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21話




「ーーお前はもう、一人でフラフラするな」

 美花がここに辿り着くまでの経緯を聞いたカミルは、唸るような声でそう言った。

 土の混じった水をかけられた黒いパンプスは、水分を拭っても白くくすんだようになってしまった。

 カミルは慣れた手付きでその表面にクリームを塗り込みつつ、眉間に皺を刻んで続ける。

「大方の元凶はケイトだ。あの女がミカの悪い噂をまき散らしている」

「あー……やっぱり? そんなことだろうと思ったわ」

 作業をするカミルの赤い頭を見下ろしながら、美花はやれやれと肩を竦めた。

 その膝の上にちゃっかり乗っかった帝王も、珍しく憮然たる面持ちである。

 美花が入店拒否を食らった一軒目の靴屋と二軒目のパーラーはケイトの行きつけらしい。店主達は上客であるケイトに迎合して美花を敬遠したのだろう。

 三軒目の文房具店の店主はケイトの父親の腰巾着だという。自分の娘が寮母になれなかったのは美花のせいだと思っているケイトの父親に同調して、彼女を敵視しているようだ。

 四軒目の貴金属店はケイトの父親の取引先らしいので、忖度したのかもしれない。

「皇太后陛下の血縁ということで、ケイトの一族はそれなりに一目置かれているようだ。だが俺の師匠やアイリーンの師匠みたいな良識ある方々の多くは、連中の慢心が目に余ると言って意図的に距離を置いている」

「へえ……カミルは随分と情報通なんだね」

 美花が感心したよう言うと、カミルは「まあな」と少しだけ得意げな顔をした。

 往来の隅で向かい合う美花とカミルの側を、家路を急ぐ人々が通り過ぎて行く。

 ハルヴァリ皇国は国家としては極々小さいが、それでも町では多くの人間が生活を営んでいた。

 大陸一大きな国の次期国王であるカミルは、質素なシャツとズボンを身に着けてそんな町の風景に紛れている。彼の肩書を知らない者には、ただの名も無き靴磨き少年にしか見えないだろう。

「カミルはさあ、どうして靴磨きの仕事を選んだの?」

 美花はふと疑問に思ったことを口にする。他の三人がそれぞれの職場を希望した理由は聞いていたが、カミルに関しては知らなかったのを思い出したのだ。

 カミルはほんの少しだけ逡巡するような素振りを見せ、しかしすぐに口を開いた。

「俺が十歳の時、単身こっそり町に降りて閉門の時間までに城に帰れなくなってしまった話をしただろう?」

 皇城の裏の丘で流星群を眺めながら、それぞれの人生で一番の失敗談を打ち明け合った時のことだ。

 頷く美花に、カミルはパンプスを磨く手を止めずに続けた。

「あの時、町で知り合った同じ年頃の靴磨きが一晩泊めてくれたんだ。両親は亡く、父親に教わった靴磨きをして生計を立てていると言っていた。家なんか荒ら屋みたいで翌日のパンを買う金もろくにない。なのにそいつ、すごく明るくて前向きで……一生懸命生きていた」

 靴磨きの少年の生き様を目の当たりにし、カミルは自分が恵まれていることを知った。それと同時に、自分が国王となった暁には彼らのような子供達のこともしっかり守っていかなければと身に染みて思ったのだという。

「ろくに字も書けなかったけれど、博識で情報通。毎日いろんな靴を磨きながら人を見る目を養い、処世術を身につけていた。俺も、そいつに倣いたいと思ったんだ」

 そうして、実際にカミルが働きだしたハルヴァリ皇国の城下町には、いろんな人間がいた。

 彼を社会人と認め敬意を持って接する者、逆に、子供だと侮り横柄な態度をとる者。

 労いの言葉とともにチップを握らせてくれる客もいれば、代金を投げつけるようにして寄越す客もいた。

 良い悪いに関わらず、それはカミルが祖国で周囲に傅かれていては到底味わえない経験だった。

「それに、実際師匠に弟子入りしてみて、靴自体にも興味が湧いたんだ。卒業までに、自分で一足靴を作ろうと思っている」

「そっか、それは楽しみだね」

 そうこうしている内に、美花のお気に入りのパンプスは、カミルの手によってすっかり輝きを取り戻した。爪先など黒曜石のごとく艶めいている。

「わあ、すごーい! 新品の時よりもピカピカになったような気がする!」

「お前それ履きっぱなしだからな。気が向いたら、また寮でも磨いてやるよ」

「本当!? 嬉しいー、ありがとう!!」

「お、おう……」

 素直に喜びを表す美花に、カミルは一瞬面食らったような顔をしたが、すぐに満更でもなさそうに頷いた。

 さてはて、時刻は午後六時半。カミルの終業時間まであと三十分ほどあり、美花がいつまでも椅子を占領していては営業妨害だ。

 しかし、邪魔にならないよう先に皇城に戻ろうと立ち上がった彼女を、カミルが呼び止めた。

「俺の話を聞いていなかったのか? もう一人でフラフラするなって言っただろう!」

「いやいや、大丈夫だって。絡まれても相手にしなければいいんだし」

「……俺が嫌なんだよ。悪意を持っている奴がいるって分かっている場所に女を一人で行かせては、男が廃る」

「あらま、紳士ぶっちゃって」

 生意気で反抗的なばかりだったカミルに心配されているのが、何だか少しくすぐったい気持ちになる。

 それを誤魔化すように茶化した美花に、カミルはぐっと眉を顰める。そんな仏頂面していたらお客さん来ないよー、と眉間の皺を指先で撫でれば、頭を振ってそれを払った彼が真剣な表情をして続けた。

「イヴが勤めている食堂の前の広場に噴水があるだろう。あそこなら人目も多いから滅多なことは起こらないはずだ。仕事が終わったら拾いに行くから、そこで待っていろ」

「ええー、平気なんだけどなぁ……」

 するとここで、それまで黙っていた帝王が口を挟んだ。

「ミカちゃんや、ここはカミルの顔を立ててやってくれんか。それに、ミカちゃんがまたさっきみたいな思いをするのを見るのは、俺も嫌だなぁ」

「おじいちゃんがそう言うなら……」

 美花がようやく頷くと、カミルはあからさまにほっとした顔をした。

 しかし美花もカミルも、そして帝王でさえも、この時決めた待ち合わせ場所で後々あんな騒動が起ころうとは、思ってもいなかった。


「ーーそれが、大人の言うことですか。恥を知りなさい」


 怒髪天を衝く、というのは今の自分のような状態を指すのだと、美花はどこか客観的に思った。

 人間、生きていれば腹の立つことくらいいくらでもある。

 美花だってこの日、いくつもの店で理不尽な扱いをされて怒りを覚えたし、ケイトに鉢の水を態とかけられそうになったのなんて相当業腹だった。

 それでも、喧嘩を買うつもりはなかった。連中と同じ土俵に上がってやる義理などないと思っていたのだ。

 けれども、この時はだめだった。

 美花は到底看過することはできなかった。

 相手が非を認めない限り、絶対に許すことはできない。その胸倉を掴み上げ、何だったらタコ殴りしてやりたいくらい、とにかく美花は激しい怒りに燃えていたのだ。相棒のハエ叩きを寮に置いてきたことが心底悔やまれる。

 カミルと別れた後、美花は彼に言われた通り、待ち合わせ場所である広場の噴水の縁に腰を下ろして時間を潰していた。

 町の中心部に位置する広場は馬車の終着地にもなっており、あちこちの通りからたくさんの人々が集まってくる。特に噴水は夜になるとライトアップされ、絶好の待ち合わせスポットとなっていた。

 真ん中から噴出するのは、地下深くから吸い上げ濾過した飲料用水だ。手酌で受けて喉を潤す者も多い。

 噴水を丸く囲む石の縁に座っていると、噴き上がった水の飛沫がミストのようになって心地よかった。

 人待ちしている者は大勢おり、ライトアップされた噴水を背にしているので逆光になって顔が分りにくい。そのため、勤め先である大衆食堂から出てきたイヴも、最初は美花の存在に気付かず前を通り過ぎそうになった。

 彼女に付きまとうようにして馴れ馴れしくくっ付いている人物も然り。

「ねえ、少しくらいいいでしょう。ちょっとだけ顔を出してちょうだいな。ねぇお願い」

「断る。夕食の時間に遅れて皆を待たせるわけにはいかない」

 猫撫で声でイヴに話しかけているのはケイトだった。もう一人、彼女と同じ年頃で顔立ちの似た女性も一緒だ。

 イヴは心底迷惑そうな顔をしてきっぱりと拒絶しているが、ケイト達にめげる様子はない。

「私に関わるなってあの寮母に言われたのね。あなたが私と仲良くなって、私の方が寮母にふさわしいって言い出されるのを恐れているんだわ。あんな女のことなんて気にしないで、私達と一緒に楽しみましょう。美味しいお酒をご馳走するから」

「ミカのことを悪く言うのはやめてくれ。不愉快だ。それに、私はまだ酒を飲める年ではない」

「あらあら、そんな硬いこと言わないで? 真面目なばかりで融通が利かない人間なんてつまらないわよ。一国の女王となるのだから、遊びの一つや二つは経験しておかないと……ね?」

「軽率な真似をして周囲に迷惑をかけたくはない。自分の立場くらい弁えている」

 美花は我が耳を疑った。国家が預かっている他国の王太子に戒律を破るよう教唆する人間がいようとは、驚きを通り越して戦慄する。

 何より、しっかりと自分自身を律するイヴを、融通が利かないだのつまらないだのと扱き下ろした相手に、美花はこの時明確に殺意を覚えた。

 カーッと頭に血が上った。そうして、気が付けばイヴの腕を引っ張って自分の背後に押しやり、ケイトとその連れを相手に啖呵を切った後だった。

 これまでのらりくらりと口撃を躱してばかりだった美花が急に反撃に出るなんて予想だにしていなかったのだろう。ケイト達はぽかんと口を開いて間抜け面を晒している。 

 美花はそんな相手の顔を冷ややかな目で見据えながら、イヴを背に庇って堂々と言い放った。

「うちの子に手を出そうというならーー容赦はしません」


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