28話
イヴを狙った黒尽くめの男は、やはりヤコイラ王国から彼女を暗殺するために送り込まれた刺客だった。
そして、男が矢を射るために潜んでいたのは、いつぞや美花が鉢の水をぶっかけられそうになったのと全く同じ大通り沿いの宝石店の二階――ケイトの家の二階だった。
これは何も偶然ではない。なんと男は、ケイトの手引きでハルヴァリ皇国に入っていたのだ。
リヴィオの口からイヴ暗殺未遂事件の顛末が語られたのは、翌日の夕食後のことだった。
ダイニングテーブルを囲み、今回の被害者であるイヴだけではなく、カミルもアイリーンもミシェルも、もちろん美花だって、真剣な顔をしてリヴィオの話に聞き入った。
広場という公衆の面前で騒動を起こし、皇帝リヴィオ自ら皇城への立入りを禁止されて以来、ケイトは城下町での肩身が狭くなっていた。皇帝の怒りに触れるのを恐れ、昔馴染みの靴屋も、ちやほやしてくれていたパーラーも、父の腰巾着だった文房具屋や貴金属店も、一気に付き合いが悪くなった。
それまで言いなりだった従妹も、大衆食堂のホール係をクビになってからケイトから離れていき、最近ではまったく遊んでくれない。
ところが、そんな状況でも自業自得だと反省しないのがケイトである。
父親から溺愛され、蝶よ花よと育てられた彼女は、世界は自分を中心に回っていると本気で思っている。そもそも父親が、遠縁の娘が現皇帝の母親であることに思い上がり、まるで自分達もハルヴァリ皇族の一員であるかのように錯覚していたのだ。ケイトの人格形成が破綻した原因の多くがこの父親にあることは火を見るよりも明らかだった。
「とにかく、思い通りに行かない日々に苛々としていたケイトは、夜な夜な城壁の外へと繰り出して、酒を飲んでは愚痴っていたらしい」
「あらま、夜遊び三昧ですか。とんだ不良娘ですね。夜の盛り場なんて、お父様がよく許しましたね」
「父親は父親で、夜は女性と遊ぶのに忙しいらしい。もちろん、奥方とは別口だ」
「うわぁ、最悪……」
美花とリヴィオの口から同時に呆れたようなため息が漏れた。
城壁の外はもうハルヴァリ皇国ではなく、周囲の町は十六の王国共有の非武装地帯となっている。
様々な国の人々が店を開く多国籍かつ混沌とした空間で、ケイトのように奔放な性格の人間には非常に魅力的な場所だろう。
ハルヴァリ皇国民がここに出入すること自体は禁じられていないが、城壁の門は日の入りとともに堅く閉じられるので、夜に城壁の外の酒場で呑もうと思ったら、翌朝の開門までハルヴァリ皇国に戻ることはできない。
朝まで一人で呑んでくだを巻くケイトのような若い女性は、さぞかし目立ったことだろう。その口から、王太子だの寮母だのという言葉がポンポン飛び出すのだから余計にである。
イヴ暗殺の密命を受け、ハルヴァリ皇国に潜り込む機会を窺っていた刺客の男に目を付けられたのは必然だった。
「自分はイヴの許嫁で、三年も彼女に会えないのが辛くてここまでやってきた。せめて、物陰からでもいいから一目彼女に会いたい。自分に協力してくれれば、今後のことをイヴに上手く取り成してやる、と持ちかけられたらしい」
「……ちなみに、イヴは本当に許嫁がいたりするの?」
リヴィオの説明を受けての美花の問いに、イヴはぶんぶんと首を横に振る。
ついでに、他の三人にも同じ質問を振ったが、全員これと決まった許嫁はいないらしい。
ただし、どの国も玉座を継ぐ前に伴侶を得ているのが望ましいそうで、ハルヴァリ皇国での三年間が終わると、王太子達は国王補佐となって政務を学ぶとともに婚活も必要になるという。
美花は、何故だか許嫁のくだりに一番複雑そうな顔をしたカミルの頭をよしよしと撫でつつ、リヴィオに向き直った。
「そんな、いかにもな話……ケイトさんは信じちゃったんですか?」
「信じたらしいぞ、愚かにもな。刺客の素顔はエキゾチックな美形でな。ヤコイラ王太子の許嫁にふさわしいと思って疑いもしなかったらしい。城壁の夜警の一人を買収し、夜の闇に紛れて彼をハルヴァリ皇国に入国させた」
苦々しく吐き捨てるように言ったリヴィオの前に、美花はお茶を満たしたカップを差し出した。
ちなみに、紅茶ではなく麦茶である。こちらの世界でも大麦は栽培されていて、それを使ったビールのような醸造酒が普及している。大麦を殻ごと炒って煮出す麦茶は一般的ではないが、美花が見よう見まねで淹れたそれをリヴィオはたいそう気に入った。
以来、彼が疲れているなと感じた時には、意識して用意するようにしている。
麦茶を口に含み、眉間の皺を僅かに浅くさせてリヴィオが続けた。
「さすがのケイトも、彼を連れて堂々と皇城にやってくるほどの気概はなかったらしい。食堂への行き帰りにイヴが通るからと、大通りに面した自宅の二階に案内しーーそこで、刺客は本性を現した」
「まあ、その、何と言いますか……ケイトさん、よく殺されなかったですね」
ケイトも、一階の宝石店にいた父親と母親も、口を塞がれ手足を縛られただけで命まではとられなかったのは不幸中の幸いだったろう。
ただし、彼ら一家は、金を握らされて刺客を城壁の中に入れた夜警とともに、ハルヴァリ皇国の衛卒に拘束された。自分達は騙されただけの被害者だと訴えていたが、もちろんそんな言い訳が通用するわけがない。
「ケイトの一家と夜警は、ハルヴァリ皇国から永久に追放されることになる。この国で預かる王太子を害す、あるいはそれに加担するということがどれほどの大罪であるのかを、彼らは身を以て知ることになるだろう」
また、これはある種の見せしめでもあるとリヴィオは言う。
千年もの間、ハルヴァリ皇国が十六の王国からの崇拝されているのを見てきた皇国民の中には、自分達は大陸の頂点に立つ特別な存在なのだという誤った選民意識を持つ者も現れた。
十六の王国をまるで属国のように勘違いし、ハルヴァリ皇国に留学している王太子達を自分と同等、ひどい場合は下位と見なしてないがしろにする。これに困ったのは、各国の王太子を迎えるホスト役であるハルヴァリ皇帝だった。
具体的にどう困ったのかは、リヴィオは子供達の前では口にしなかったが、美花には分かる。
国家収益の大半を十六の王国からの献金が占めるハルヴァリ皇国にとって、王太子達は言うなればとてつもなくVIPなお客様だ。そんな相手に平気で無礼を働く国民を前にすれば、リヴィオだって頭を抱えたくなるだろう。
「世の中には不条理なことが溢れている。それに堪え妥協しなければならない場合もあるだろう。だが少なくともハルヴァリ皇国にいる間は、お前達が理不尽な思いをせずに済むよう、私も帝王様も守りたいと思っている」
リヴィオは真剣な表情で聞き入る子供達一人一人と目を合わせて、穏やかな声でそう告げる。
王太子を受け入れるのはビジネスだと美花の前で嘯くのは、もしかしたら照れ隠しなのだろうかと思うくらい、子供達を前にした時の彼は崇高な存在のように見えた。
イヴを狙った刺客から情報を引き出したのは、リヴィオが直接指名した大衆食堂の店主だった。
結局彼は何者なのだと美花が問うても、リヴィオも帝王も「料理人だ」としか答えない。
事件のあった翌日、いつも通り夕方出勤したイヴに、彼はいつも通りぶっきらぼうに料理を教え、いつも通りこき使って、そうしていつも通り定時に仕事を上がらせた。
そんなこんなで王太子達にもまた平和な日常が戻り、事件からは五日が経った日のことだ。
皇城の門を、一台の黒尽くめの馬車が潜った。ただの客人でないと分ったのは、その馬車が宮殿ではなく、その背に庇われるように立つ学園と寮の方へ入っていったからだ。
馬車は結局寮の玄関の前で止まり、中に乗ってきた人物は御者が扉を開けるのも待たずに飛び出してきた。
そうして、玄関扉の前に立っていたリヴィオと、その傍らでふわふわしていた帝王の前に跪き、頭を垂れて言った。
「帝王様並びに皇帝陛下、この度はたいへんご迷惑をおかけしまして、申し訳ございませんでした」
美花はリヴィオの後ろに控えたまま相手を観察する。
黒い髪と緑の瞳、そして小麦色の肌を持つ壮年の男性だった。
彼は、現在のヤコイラ国王ーーつまりはイヴの父親である。
ヤコイラ王国の始祖は殊更の忠義者で、その子孫たる代々の国王も帝王とハルヴァリ皇帝に忠誠を誓っている。親子ほど年の離れた若い皇帝が相手でも、それは揺らがないらしい。
刺客をイヴに近づけたのはこちらの不手際だと告げて、謝罪を返したリヴィオに対し、ヤコイラ国王は恐縮しっぱなし。ペコペコと頭を下げる姿はクレームの電話を前にした気弱なサラリーマンのようだ。
しかし実際の見た目は真逆である。
全身筋肉でムッキムキ。リヴィオに紹介されて美花も挨拶の握手をしたが、まるでグローブのように大きくて堅い手だった。




