25話
「ーーただいま。みんな、元気そうねぇ」
優しい声でそう言ってにっこりと笑ったマリィ・ハルヴァリは、ロマンスグレーの髪と淡い茶色の瞳をした老婦人だった。
リヴィオの祖父である先々代皇帝の妹で、五十年近く寮母として各国の王太子達を世話した、まさに大陸の母である。ハルヴァリ皇族であるので、もちろん彼女も帝王を認識することができる。
美花にとっては、異世界人の自分を取り上げ大役を任せてくれた恩人であり、寮母としては師匠と仰ぐ人物であった。ちなみに、マリィの夫は彼女が寮母に成りたての頃から学園で生物学と化学を教えていた教師である。
「マリィ先生、お帰りっ!」
「お帰りなさいませ、先生!」
マリィに真っ先に飛びついたのは、カミルとアイリーンだ。
祖国を離れたばかりで緊張と不安でいっぱいだった一年生の頃の彼らを支えたのは、マリィの無償の愛と海よりも深い慈悲の心であった。
今回の旅行でフランセン王国とハルランド王国にも立ち寄ってきたらしいマリィは、それぞれに馴染みの深い土産も持って帰っていた。祖国を離れて一年以上経つ二人には、随分と懐かしいものだろう。
甘え上手なアイリーンばかりかカミルまでマリィに土産話を強請り、彼女と夫が終の住処と定めた離宮への訪問許可を取り付けていた。
一方、ミシェルとイヴにとっては今回が初見だが、彼らの父親もまた王太子時代にマリィの世話になっていたことから話には聞いていたのだろう。
今は国王として立っている偉大な父が、自分と同じ年の頃はどんな子供だったのか、どんなことに悩み、そしてどんなことに心を動かされたのか、マリィの持つ情報に対する彼らの興味は尽きない。
最近少し積極的になってきたミシェルが、マリィの優しい雰囲気に助けられるようにして、お宅訪問の約束を取り付けた。その際、意外にももじもじしていて遅れをとったイヴを気遣い、彼女も同行させたいと申し出た。
美花はそんな光景を、一歩引いた場所から微笑ましく思いながら見守っていた。
それなのに、彼女の表情を見た帝王がぎょっとした顔をする。
「ミ、ミカちゃんや……」
「ん? なーに、おじいちゃん」
「いや、その……大丈夫か……?」
「うん、大丈夫って、何が?」
恐る恐るといった態で話しかけてきた帝王に、美花は笑みを貼り付かせた顔を向ける。
とたんに、生首姿の千年ものの幽霊な彼に、ひょえっ! とまるで化け物を見た時のような悲鳴を上げられたのは、全くもって心外であった。
「ーーそれで、ミカは何を拗ねているんだ?」
「は? 何言ってるんですか? 拗ねてなんかねーですよ」
マリィが帰城したその日の夜のことだ。
翌日は学園が休みであることから、土産話を聞きたがっていたカミルとアイリーンがマリィ夫妻の離宮へ泊まりに行くことになった。ハルヴァリ皇国に留学中の王太子達は基本的に外泊は禁止されているが、宿泊先が皇城の敷地内であることと、リヴィオが許可を出したことから実現した。ミシェルとイヴも同時に招待されて行ったので、つまりは今宵、寮には美花とリヴィオ二人だけ。
というわけで、各部屋の見回りをする必要がなくなった美花は、消灯時刻を待たずにリヴィオの私室へと押しかけーー今に至る。
まだ札束塗れにはなっていないベッドにリヴィオが腰かけ、その向かいに椅子を引っ張ってきて美花が座った。自身の膝の上に片肘をつき、もう片方の手にグラスを持ったリヴィオが続ける。
「子供達が全員マリィ先生のところに行ってしまったからか? だからといって、彼らにお前をないがしろにする意図は欠片もないだろう」
「そんなの、陛下に言われなくたって分ってますし……」
「では何故、そんなに拗ねた顔をしているんだ。眉間に皺が寄っているぞ」
「拗ねてなんかないって言ってるじゃないですか。っていうか、女子の顔見て皺を指摘するなんてデリカシーに欠け過ぎですよ。いくらイケメンでもそんなんじゃモテないですからね?」
差し向かいでグラスに口を付けつつ、美花はじろりとリヴィオを睨み上げる。
そのグラスの中身が自分の飲んでいるものと同じだと知っているリヴィオは、困ったような顔をした。
「そもそも、酒はもう飲んでもいいことにしたのか?」
「いいことになったんです」
「この世界は十八歳で成人だが、ミカの世界では二十歳なのだろう? それまでは飲酒は控えると言っていたではないか」
「だからっ! もう、いいことになったんですってば! だって私ーー二十歳になりましたもんっ!!」
美花がそう叫んだとたん、リヴィオの飴色の瞳がまん丸になった。次いで、彼は盛大に狼狽える始める。
「待て……待て待て、待ってくれ! いつの間に!?」
「今日! 今日の間にです! 今日が誕生日でしたっ!!」
やけくそ気味に叫んだ美花はグラスの中身をグイッと呷ろうとしたが、慌てて伸びてきたリヴィオの手がそれを押し止めた。
「今日が誕生日だなんて……そんな大事なこと、なぜ言わなかったんだ」
「だって、マリィさんを歓迎するので皆忙しかったじゃないですか。あんな中で、〝私、今日誕生日なんですよねー〟なんて言ったら、かまってちゃんみたいですもん!」
美花がこちらの世界にやってきたのは、十九歳になって少ししてからのことだ。
十九歳の誕生日は、それまでの十八回の誕生日とは比べ物にならないほど、賑やかで楽しいものだった。
祖父と伯父達が広い客間に大きな食卓を出してきて、その上には祖母と伯母達が作った料理が所狭しと並べられた。七号サイズの苺のケーキには十九本のロウソクが立てられて、従兄弟達に羨ましがられながら吹き消した、あの懐かしい団欒の記憶の中には、母の姿だけがない。
そして、人生の大きな節目とも言える二十歳となったこの日ーー美花を祝う者は誰もいなかった。
鼻の奥がツンと痛み、目の前がじわりと滲んだ。
それを誤魔化すようになおもグラスを呷ろうとしたが、やっぱりリヴィオに止められて、ちびりとしか口に含めない。小さくため息をついたリヴィオが問うた。
「初めての酒の味はどうだ。美味いか?」
「……あんまり。渋いし、酸っぱいです」
「ふふ、私も初めてワインを口にした時は同じことを思ったな。ミカが飲むと分っていたら、もう少し飲みやすいものを用意したんだが……ああ、無理に呑み切ろうとしなくていい」
「……はい」
美花が大人しくグラスを預けると、リヴィオは空になった自分のそれと一緒にベッドサイドのテーブルに置いた。そして自由になった両手で美花を掬い上げ、そのまま幼子を抱くように自分の膝の上に座らせてしまう。
されるがままの彼女の背中を、大きな掌が優しく撫でた。
「ミカ」
「……はい」
「誕生日おめでとう」
「……ありがとうございます」
頭上から静かに響く穏やかな声。リヴィオの飾らない祝いの言葉に、ささくれ立っていた心が凪いで行く。
彼の言う通りだった。美花は、本当は拗ねていたのだ。
マリィの前では無邪気な子供のように振る舞い甘えるカミルとアイリーン。
マリィとは直接面識もなかったはずなのに瞬く間に懐いてしまったミシェルとイヴ。
対して自分は、彼らと打ち解けるまで何ヶ月もかかってしまった。
キャリアを考えれば美花がマリィに敵わないのは当然なのだが、自分の未熟さを思い知らされることは、母の期待に応えられずに無価値の烙印を押された時を思い出して辛い。
無価値な美花のことになんて、きっと誰も興味はないんだーーそんな卑屈なことを考えつつぐすりと鼻を啜れば、リヴィオが宥めるようにまた背中を撫でてくれた。
「他の誰でもなく、私の所に来てくれたんだな。ルーク先生や図書館長、シェフや洗濯係ともミカは仲が良いのに、それでも私を選んでくれたんだな」
「……だって私、ルーク先生達の前ではいつも澄ました顔して寮母気取ってるんですから、愚痴なんかみっともなくて聞かせられませんよ。その点、陛下相手に遠慮するとか取繕うとか今更でしょ? 私は陛下のもっと世に憚るべき姿を知ってるんですから」
「ひどい言われようだな。まあ、おかげで一番にミカにおめでとうを言えたから良しとしようか」
「それに、どうせ守銭奴の陛下は紙幣さえ握らせておけば少々の面倒にも付き合ってくれるでしょう? ビジネスライクにいきましょうよ」
そう言って美花がどこからか紙幣を取り出せば、リヴィオは身内の愚痴を聞くのに代償など求めない、と心底心外そうな顔をする。
それでも美花はリヴィオの手にぎゅっと紙幣を一枚押し付けると、彼の肩口に顔を埋めてくぐもった声で言った。
「ーー四の五の言わずに、よしよししてください」
「ミカ……もしかして、酔っているのか?」
後々振り返れば、この時の美花はリヴィオが言う通り少々酔っていたのだろう。大した量を飲んだわけではないが、何しろアルコールを口にしたのはこの時が初めての上に、美花が飲むと想定されていなかったワインは度数が高いものだった。
リヴィオは美花のいきなりのデレに戸惑った様子だったが、注文通りよしよしと頭を撫でてくれる。
それから、「ぎゅっとして」「いっぱいほめて」と次々と繰り出される注文にも、一つ一つ丁寧に応えてくれた。
「カミルとアイリーンがマリィ先生を今でも慕っているのは事実だが、彼らの寮母はもう彼女ではなくミカなんだ」
やがてうつらうつらとし始めた美花の耳に、リヴィオの優しい声が子守唄のように響く。
「ミシェルとイヴにとってはミカが唯一の寮母だ。今までも、これからもな」
心の隅っこに残っていた理性が、自分に部屋に戻らなければと訴えていたが、リヴィオの腕の中があまりにも心地よくて感情の誘惑には勝てなかった。
何より美花を肯定してくれる言葉によって、リヴィオや子供達にとって自分は無価値ではないのだと分って安堵した。
「お前の代わりは誰もいない。ミカは、私にとっても唯一だ」
その翌朝。
美花は、珍しく札束の散らかっていないリヴィオのベッドで彼とともに目を覚ました。
双方着衣に乱れも、間違いが起こった形跡もない。
幸い美花には二日酔いの気配もなかった。
朝一でいそいそと部屋にやってきた帝王は、そんな二人を見て心底がっかりした様子で叫んだ。
「据え膳食わぬは男の恥ぞっ!!」
どうやら本気で美花とリヴィオをくっ付けたいらしい彼の言葉に、寝ぼけ眼の二人は顔を見合わせてから、大真面目な顔をして言った。
「帝王様は恐ろしいことをおっしゃる。素面でないミカを抱いたりしたら……」
「それをネタに陛下を一生強請ります」
服のポケットに、昨夜リヴィオに押し付けたはずの紙幣が戻ってきているのに気付いたのは、彼女が着替えのために自室へ戻ってからのことだった。




