24話
鮮やかな緑色の稲が、水をたたえた地面に行儀よく並んで生えている。
空に向かって真っ直ぐに伸びた葉は根に近い茎の節から枝分かれして、最初にそこに植えられた時よりも確実に大きな株へと成長している。これを、分蘗だとか株張りと呼ぶ。
美花がミシェルやイヴ、そしてカミルに手伝ってもらって田植えをしてから一月が経った。
その間、稲作経験者のミシェルに指示を仰ぎつつ、こまめに水を管理して稲の成長を見守ってきたのだ。
寮と学園の間にある庭園の一角に作られた美花の小さな水田は、天気が良ければすぐに水がなくなってしまうが、間近にある池から水を補填できるため、今日もまた稲達は葉の先までピンと張って瑞々しい。
その隙間に生えた草をせっせと引き抜いていた美花の手の甲に、何かがぴょんと飛び乗ってきたのは突然のことだった。
「ぎゃー!!」
丸い身体に長い足が八本、クモだ。とたんに盛大に悲鳴を上げたのは、手に乗っかられた本人ではなかった。
「カミル君、ちょっとうるさいんですけどー」
「だって! おまっ……それっ……!!」
美花だって別段虫が好きなわけではないのだから、いきなりクモにくっ付かれてびっくりしたし、なんなら早急に離れてもらいたいのは山々なのだが、カミルの過剰反応に驚いて悲鳴を上げるタイミングを逃してしまった。
自分よりも取り乱した人間を見れば逆に冷静になる、というのは本当らしい。
このまま振り払って田んぼに落ちると、クモが溺れてしまうだろうか……と悩むくらいの余裕はあった。
するとその時、横からすっと伸びてきた手がクモを摘まみ上げる。ぎゃっ、とカミルがまた悲鳴を上げた上に、今度は美花のシャツの裾をぎゅっと握った。
驚いた美花が顔を上げれば、柔らかな笑みをたたえたエメラルドグリーンの瞳とかち合う。
「ミ、ミシェル……」
「怖がらなくても大丈夫だよ。滅多なことでは噛まないから」
そう言って、クモをそっと自身の掌に移したのはミシェルだった。
美花のシャツの裾をぎゅーっと握り締めたカミルが背後で、勇者……と呟いている。
「クモは稲に付く害虫を食べてくれるから、大事にしてあげなきゃ。あと、トンボとかハチなんかも、益虫だよ」
ミシェルがそう言って掌のクモを稲へと戻してやるが、足場となった葉が大きく撓った拍子にポチャンと水面へと落ちてしまった。美花は思わずあっと声を上げたが、幸いクモは水面で撓んでいた稲に引っ掛かって溺れずに済んだ。それにほっとしかけた、次の瞬間のことだった。
バチャンッ! と大きく水が跳ねたと思ったら、どこからか拳ほどの大きさのカエルが現れて、ミシェルが放したばかりのクモをばくんと食べてしまったのだ。
「……」
「……」
カミルもミシェルも無言になった。美花はそんな二人の肩を叩き、身も蓋もないことを告げる。
「ーーこの世は所詮、弱肉強食よ」
美花が作ったこの小さな水田には、様々な生き物が住むようになっていた。もともとビオトープとしても役立ててもらおうと思っていたので計画通りだ。
クモやカエルだけではなく、ヤゴやアメンボ、ゲンゴロウ。おそらく水を引いている池から移ってきたであろう、タニシやドジョウも生息している。
この日はまた生物学の授業の一環として、一年生と二年生合同で生物の観察に水田へとやってきてーーついでに、美花は草抜きを手伝ってもらっている、というわけだ。
田植えの時同様、アイリーンは近くの木蔭に引き蘢っているが、今日は大きなスケッチブックを広げて畦道に生えた植物を観察しているようなので、授業をサボっているわけではなさそうだ。この時彼女が熱心にスケッチしていたのが、実は猛毒のトリカブトの花であったことは後々判明する。
ミシェルはさすがは大陸で唯一稲作を行うインドリア王国の王太子。水田に来ると普段の三割り増しでいきいきとしているし非常に頼もしい。
カミルは基本真面目でやる気はあるのだが、どうにも足がたくさんある生き物が苦手らしく、一度ムカデに遭遇した時なんかは乙女のような悲鳴を上げて美花にしがみついてきた。
そうして、イヴはというと……
「カミル、そんなに引っ張らないで。ミカが窒息する」
いまだぎゅうぎゅうと美花のシャツの裾を握っていたカミルの手を、ぺいっと振り払って彼を睨んだ。
夕闇迫る広場のど真ん中で、美花が宝石商の娘ケイトからビンタを食らってから、もう半月近く経っている。
あの出来事でトラウマを負ったのは、頬をぶたれた美花ではなくイヴだった。
イヴとしては、自分を庇ったばっかりに美花が暴力を振るわれたと思えてならないのだろう。
「……悪い」
「いいよカミル。イヴもありがとう。私は大丈夫だから、ね?」
美花は喉に食い込みそうになっていた襟を直しつつ、ばつの悪そうな顔をしたカミルと、心配そうにくっ付いてきたイヴに微笑んで見せる。
あれからすぐにケイトの父親が皇城に押しかけてきて、娘に下された処分の取り消しを訴えようとした。
ハルヴァリ皇国の民が皇城に来るのに別段規制はないが、一般市民がアポイントなしに皇帝と会えるわけがないのは子供でも分ることだろう。当然ケイトの父親はリヴィオと面会すること叶わず、それならば、とあろうことか宮殿に守られた学園や寮のある区画へ侵入しようとして捕縛された。
捕まえたのは寮のシェフだ。厨房の窓から侵入者を見つけたシェフは、フライパンとフライ返しを盾と矛のように両手に掲げて立ち向かった。お手柄の彼には、前々から欲しがってた念願の高級調理器具セットが進呈されたらしい。
この後も稲は順調に成長し、さらに一月が経った頃にはびっしりと生え揃って緑の絨毯のようになっていた。
その上をさらりと風が吹き抜けて青田波が立つ。
それを見たミシェルが懐かしいと目を細め、故郷に思いを馳せる。そうだね、と相槌を打ちつつ、美花の鼻の奥がツンとした。
何故だか無性に懐かしく泣きたくなるこの郷愁は、もしかしたら日本人のDNAに刻み込まれている感覚なのかもしれない。
だって都会で生まれ育った美花にとっての実際の故郷の記憶は、コンクリートジャングルでしかないのだ。一面に広がる青田を目の前にしたのは、一年前ーー大学受験に失敗して祖父母の家に移り住み、ようやく気持ちが落ち着き始めた頃が初めてだった。
都会には都会の良さがある。のどかな田園風景よりも、環境が整い洗練された場所の方が便利で居心地がいいと言う人もいるだろう。母は後者で、美花は最終的にはそうではなかった、ただそれだけのことだ。
「僕、この時期の田んぼの風景が一番好きだ。あの一面の緑の上に立ったり寝転んだりできたらなって思う」
「わかる」
稲を育て始めてから、ミシェルは少しだけ積極的になった。美花が綺麗だと思う彼の南国の海のような色合いの瞳も、あまり伏せられることがなくなった。それだけでも、美花は田んぼを作ってよかったと思う。
そういえば、ミシェルはインドリア王国に自分の田んぼを持っているらしいが、彼がハルヴァリ皇国に留学していうる三年間はどうしているのだろうか。
「休田にしようかとも思ったんだけどね、義理の兄上達が代わりに世話するって言ってくれたので任せてきた。収穫できたら寮宛てに全部送ってくれるらしいから、ミカも食べて」
「何それ、楽しみ過ぎる」
ミシェルは年の離れた優秀な姉を三人も持つインドリア王家の末っ子だ。彼女達を差し置いて、男だからというだけで王太子に指名されたことが本人にとってはコンプレックスらしいが、どうやら姉やその夫達との関係はそう悪いものではないようだと分って美花はほっとする。
ミシェルの田んぼは、この庭園どころか寮と学園の敷地を含めてすっぽりと入るほどだと言う。
それを聞いた美花はふと、祖父母の田んぼの風景を思い出した。
広大な一面の緑の向こうには、もくもくとした入道雲と鮮やかな青い空がどこまでも高く続いている。
それは、美花がこちらの世界へやってくることになったあの日の記憶だ。
午前中の涼しい内に田んぼの草抜き作業を手伝って、祖父母の昼食を作るために美花だけ先に家に戻ったのだ。
その前夜、どこからか家の中に入ってきてブンブン煩かったハエに辟易したので、ホームセンターに寄ってハエ叩きを購入した。これが後に、美花と一緒に世界を渡ることになる相棒との馴れ初めだ。
そうして、家に帰って台所に立っている時に母が押しかけてきてーー今に至る。
あの時は、母の期待に応えられなかった自分が情けないという思いもまだあったが、それよりもどこまでも独善的な彼女に腹が立った。母の手駒として見知らぬ相手に嫁ぐより他にも、自分にはもっと価値があるのだと思いたかった。
それから思い掛けず世界を渡って帝王に拾われ、マリィから寮母という役目を与えられた時、美花は自分にもこの世界に存在する価値があるのだと言われているようで嬉しかった。
マリィがケイトではなく自分を選んでくれたことは、判官贔屓ではないと思いたい。
いつかはマリィに、美花に寮母を任せて良かったと思ってもらえるようになりたい。そうしたら美花はやっと、母と面と向かって対峙することができるような気がした。
その翌日の午後のことだ。
前任の寮母マリィ・ハルヴァリとその夫が、突如帰城した。
夫妻が旅に出てーー美花が寮母に着任して四ヶ月後のことだった。




