31話
「も、もうちょっと……」
図書館の三階、持ち出し禁止の重要文献が並ぶ棚の前で、美花は必死に爪先立ちをしていた。
見たい資料が、ちょうど彼女の手が届くか届かないかという高さの段にある。踏み台を使えば済む話なのだが、この時はたまたま近くになかったのだ。
この日、美花は二学年合同の歴史の授業に参加させてもらっていた。
教師は図書館長で、それぞれにテーマを決めて図書館で調べ物をし、レポートにまとめて後日発表するという課題が出た。
別の世界からやってきた美花にとって、この大陸の歴史は何もかもが真新しく感じられて面白い。だが、今回彼女は敢えて、独自のテーマで課題に臨むことにした。
「うっ……やっぱり、無理かも……」
目当てのものをなんとか引っ張り出そうとするものの、棚には資料がぎゅっと詰まっていてなかなか引き出せない。大人しく踏み台を探しに行くしかないかと思った、その時だった。
「ーーこれがいるのか?」
聞き慣れた声がして、すっと背後から伸びてきた手が難なく資料を引き抜いてくれた。
ぱっと振り返った美花の後ろには、思った通りの相手。困っている所をスマートに助け、さりげなく身長差がアピールされるという、少女漫画にありがちな胸キュンシーン……のはずが、美花は愕然とした。
「えっ、うそ……うそうそ、本当に!?」
「うそなのか本当なのか、どっちだよ」
背後に立っていたのはカミルだった。親切に本を取ってやったのに、礼を言うどころか自分の顔を見上げて間抜け面をさらしている美花に、彼は少々ムッとした様子。
しかし、カミルの機嫌の善し悪しなど普段からほとんど気にしない美花は、この時も彼の眉間の皺にかまいはしなかった。
「待って待って、ちょっと待って!?」
「いや、お前が待てよ」
訝しい顔をするカミルを強引に引っ張って窓の前までやってきた美花は、ガラスに並んで映る自分達のシルエットを見て唖然とする。
彼女が正式に寮母に就任し、カミルが二年生に進級した時、二人の身長はほぼ同じ――何なら美花の方が爪の先分ほど高いくらいだったのだ。
それが、半年と少しが経った今、頭半分くらいの身長差ができてしまっている。もちろん、身長が伸びたのはカミルの方だ。
「……あんた、いつの間にそんなに身長伸びたのよ」
「そういえば……つい先日もズボンの丈が短くなって裾直しをしたっけ」
「え……寮母サン、裾直し頼まれてないですよ?」
「ああ、靴を縫う時の練習も兼ねて、自分で縫ったからな」
竹のようにぐんぐん背が伸び、どんどんハイスペックになっていく十五歳に、駆け出し寮母は脱帽である。
美花が感心したようにまじまじと見上げていると、カミルは居心地の悪そうな顔をして、手の中にあった資料へと視線を逸らした。
そもそもは美花が見たかった資料なのだが、ふと彼も興味を覚えたらしく、何気ない様子でその表紙をぺらりと捲る。とたん、彼は目を丸くした。
「ミカ、これ……」
「うん、私みたいに世界を渡ってきてしまった人の手記」
ハルヴァリ皇国には、過去にも美花のように世界を越えてきてしまった人間がおり、その明確な証拠が本人達の手記として存在している。手記は日本語で書かれているので、カミルはおそらく読めないだろう。こちらの世界でこれが完璧に読めるのは、図書館長だけらしい。
カミルは手記を睨みつつ硬い表情をして問うた。
「ミカは……元の世界に戻りたいのか?」
同じような問いを美花はこれまでもいろんな人に投げ掛けられてきた。
答えもこれまで通り決まっている。少なくとも、今すぐ帰りたいとは思っていない。だが……
「最近ちょっとだけ、母にいつかもう一度会ってみたいって感じるようになってきたんだよね」
「母親って……お前を無価値だって決めつけたんだろう? なんでまた、そんなヤツに……」
カミルが苦々しい顔をする。
握り潰されそうになっている手記を彼の手から救出しつつ、美花は苦笑を浮かべた。
彼女の心境が変化するきっかけとなったのは、刺客からイヴを助けようと飛び出して両膝を擦りむき、半強制的にリヴィオに負ぶわれたことだ。彼の背に揺られながら、美花はずっと幼い頃の記憶の中に、同じように母に負ぶわれた事実があるのを見つけてしまった。
「私、母と腹を割って話し合ったことがなかったって気付いたの。大学受験に失敗した時にかけられた言葉がショック過ぎて、あの時は母がそれまで私に望んできたことの何もかもが独善だったんだと思ったけれど……でも、本当にそうだったのかなって……」
母が存在するのとは全く別の世界に来て、美花は自分達母子の関係を客観的に振り返ることができていた。
母の期待に応えようと必死に頑張っていた自分を、自分自身で褒めたいと思う。
残念ながら母の掲げた目標には届かなかったけれど、それに向かって必死に勉強した美花の努力は無駄ではないはずだ。
「……それで、その手記を使ってどんなテーマで課題に臨むつもりなんだよ」
カミルはまだ納得していないような顔をしていたが、母との過去に向き合おうとする美花を否定するつもりはないらしい。
美花はまた彼の手を引いて先ほどの本棚の前まで戻りつつ、他にもいくつか資料を取ってくれるよう頼んだ。
「歴代の異世界人達の手記をもとに、私の祖父母の田舎で語り継がれている神隠しの伝説と照らし合わせた上、二つの世界は並行世界ではないかという仮説を発表したいと思ってるの」
「それって、そもそも歴史の授業と関係あるのか?」
「これまで何人も世界を渡った人がいた事実があるんだから、もう立派にこの世界の歴史の一部でしょ? 今後も誰かが渡ってくる可能性だってあるし、もしかしたらこちらの世界から私の元の世界に渡る人だって出るかもしれないよ」
「確かに……。世界の行き来が一方通行だとは限らないよな」
最終的には先人に倣って自分も手記を書こうと思っている。
そう告げてから、カミルに取ってもらった先人の手記に視線を落としていた美花の頭上に、「なあ」と声が降ってくる。
「その手記、俺も読んでみたい」
「えっ、これ? 日本語だけど大丈夫? 興味のある部分だけ、こちらの言語に訳そうか?」
「いや、全部ちゃんと自分で読みたい。だから、その〝ニホンゴ〟っていうのを俺に教えろ」
「ええっ……」
教えを請うにしては随分と不躾なカミルの態度。
普段の美花ならば、〝教えて下さいませ、寮母さん〟でしょ? と即座に言い直しを命じるところだが……
「だって、ミカも手記を書くとしたら、先人同様その〝ニホンゴ〟で書くんだろう。こっそり俺の悪口なんか書き込んでないか検閲してやる。そのためにはまず、文字が読めなきゃだろう?」
だから教えろ、とふんぞり返るカミルに、美花は慌てて頷く。
違う世界に来てしまっても、美花はやっぱり日本人だ。自分のアイデンティティの一つである日本語に彼が興味を持ってくれたことは、動機はなんであれ単純に嬉しかった。
美花は思わず、前よりずっと高くなった彼の頭をわしゃわしゃと撫でる。
子供扱いするなと睨まれた上、逆に髪がぐしゃぐしゃになるまで撫で返されたのは、実に新鮮な体験であった。




