32話
32
「ミカって、年下の男性の守備範囲はどの辺りまでなのかしら?」
「……は?」
カミルは課題のテーマを靴の歴史に定めたらしい。三階にやってきていたのは、最も古い文献が持ち出し禁止の重要参考資料に指定されていたからだ。
閲覧スペースの机に先人の手記を広げて片っ端から読んでいた美花の隣で、彼は黙々とレポートを書いていたが、しばらくすると残りの資料を探しに下の階へと下りていった。
そんなカミルと入れ違うようにしてやってきたのが、アイリーンである。
アイリーンはノート以外に資料らしいものを持ってはいなかったが、代わりに帝王の生首を小脇に抱えて現れ、美花の向いの席に陣取るやいなや口にしたのが冒頭の質問である。
美花は読んでいた手記から顔をあげ、可愛らしく両手で頬杖をついてこちらを窺っているアイリーンに眉を顰める。その間帝王は机の上をにじり寄り、美花の手元を覗き込んでいた。
ちなみに、この時彼女が読んでいたのは木こりの与作さん三十五歳ーー明治の時代からこちらの世界にやってきたらしい人物による、たどたどしい筆跡で書かれた手記だった。
美花の祖父母の田舎には、ちょうど同じ時代に同じ名前の男性が神隠しに遭った言い伝えがあり、手記を書いた与作氏と同一人物ではないかと考えられる。彼が行方不明になったのは、美花の祖父が狸に化かされて餡ころ餅を盗まれた、あの竹やぶ辺りだという。
「年上は、ルーク先生までは大丈夫なのよねぇ? じゃあ、年下はどうなの?」
「……それって、今しなきゃいけない質問? っていうかアイリーン、遊んでないで課題をしなさい」
「あら、この質問だってレポートを書くためのものよ? 私、課題のテーマを〝男女の愛憎の歴史〟にしたんだもの」
「ちょっとそれ、十八歳未満がレポート書いたらだめなやつじゃないかなぁ!?」
美花は与作さんの手記を閉じると、帝王の生首を抱いてアイリーンに向き直る。
美花が話に付き合ってくれるつもりだと知ったアイリーンは、にっこりと笑ってノートを広げた。
「私ね、ミカは陛下かルーク先生とくっつくべきだと思っていたのよ? だって前々から、二人ともミカのこと憎からず思っていたんだもの」
「そんなわけないでしょ。陛下と私はあくまでビジネスライクな関係だし、ルーク先生は私みたいな小娘相手になさらないってば」
「ミカがそんなに鈍いこと言ってる内に、とんでもない穴馬が台頭してきちゃったじゃない。ーーそれで、誰にするつもりなの?」
「いや待って。まず、穴馬って誰のことよ!?」
思ってもみないアイリーンの言葉に力んで叫べば、腕の中の帝王が「ぐえっ」と呻いた。生身でもないのに絞められると苦しいらしい。
慌てて腕の力を緩めた美花に、ペンをふりふりしながらアイリーンが楽しそうに答えた。
「カミルに決まってるでしょ。だから、年下の守備範囲はどこまでって聞いたんじゃないの。彼、最近背も伸びて男らしくなってきたし、前みたいに癇癪立ててクソクソ言わなくなったでしょう? あれ、絶対ミカのこと意識してるのよ」
「……へ?」
アイリーンの言葉は、美花にとってはまさに寝耳に水だった。
確かにカミルの態度は美花が寮母に就任した当初に比べれば随分と軟化したように思う。だがそれは、お互いに時間を重ねて理解を深めた結果であり、またカミルが人間として成長したのが所以だろう。
彼の態度の軟化がイコール美花への恋慕と捉えるのは、いささか乱暴ではあるまいか。
そう主張する美花だったが、アイリーンはまるで残念なものを見るような目を彼女に向けて吐き捨てた。
「ーーミカの恋愛経験値、低過ぎ」
「うっ……」
クリティカルヒットを食らった美花が呻き、その腕の中からも「うっ」と声が漏れた。また腕が締まったらしい。
美花は高校三年生の時の担任相手にやっと初恋を覚えたくらいで、それ以前も以降も誰にも恋愛感情を抱いてこなかったのだから、五歳で既に結婚を考えるほどの初恋を経験していたアイリーンからすれば雑魚キャラにも等しいだろう。
アイリーンの指摘は限りなく事実である。とはいえ、認めるのはとてつもなく悔しい。
美花は涙目でアイリーンを睨みながら、逆ギレ気味に口を開いた。
「人のことよりも自分はどうなのよ、アイリーン。あなただって思春期真っ只中でしょ?」
「お生憎様、ハルヴァリに留学中の王太子は恋なんてしない方がいいのよ? 特に女の子はね」
間違いが起こったら大変でしょ?
そう続けてにこりと笑ったアイリーン。その視線の先にいた人物に気付き、美花は一瞬ドキリとした。
こちらに背を向けて図書館長と何やら立ち話をしているその人物の名は、ルーク・ハルヴァリ。
ハルヴァリ皇国に留学中だった王太子同士の間に生まれながら、その事実を隠して先代寮母の息子として育てられた。そんなルークを見るアイリーンの眼差しはひどく意味深で、美花は思わずごくりと唾を呑み込む。
腕の中の帝王を縋るように見れば、彼はやれやれといった顔をしてた。もしも肩があったなら、きっと大きく竦めていただろう。
アイリーンはペンの後ろを顎に当てつつ、遠くを見るような目をして続けた。
「私がハルヴァリ皇国に発つ日の前夜、突然おばあ様が部屋に来ておっしゃったの。他の国の王太子とは決して恋をしてはいけませんよって。万が一間違いが起こった時、傷が残るのは女の方だからって。おばあ様は、その傷の痛みを一生抱えていくつもりだって」
「えっと……それってつまり……」
アイリーンの祖国ハルランド王国は女王の国だ。彼女の母が現在の女王で、祖母は先代の女王ーー今から三十五年前にハルヴァリ皇国の学園を卒業した王太子の一人だった。
「おばあ様はね、十六歳で私生児を産んで、その子をハルヴァリに置いてきたんだって。その子の父親のことをとても愛していたけれど、祖国を捨てられるほどの愛ではなかったのね。だから、留学期間が終わると同時にきっぱりと関係を解消して、子供を捨てて祖国に戻り、そうして何食わぬ顔で結婚して私の母を生んだのよ」
つまり、ルークの実母はハルランド王国の先代女王であり、彼とアイリーンの母は父親違いの兄妹、アイリーン自身とは伯父と姪に当たる。
「おばあ様たら、なんて身勝手なのかしらね」
そう呟くアイリーンの表情からは、祖母に対する失望がまざまざと感じられた。
一方で、いまだ自分の出生の秘密を知らないルークに向けられる彼女の視線は柔らかい。
「やっぱり、血の繋がりがあると思うと甘くなるじゃない。だからね、私は最初ルーク先生を応援するつもりだったの。以前薬を盛った先生の所にミカを行かせたのも、いっそ既成事実でも作っちゃえばいいのにって思ったからなのよ」
「ええ、待って? 私の意思は完全無視ですか? それにおばあ様のプライベートなこと、私に聞かせちゃってよかったの?」
「あら、今はもう何の権力もないおばあ様の私生児が世間にバレたところで、ハルランド王国は痛くも痒くもないですし、そもそもミカは他人の出生の秘密を無闇に口外するような短絡的な人じゃないでしょ?」
美花はもちろん、と即座に頷いた。
身内の秘密を打ち明けてもらえるほど、アイリーンの信頼を得られているのだと思うと誇らしい。
そんな美花にアイリーンはにっこりと笑って続けた。
「ルーク先生に幸せになってほしいと思うの。でもね、私ってばミカのことだって好きなのよね。だから、この世で一番権力を持っていてミカを守ってくれそうな相手って考えたら……それはやっぱり、陛下ですよね? 帝王様」
「うむ、俺は前々からリヴィオがいいと言ってるんだ。ミカちゃんはあの美貌に一切靡いてくれんが、その分怯みもしないからなぁ」
突然話を振られた帝王が、ぶれずにリヴィオを推してくる。
それなのに、アイリーンは穴馬の存在も捨てがたいらしい。
「ところがどっこい、ここで大躍進してきたのがカミルなのよ。先の二人に比べればまだまだ尻は青いけれど、将来有望株なのは間違いなし。フランセンは大国だから、大きな玉の輿にだって乗れるわよ?」
「そんなお姫様な見た目のくせに、どっこいとか言っちゃうんだ。どっこい、ちょっと私に頭の中を整理させてもらえるかな?」
美花は帝王を抱えるのをやめて、自分の頭を抱えた。
とりあえず、アイリーンが述べた主観をそのまま鵜呑みにするつもりはないので、彼女が名前を挙げた三人とどうこうなろうなんて期待しない。
不思議なのは、アイリーンがどうして急にこんな話をし始めたのかだが、その答えは案外早く判明することになった。
「別に、ルーク先生でも陛下でも、カミルでもなくていいのよ? 誰か、ミカを幸せにしてくれる人ならーーこちらの世界に留めておいてくれる人だったら、誰でもいいの……」
そう呟いたアイリーンの視線は、美花が机の上に積んでいた先人の手記に向けられていた。
彼女の表情は、元の世界に戻りたいのか、と問うた先ほどのカミルのそれとよく似ている。
それで、美花ははたと気付いた。
自分が過去に別の世界から渡ってきた人々の手記を読んでいる姿は、元の世界を懐かしみ、戻りたいと切望しているようにアイリーンの目に映ったのではあるまいか。そして、それは彼女に不安をもたらした。
アイリーンは美花にまだ側にいてほしいと、そう思ってくれているからだ。
「……」
誰かに必要とされるのがこんなにも嬉しいことだと、美花は改めて実感した。
たちまち頬がゆるゆるになるのを止められそうになくて、慌てて俯く。
そうすると、机の上に乗っかっていた帝王の飴色の瞳とかち合って、慈愛に溢れたその眼差しにますます面映いような気持ちになった。
美花をこちらの世界で幸せにすることによって、彼女を自分の側に留めおきたいと願うアイリーン。
一方、母との過去に向き合おうとする美花を否定せず、手記を読むために日本語を学ぶとまで言い出したカミル。
美花が手記と関わるのをよしとするか否かという違いはあれど、今後も彼女を必要としてくれているのは、二人とも同じだった。




