを上掛けの上からトントンと叩いて声をかければ、カミルはもぞもぞとしてから薄青色の瞳を開いた。とろんとした寝ぼけ眼で美花の姿を捉えると、欠伸ついでに口を開く。
「ふわ……ミカか。何だよ、今日は休日じゃなかったか……?」
「確かに休日だけど、今朝はいつも通りの時間に起きて朝食って言ったでしょ?」
「あー、ムリ。昨夜は本を読んでて寝るのが遅くなったんだ……あと一時間、寝かせろ……」
「あっ、こら!」
カミルは再び頭まで上掛けを被ってしまった。美花は呆れた顔をしながら、窓に近づいてカーテンを開ける。
窓ガラス越しに庭園――その一角にある田んぼを眺めながら、美花は独り言のように言った。
「カミルは稲刈りしないんだー。だったら、後日開くお米の試食会も不参加ってことでいいんだよねー」
「――はっ!?」
とたんに、カミルは上掛けを跳ね上げて飛び起きた。
「ま、待てよっ! 起きる……っていうか、今起きた! 稲刈りもするし試食会にも参加するっ! 勝手に決めるな!」
彼は寝癖でぐしゃぐしゃになった赤い髪を?き上げつつ、慌ててベッドから飛び出そうとする。
だがしかし、寝衣代わりの彼のバスローブは椅子の背にかかったままで、彼自身一糸纏わぬ姿であった。
図らずもそれを目撃してしまった美花はぎょっと両目を剥く。
そして、すぐさまツカツカとベッドの側まで歩み寄り、バスローブを引っ掴んでカミルに叩き付けた。
「裸で寝るのやめなさいって、何度言えばわかるの!」
一月前までは緑の絨毯のようだった田んぼは、一面輝くばかりの黄金色に変貌を遂げていた。
種もみが発芽してからおおよそ五ヶ月、田植えをしてから四ヶ月が経ち、いよいよ収穫の時を迎えたのだ。
稲刈りの参加者は田んぼの主である美花を筆頭に、指南役のミシェル、やる気だけは人一倍あるカミル、刃物の扱いは御手の物なイヴの四人。
それぞれ両手に手袋を着け、左手で稲束を掴み、右手に鎌を持って奥から手前に引くようにして、さくっと根元を刈っていく。
アイリーンはこの日も土で汚れるのを嫌い、近くの木蔭で帝王の首を膝に抱いて、がんばってぇと緩い声援だけ送ってくる。途中でまたリヴィオとルークも覗きにきたが、何しろ小さな田んぼであるから、稲刈りは割合あっけなく終わってしまった。
刈り取った稲は三株ほどを束ねて藁で括り、木で組んだ干し棒にかけていく。これを数週間から一ヶ月干してやっと脱穀の段階に移れると聞いて、「長いな」とため息混じりにシンプルな感想を述べたのはカミルだった。
そうして、稲束を干して待つこと一ヶ月。
脱穀、もみすり、精米を経てついに白米まで辿り着いた。文字にすれば簡単そうに見えるだろうが、日本のように農業の機械化が進んでいない状況では、脱穀ももみすりも精米も、それはそれはたいそう骨の折れる作業であった。それでも、この時ばかりはアイリーンも参加し、美花と子供達四人、力を合わせて収穫した全ての米を白米まで仕上げたのだ。
そうして出来上がった白米は、全部で六合。一合を炊いたご飯が大体お茶碗二杯分なので、六合の場合――つまり今回美花の田んぼからは、お茶碗十二杯分のお米が採れたという計算になる。
これまでの労力を考えれば、まったくもって割に合わないが、されど手ずから育てたものだと思えば小さな米粒一つさえ愛おしい。
さて次は、お待ちかねの試食会――いや、試食会と銘打ったものの、そもそも収穫量が少ないので今期一回こっきりの実食会となりそうだ。
美花は白米を綺麗な水で丁寧に洗うと、この日のために用意していた大きな陶器の鍋に入れ、しばらく吸水させてから米と同じ分量の水を加えて火にかけた。
炊飯器なんて便利なものはないので、炊けるまでは付きっきりだ。毎日土鍋でご飯を炊く祖母に、その方法を伝授されていたのは幸いだった。
最初は強火で、沸騰したら火を弱めて十五分ほど炊き、ご飯の表面から水や泡がブクブク出るのが治まり水気がなくなってくれば、火をまた強めて十秒ほど加熱する。
その後、火から下ろして十分蒸らせば完成だ。
蓋を開けた瞬間にぶわりと立ち上る白い湯気、芳醇な香り、そして輝かんばかりに真っ白いその一粒一粒に、美花はえも言われぬ懐かしさと感動を覚える。たまらず涙ぐむ彼女に子供達は目を丸くしていたが、美花が木ベラで白飯を混ぜれば、揃ってごくりと喉を鳴らした。
「いいにおいがする。おいしそう……」
思わずといった風にそう呟いたのは意外にも、普段からあまり食べ物に執着がないアイリーンだった。それに驚くと同時に、彼女が炊きたてのご飯のにおいを〝いいにおい〟と表現したことに美花はほっとする。
というのも、米の旨味成分であるアミノ酸には硫黄の成分を含むものがあり、米を炊けばその一部が分解されて硫化水素のような化合物を作る。そのため、炊きたてのご飯からは微量ながら硫黄化合物のにおいがし、特に白飯に馴染みの薄い西洋人などはそれを〝くさい〟と感じるらしいのだ。
幸い、アイリーンも含めてこの場にいる者の中には、炊きたてのご飯のにおいが受け付けないと言うものはいなかった。
炊きたてを、シンプルに塩おにぎりにしていただく。
こちらの世界の米はライスと呼ばれ、主食というよりは料理に加える穀物の一種といった扱いだ。白米だけ炊いて塩を付けた手で握る――なんて発想は、唯一の米の産地であるインドリア王国にもないらしい。
美花が一心不乱に握っていくおにぎりを、帝王や子供達も、様子を見に来たついでにちゃっかりお相伴に与るつもりらしいリヴィオとルークも興味津々で眺めている。
「ミカ、手が真っ赤……熱くないの?」
「めちゃめちゃ熱いよ。でも熱々を握るのが一番美味しいんだ」
美花の背中に貼り付いたイヴが、肩に顎を載せて手元を覗き込んでくる。はっきり言って邪魔だが、美花限定ですっかり甘えっ子になってしまったイヴが可愛いのでやめさせようとは思わない。
「塩はどういうのを使ってるの? こだわりは?」
「普通の塩。寮のシェフが肉に振っていたのと同じやつだよ」
ポイントは、塩をそのまま手に付けて握るのではなく、あらかじめ適当な濃さの塩水を作り、それを手に付けてご飯を握ることだ。こうするとまんべんなく塩味が付き、ほどよい仕上がりになる。
「何でもいいから早く食わせろ」
「カミル、ハウス」
もう待ち切れないといった様子で、先に握られたおにぎりに伸びてきたカミルの手を、美花は米粒の引っ付いていない手の甲でビシッと叩く。お預けを食らった彼は、久しぶりに「くそっ」と悪態を吐いた。
美花の掌サイズなのでさほど大きいおにぎりではない。それでも美花自身を含めて七人分、一人二個ずつとして十四個握れば鍋は空になり、すなわち今年採れた米は来年の種もみ用を除いて食べ切ることになる。
米ができるまでには、八十八もの手間がかかるといわれている。時間をかけ手間をかけて育ててやっとのこと白米にまで辿り着けたというのに、その日のうちに全部食べ切ってしまうなんて勿体ないと思われるかもしれないが、こうして全員で集まって食べることにはそれ以上の価値があった。
同じ釜の飯を食う、ということわざがある。
一つ屋根の下で寝起し、一つの釜で炊いたご飯を分け合って食べる――つまりは、元は他人同士が一緒に毎日を過ごし、苦楽を共にして生活していくという意味で、とても親しい間柄のことを言う。
美花が握った塩おにぎりを無邪気に頬張る四人の王太子達は、この広い大陸にある十六の王国の内、ハルヴァリ皇国に留学する期間がたまたま重なって出会った。
繊細な年頃の彼らは、それぞれに悩みや鬱憤を抱えている。留学を終えて祖国に戻った後も、国を背負って立つプレッシャーに圧し潰されそうになることもあるだろう。
そんな時、同じ立場で似通った悩みを持つ仲間達と一緒に泥に塗れ汗水垂らし、そうして最後には共に白飯を頬張った今日のことを思い出してもらいたい。
そうして、彼らが国を超えた強い絆で結ばれ、お互いの心の支えとなってくれるよう、美花はおにぎりを握る手に祈りを込めた。
インドリア王国から荷車いっぱいの米が届き、美花が狂喜乱舞するのはこの三日後のことだった。




