33話
寮の消灯時刻である午後十時を回った。
美花は戸締まりをし、二階の子供達がそれぞれの部屋にいるのを確認すると、やっと自室のある三階に戻ってくる。同じ階にあるハルヴァリ皇帝の私室の扉をノックして、就寝の挨拶を告げれば寮母としての一日の仕事は終了だ。
ところがこの日、扉の向こうから返ってきた皇帝リヴィオの言葉は「おやすみ」ではなく「少し寄っていきなさい」だった。
若い男女が夜の個室で二人っきりになるなんて、色っぽい展開が期待されるが……
「何時見ても、百年の恋も冷めちゃいそうな光景ですね」
美花を迎えたリヴィオのベッドは、一面の薔薇の花弁――ではなく一面の札束で埋め尽くされていた。
その真ん中に座り込んでワイングラス片手に札束を数えている風体は、この大陸で唯一〝陛下〟と崇められるハルヴァリ皇帝の姿としてはあまりにも柄が悪い。
ただ、彼の類稀なる美貌のおかげで、結局はどんな事をしていても絵になるのだからずるい、と美花は思った。
「今更この光景を見て幻滅するほど、ミカは私を理想視していないだろう?」
「していませんけどね」
「だったら何も問題はないな――そこに座りなさい」
「……はーい」
リヴィオが指差したベッドの端に、美花は大人しく腰をかける。
すると彼は、ワイングラスをベッドサイドのテーブルに置いて美花へと向き直った。
「どうして呼ばれたのか、分かっているのか?」
「分かっていると思いますか?」
前にも同じようなやり取りをしたなと思いつつ、質問に質問で返すという卑怯な手段に出た美花に、リヴィオは今夜は大きなため息を吐く。かと思ったら、掌を上にしてすっと片手を差し出してきた。
指先まで造形美を感じさせる手とその主の美貌を見比べた美花は、前回同様、自分の片手をポンとその上に載せる。
「今朝はこの部屋で所有者不明の札束を保護したりしていませんよ。それとも何ですか? 皇帝陛下ともあろうお方が、この哀れな世界的迷子の雇われ寮母に対して今更みかじめ料でも要求しようって言うんですか?」
「どうしてそうなる」
「っていうか、上司が部下を自分ベッドに座るよう要求するのなんて、完全にセクハラですからね。むしろ慰謝料払ってください」
「ミカは私にたかることに対して躊躇がなさ過ぎだと思うぞ」
今一度盛大なため息を吐きつつ、リヴィオは自分の手に載せられた美花のそれを握って引っ張り、額がくっ付くほどまで顔を寄せる。そうして、飴色の美しい瞳で美花の茶色の瞳をぐっと覗き込んで問うた。
「ーールーク先生の母親について、アイリーンに聞かされたそうだな?」
「……わあ、陛下、情報早いですね」
美花が、ルークを生んだ母親がアイリーンの祖母に当たる先代ハルランド女王だと聞かされたのは、この日の午後のことだった。
美花はそのことをリヴィオに報告していないので、おそらくは帝王辺りが彼に告げたのであろう。
リヴィオは目を逸らさぬまま、皇帝らしい威圧感たっぷりの声で告げた。
「決して口外せぬように。例え、ルーク先生自身に対してもだ」
美花はどうやら釘を刺されたらしい。それもそのはず。
三十五年前に王太子が起こした間違いが世間に知られることは、王太子本人がすでに正式な次代に玉座を譲って引退しているハルランド王国にとっては、アイリーンも言った通り痛くも痒くもないだろう。
ただし、間違いが起こった場所がハルヴァリ皇国であると知れ渡ることは、皇国側の管理不行き届きが明るみに出るということであり、ひいては大事な王太子を預ける各国からの信頼が揺らぎかねないのだ。
それは、国家収益のほとんどを各国からの上納金が占めているこの国にとっては、冗談抜きで死活問題だった。
それでなくても、イヴに差し向けられた刺客の入国をハルヴァリ皇国民であるケイトが手引きした件で、今まさに各国において皇国民の品格が問われているはずだ。
国と呼ぶには烏滸がましいほど小さな小さなハルヴァリ皇国が、今もまだ首長国として君臨し続けていられるのは、帝王やその末裔である皇帝に対する各国君主の忠誠心あってこそ。ハルヴァリ皇国には各国の信頼に応える義務があり、王太子を受け入れて三年間大切に育てるのは最も重要な国家ビジネスであり唯一の生き残る術だ。
また、王太子達に職業体験をさせるための場所として城下町を提供する限り、そこは彼らにとって絶対に安全な場所であらねばならない。
それなのに、ケイトやその父親のように、皇国直轄地に生まれ育った自分達は選ばれた人間であるように錯覚した一部に人間の行動に、ハルヴァリ皇帝は代々頭を悩まされてきたらしい。
今回ケイト達に重い処罰が下ったことが見せしめになり、皇国民の多くは身を引き締めるだろうが、膿はまた忘れたころに溜まってくるだろう。
それを理解しているからこそ、美花はこの時ばかりは茶化さずに、真剣な表情で答えた。
「分かってますよ、陛下。絶対に誰にも言いません。約束します」
ところが、リヴィオは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、おそるおそるといった態で問うた。
「……口止め料を要求しないのか?」
「いや、さすがにしませんよ。陛下は私のことを何だと思っているんですか!?」
「私に負けず劣らずな守銭奴だと思っているが? 必要なら、今このベッドの上にばらまいている札束を全部差し出すくらいの覚悟でお前を呼んだんだ」
「それはまた、随分な覚悟ですね。でも、人様の出生の秘密を出しにして陛下を強請るほど、落ちぶれてはいませんよ」
美花は何の含みもなく本心からそう告げた。それなのに、リヴィオはなおも彼女の手を握ったまま問うのだ。
「本当に本当か? 二言はないと誓えるか?」
「しつっこい! ルーク先生のことは何があっても口外しません! 口止め料もいりません! 誓います! これで満足ですか!?」
さすがに焦れた美花が宣誓するみたいに告げれば、リヴィオはやっと安堵のため息を吐いた……まではよかったのだが。
「いざとなったら、お前を手篭めにしてでも口外しないと約束させるのも辞さないつもりだった」
「は!?」
彼はとんでもないことを口にしながら、美花を抱いてベッドに倒れ込んでしまったではないか。
リヴィオの言葉を理解したとたん、美花は一瞬で真っ赤になった。怒りと羞恥の両方で、だ。
なに馬鹿なこと言ってるんだ、と叫ぶつもりだった。セクハラでは済まないぞ、と詰って然るべきだった。今なら急所を蹴り上げてもタコ殴りにしても、正当防衛が許されただろう。
けれども、美花は結局そのどれも実行することはなかった。
自分に覆い被さって全身の力を抜いたリヴィオが、ひどく疲れているのを感じたからだ。
玉座にいる限り心労が尽きないであろうハルヴァリ皇帝に、美花はこの時恐れ多くも同情を覚えたのだった。
「陛下、お疲れ様。今日はもうお休みになった方がいいですよ。明日の朝は、万が一札束が床に落ちていても、こっそりくすねたりしないと約束ますから、安心してください」
美花がそう言って背中を撫でてやると、彼女の肩口に顔を埋めるみたいにして突っ伏しているリヴィオが頷く気配があった。
彼は自分が起き上がるついでに美花のことも抱き起こし、何故だかそのまま膝に載せてしまう。
さらには、自分の頬を人差し指の先でトントンと叩いて見せた。
「何ですか、陛下。ぶってほしいんですか?」
「ではなく、おやすみのキスを所望する。もちろん、対価は支払う」
リヴィオはそう言うと、ベッドにばらまいていた札束から紙幣を一枚引き抜いて美花の手に押し付けてくる。いつぞや〝見送りのキス〟をした時は硬貨一枚――紙幣一枚の半額だったのを思えば、今回の報酬は破格と言っていい。
そもそもリヴィオが何故金に執着しているのかを、美花は知ってる。
彼はこれまでのような、十六の王国の忠誠心にぶら下がる形の国家経営に強い危機感を覚えていた。いつか各国の忠誠心は薄れ、それとともに上納金は減っていきハルヴァリ皇国は困窮するだろう、と彼は考えているのだ。
そうならないためにも、各国からの上納金などに頼らずに、国内外での産業活動により収益を得て国を動かしていきたい。
けれども、十六の王国はハルヴァリ皇国が今のままの崇拝対象であることを望んでいて、特に皇帝や皇族が営利活動をするーー例えば会社を立ち上げたり、株を売買することに対して抵抗があるらしい。
綱渡りな国家経営という現実と、とにかく祭り上げたい各国が押し付けてくる理想。
その間に挟まれて苦しんだリヴィオが、いざという時でも国家を維持できるように、と国庫とは別に個人的に金を貯め始めたのが最初らしい。つまり、リヴィオが貯めている金は、そもそも彼自身が好き勝手使うためのものではないのだ。
国家が経営危機に陥った場合の保険であり、リヴィオにとっては精神安定剤にも等しかった。
そんな大切な金の中から差し出された紙幣を、美花は受け取らなかった。自分が二十歳の誕生日の夜に酔って絡んだところ、リヴィオに無償で慰めてもらったのを忘れてはいなかったからだ。
美花は目の前の男の白い頬に、そっと唇を押し付けた。
「おやすみなさいませ、陛下」
「ああ……」
前回よりも少しだけ彼のことを意識してしまったのは、この日の昼間、リヴィオが前々から美花のことを憎からず思っていた、なんてアイリーンが言ったせいだ。




