27話
その時何が起こったのか、遠巻きにする人々には皆目見当が付かなかっただろう。
身を寄せ合う二人の女性に対し、いきなり現れた黒尽くめの暴漢が振り下ろそうとした長剣――その刀身が、いきなり根元からポッキリと折れてしまったのだ。
地面に落ちた鋼が、カランカランと音を立てる。その甲高い音に人々の意識が奪われた、その直後。
ガツッと鈍い音がして、柄だけになった長剣を持つ男の身体が後ろへと吹っ飛んだ。
遠巻きにする人々は、やはりこの展開についていけない。
だが、騒動の中心にあり、世間一般にはない特別な属性を持つ美花達には、一部始終が見えていた。
「ーーミカ! イヴ! 大丈夫か!?」
駆け寄ってきたカミルが、美花とイヴを庇うようにして立つ。二人の間に挟まれてしまった美花は、カミルの肩越しにイヴを狙った刺客の男の末路を目撃することになった。
そもそもは、男の持つ長剣の刀身が、宙に浮いていた帝王の生首を掠めたのが発端だった。
通常、帝王の存在を認識できない者は彼に触れることもできない。それはその人が持った物でも同じで、男の長剣も帝王に触れること、ましてや切ることなどできず、ただ刀身が素通りするだけーーのはずだった。本来なら。
それなのに、帝王の目の辺りを横薙ぎにするように刀身が通った瞬間、ボキリとそれが折れたのだ。
それがどういう理屈なのか、美花には分らない。千年ものの幽霊に刃物を向けたから呪われた、とでも言えば説明がつくだろうか。
とにかく長剣が使えなくなったと理解した男は、その事実に狼狽えつつも懐にあった短剣を即座に抜こうとした。
だがそれよりも先に、鳩尾に強烈な蹴りを食らって吹っ飛んだのだった。
彼を蹴ったのは、白金色の髪と飴色の瞳をした、それはそれは美しい人。
美花は震える声でその人を呼ぶ。
「へ、陛下……」
イヴを庇う美花、彼女達を背中に隠すカミル、さらに彼らを守るように立った頼もしい背中は、ハルヴァリ皇帝リヴィオであった。
帝王と同じ飴色の瞳で後ろの三人をちらりと見たリヴィオは、しかしすぐに地面に倒れ伏したままの黒尽くめの男に向き直り、ぞっとするような冷ややかな声で告げた。
「ハルヴァリで事を起こしたんだーー貴様、大陸中を敵に回す覚悟があるのだろうな?」
それを聞いた男の表情は、顔を覆った布のせいで分らない。ただ、先ほどまでは殺気で溢れていた瞳が、今は零れ落ちそうなほどに見開かれ畏怖に塗れていた。
ハルヴァリ皇国の民、あるいは各王国の王族クラスでなければ、在位中は決して拝顔できない相手ーーそれがハルヴァリ皇帝である。わざわざ彼が名乗らずとも、黒尽くめの男にとっては相対するだけで充分だったのだろう。
男はもう、立ち上がれなかった。リヴィオから食らった鳩尾への一発のダメージが大きいというのもあるが、それよりもズンと背中に言いようのない圧迫感を覚えて身動きがとれなくなったのだ。
この時美花達の目には、男の背中に乗っかってドヤ顔をする帝王の姿が映っていた。
ともあれ、男の戦意喪失は明らかだった。
あとは、誰かが呼んだであろう衛卒が到着して彼を拘束するのを待つだけだ。
ところがその時、美花の横をすっとイヴが擦り抜けようとした。美花は咄嗟に彼女の腕を掴む。
イヴの手に、抜き身の短剣が逆手に握られていたからだ。
「イヴ待って、あなた何をする気? それ、危ないから早く鞘に戻しなさい」
「これはヤコイラの失態ーーこの男の始末は私の責任だ」
そう呟いたイヴの目には、先ほど男が彼女やイヴに向けたものと同じ、ギラギラとした殺気に溢れていた。
それを目の当たりにした美花は、真っ青な顔をしてイヴにしがみつく。
まだたった十四歳の彼女にこんな殺伐とした目をさせたくない、責任なんて言葉で人を殺めさせてはいけないと強く感じたからだ。
「ミカ、離して! 皇国の町をこんなに騒がせて、陛下の御手まで煩わせてっ……あいつは私が!!」
「だめだめだめ! 絶対だめだから! イヴのせいなことなんて、一つもないから! 全部全部大人が悪いんだからっ!!」
「でもっ……それでも、自国の民の尻拭いをするのは、やっぱり王族である私の役目だ!」
「だーかーらっ、イヴはそんなことしなくていいって言ってるでしょ! ちょっと、カミル! ぼうっとしてないで、止めるの手伝って!!」
二人のやり取りに目を丸くしていたカミルは美花の叱咤で我に返り、慌ててイヴの前に立ち塞がった。
さらに、騒ぎを聞いて駆け付けたらしいアイリーンが背中からイヴに抱き着き、ひいはあと息を切らしたミシェルが短剣を握った彼女の手を掴む。
「私が……私がやらなきゃ……」
うわ言のようにそう繰り返すイヴに、美花は腹の底から叫んだ。
「王族の責任とか役目とかそんなもん、大人になって王様になってから気にすればいいのっ! 今はまだ、大人に甘えて全力で守られていなさいっ!!」
その時だった。
「おらおら、邪魔だ邪魔だ! どけどけぇっ!!」
野次馬と化した人々を蹴散らしてドスドス走ってきたのは、イヴが勤める大衆食堂の店主だった。
油で汚れたエプロンを着けたままやってきた彼は、リヴィオの足もとに這いつくばっていた男の背中にいきなりどっかりと足を乗せる。その拍子にぽーんと弾き飛ばされた帝王は、カミルの後頭部に打つかって止まった。
「いたっ!」
「こらぁ、クソガキィ! 人の頭をボールか何かと勘違いしているのかっ!」
「うるせぇ、クソじじい! 邪魔な所にいるからだっ!」
帝王とくそくそ罵り合いながら、店主はエプロンのポケットから取り出した紐――おそらく肉の塊を縛るもので、男を後ろ手に縛り上げる。さらに、万が一にも舌を噛んで自決できないよう、口にハンカチを突っ込んだ。
かと思ったら、ぐりんといきなりイヴに向き直り、その人相の悪い髭面を憤怒に歪ませて吠える。
「ばかやろう、見習い! そんな物騒なもん、さっさと仕舞え!!」
「し、師匠……」
「うちの店で預かっている間は、てめえには包丁以外の刃物は使わせんからな! 覚えとけっ!!」
「はい……」
イヴはようやく短剣を下げ、カミルがそれを受け取って鞘に納めた。
その上で、全員団子になってイヴを抱き締める。ぎゅうぎゅうと圧し潰されそうになりながら、彼女はぽろんと一粒涙を零してから笑った。
「ミカ……みんな……ありがとう」
そんな光景を穏やかに見守っていたリヴィオの眼差しは、正面――拘束した黒尽くめの男の背中に足を乗せて立っている店主に向いたとたん、冷厳としたものに成り代わる。
「この男に全部吐かせてもらえるか」
「おう、任せろや」
リヴィオの言葉に店主は揚々と頷くと、包丁以外の刃物の扱いも上手そうな顔をしてニヤリと笑う。
そして、ようやく到着した衛卒と一緒に男を引立ててどこかへと去っていった。
「陛下って、意外にアグレッシブなキャラだったんですね」
「……私の事より、お前のその膝はどうした」
幸いなことにイヴもカミルも、そしてリヴィオもかすり傷一つ負わなかった。
怪我をしたのは、最初にイヴに突進して押し倒した時に地面で擦った美花の両膝だけだ。
「何とかして気を紛らわそうとしている私の涙ぐましい努力を無下にしないでください」
「いや、現実を見なさい。早く戻ってルーク先生に治療してもらおう」
傷はじくじくと痛むし、腕白な小学生みたい両膝を擦りむいた自分自身の姿には正直がっかりする。ただ、それを口にすればまたイヴが気に病むと思い、美花は頑として傷口を見ないことでいろんなものに堪えていた。
そんなこんなで仁王立ちする彼女の前に跪き、リヴィオが両方の膝にハンカチを巻いてくれる。天下のハルヴァリ皇帝を公衆の面前で跪かせているという自覚は、この時の美花にはなかった。
リヴィオは悟りを開いたような顔をしている美花を見上げ、くすりと笑って問う。
「私に横抱きにされるのと、私の背に負ぶわれるのと、どちらがいい?」
「えっ、何ですかその二択。できれば陛下以外に……何でしたら、担架か荷車にでも乗せてもらえれば……」
「なお、十数えるうちにどちらか選ばなければ、問答無用で前者を採用する。いち、に、さん……」
「えっ……」
前者ということは横抱き、つまりは世に言うお姫様抱っこというやつだ。美貌の皇帝陛下にお姫様だっこをされて往来を行く自分の姿を想像して、美花の顔から血の気が引いた。あと、リヴィオの数を数えるペースが異様に速い。
「わー、わー! 待って待って、待ってください! えーと、えーっと、おんぶっ! 是非とも後者でお願いします!!」
結局、第三の選択肢は与えられないまま、美花は麗しの皇帝陛下の背に負ぶわれることになった。
「うう、よりにもよってスカート姿でおんぶしてもらうなんて……絶対後ろ姿どえらいことになってるから……」
「だから横抱きにしようかと言ったではないか」
「いやですよぅ、恥ずかしい! 陛下だって恥ずかしいでしょ!?」
「いいや、私はまったく恥ずかしくないが?」
遠巻きにしていた人々が、明らかにざわつく。
美花は居たたまれない気持ちになって、リヴィオの白金色の後頭部に突っ伏して顔を隠した。
とほほ……なんて言葉をリアルに口にする日が来ようとは、美花は思ってもみなかった。
そんな美花を背中にくっ付けたまま、リヴィオが子供達を振り返って口を開く。
「ーーさあ、帰るぞ」
はい、と声を揃えた答えた子供達の表情は、顔を伏せたままの美花には見ることができない。
だが、彼らの心が満ち足りていることは、その声を聞いただけで知れた。
リヴィオがゆっくりと歩き出す。
「陛下、ねえ……これ、今度こそ労災下りますか?」
「またそれか。今度こそも何も、その〝ろうさい〟というのは保険なんだろう? そもそも保険は、定期的に保険金を払っていなければ何かあっても支給されないんじゃないのか」
「マジレスする陛下なんてつまらない。がっかりですよ」
「ミカ、膝が痛いなら痛いと言いなさい」
リヴィオの広い背に身を任せて揺られながら、美花はその時ふと既視感を覚えた。
ずっとずっと遠い昔――美花がまだほんの小さな子供だった頃、誰かにこうして負ぶってもらった記憶がにわかに甦ってくる。
おそらく今みたいに、転んで膝でも擦りむいたのだろう。べそをかく彼女を宥め、そっと差し出された背中は、リヴィオのそれのように広くて逞しいものではなかった。
もっとずっと華奢で柔らかくて、幼い美花が涙に濡れた頬を埋めたのは、白金色の髪ではなく艶やかな黒髪。そこまで思い出して、美花ははっと息を呑んだ。
色褪せた記憶の中で幼い美花を負ぶってくれていたのは、母だった。
美花になど手駒か都合のいい人形としての価値しか見出していないと思っていた、母だったのだ。
「……痛いよ、おかあさん」
白金色の髪に顔を埋めたまま呟いたその言葉は、リヴィオにだけ届いたらしい。
彼はピクリと肩を震わせたが、何も言わぬまま皇城に向かって歩いていく。
いつの間にか群青色に染まった西の空には、ポツリと小さく道標みたいに星が輝いていた。




