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2話



 ミカのフルネームは、山代美花という。日本生まれ日本育ちの生粋の日本人だ。

 パン食は嫌いじゃないが、できることなら三食の内二食は白米を食べたいタイプ。

 そんなミカが――いや美花が今現在、小麦が主食のこの世界で生活しているのは、まったくもって彼女の望んだことではなかった。

 青天の霹靂という言葉がある。青々と晴れ渡っていたはずの空に突然雷鳴が聞こえ出すことを語源とする、唐突に発生した事変や大事件を言い表す言葉だ。

 美花が置かれた今の状況の始まりは、彼女にとってまさに青天の霹靂と言うべきものだった。

 突然に発生した異常な出来事によって、彼女は生まれ育った世界から遠くかけ離れたこちらの世界にやってきた。

 やってきたと言っても、飛行機やら船やら電車やらに乗って来たわけではないし、ましてや歩いてきたわけでもない。

 狐につままれたような、というのはああいう感覚を言うのだろか。

 祖父母宅の台所に居たはずが、気が付けば水の中でもがいていて、慌てて水面に顔を出した時にはもうそこは美花が生まれ育った世界ではなくなっていたのだ。

 並行世界や死後の世界といった存在は、昨今量子力学の分野で研究が進められているとも聞くが、それが確かに存在すると万人を納得させられるだけの証明はいまだされていない。同時に、絶対に存在しないと断言できるだけの根拠もないわけで、美花からすれば宇宙人が存在するかしないかと同じレベルのミステリーといった認識だ。

 だから、まさか自分がそんな存在するかしないかも定かでない世界――異世界にやってくるなんて、彼女は思ってもみなかった。

 状況が呑み込めず、腰まで水に浸かって茫然としていた美花は、親切な老婦人によって保護された。その好意に甘えて彼女の仕事を手伝いながらこの世界で生活し始めたのが、今から半年ほど前のことだ。

 さらに、年齢を理由に引退を決めた老婦人たっての願いで、彼女の後任として美花が立ったのがこの十日前のことだった。

 ここは、大小十六の国々を有する大大陸にてその頂点に君臨する首長国、ハルヴァリ皇国――その皇城内に建てられた、特別な子供達を住まわせるための寮である。

 異世界トリップという奇妙奇天烈な経験の末に美花が落ち着いたのは、その寮の世話役である〝寮母〟という立場であった。

「――くそっ……お前が寮母だなんて認めないっ! お前にマリィ先生の後釜なんて務まるものかっ!」

「別に、カミルに認めてもらわなくても結構。あなたが私にお給金をくれるわけでもないんだからね。くそくそ坊ちゃま」

「くそくそ言うなっ! くっそメイド!」

「だからメイドさんじゃないですってば。脳みそ働いてる?」

 ギャンギャンと喚くカミルを、美花は両腕を組んだままふんぞり返って見下ろしていた。

 カミルは、この寮に入ることを許された時別な子供達の一人。大陸一大きい国フランセン王国の王太子で、寮生活は二年目になる。

 彼の言うマリィ先生なる人物が、美花を保護して後任に据えた前任の寮母である。五十年近く寮母を務めてきた大ベテランに比べれば、着任してまだ十日の美花は確かに頼りないだろう。

 それでなくてもマリィは包容力の塊のような人で、思春期や反抗期といった難しい時期の子供達を分け隔てなく愛し導いてきた。美花自身はまだ十九歳と、マリィに包容される側だ。彼女と同じように子供達と向き合うことなんて到底できっこない。

 それでも、寮母という立場を引き受けたからには、自分なりに子供達と向き合っていこうと決めたのだ。

「とにかく、早く着替えてダイニングに下りなさい。毎朝毎朝、自分のせいで他の子達の朝食の時間を遅れさせて、気まずくないの」

「だったら、俺のことを待たずに先に食べればいいだろう」

「食事は、よほどの理由がない限り全員が揃って食べるのがこの寮のしきたりでしょ。朝寝坊は〝よほどの理由〟にはならないから、あなたが食卓に着くまで他の子達は目の前の料理を指を銜えて見ていなければならないのよ? 熱々の料理を食べてもらいたかったのに、と連日シェフの泣き言を聞かされる私の身にもなってよね」

「うっ……そんなの、知るかよ」

 美花は淡々とした口調で説教を垂れながら、ベッドとは反対の壁際に掛かっていたシャツとズボン、ベストを手に取った。

 寮に住まう子供達、この向かいに立つ学園に通う生徒でもある。

 美花が手に取ったのは、今朝の着替えのために洗って乾かしプレスまでした、カミルの制服だった。

 シャツの前ボタンを外しながらベッドに戻ると、彼女が背中を向けている隙に急いで下着を穿いたカミルが制服一式をひったくり、憮然とした表情のままながら身に着け始める。

 それに満足げに頷いた美花は、いまだ扉から顔を覗かせていた三人の子供達に向かい、先にダイニングに下りるよう伝えた。

「お前も出て行けよ。起きたんだからもういいだろ」

「二度寝されたら堪らないので、あなたが仕度して部屋を出るまで見張ります」

 実は美花が寮母に就任した初日、一度は彼女に起こされたにも拘わらず再び睡魔に負けてしまった前科のあるカミルはさすがに反論できないらしい。ぐっと口を噤んで着替えに専念する彼を、美花の方もそれ以上詰るつもりはなかった。

 手持ち無沙汰になった彼女は、先ほど机の隅に寄せただけの本の山を整頓しようと手に取る。

 学園の授業で使う歴史書と地図、それから数学と化学の教科書が一冊ずつ。カミルが昨夜も遅くまで、この窓辺の机に向かって勉学に励んでいたのだろうと想像するのは容易かった。

 口は悪いし反抗的で可愛げはない。だが、彼は根が真面目で勤勉な少年であることを美花はちゃんと知っている。だから、本当は彼の朝寝坊をさほど咎めようとは思ってはいなかった。

 朝に弱いという自身の欠点を認めた上で、毎朝起こして欲しいとお願いされたなら、美花は彼のために目覚まし時計役を務めるのも厭わないつもりでさえあったのだ。

 そんな自分の気も知らないで、いまだにぶつぶつ言っているカミルに肩を竦めた美花はふと、本の山の間に他とは毛色の違う冊子を見つけた。

 活版印刷で量産された書物ではなく、明らかに手書きの――それも誰かが書いた論文をまとめて閉じたもののようだ。表紙に記された著者名を見た瞬間、美花は目を見張った。

 ちなみに、異世界トリップなんて摩訶不思議な事態に直面した際、美花が唯一ほっとしたのは音声言語がそのまま通じたことだ。逆に、文字言語は美花が見慣れた日本語とも英語とも全く異なるものだったが、半年間で日常生活には困らない程度に読み書きは習得できていた。

 そんな美花を驚かせた論文の著者は、カミルの実の父親である現フランセン国王。彼もまた、かつてこのハルヴァリ皇国で学ぶことを許された特別な子供であって、論文は学園で過ごしていた三年の間に書かれたものだった。

 これをカミルが読むこと自体には何ら問題はない。ただし、それが今、この部屋にあることは問題だった。

 卒業生が残した論文や日記が閲覧可能なのは学園内にある図書館だけで、それ以外の場所への持ち出しは固く禁じられている。ということは……

「カミル……あなた、館長様の目を盗んでこっそり持ってきたわね」

「あ?」

 呆れた声で告げた美花を、しかめっ面のカミルが振り返る。

 襟元のリボンを結んでいたところだったらしい彼は、美花の手元の冊子に目を留めたとたん、鋭い声を上げた。

「――勝手に触るなっ!」

 そのままずかずかと近づいてきたカミルが、美花の手から冊子を取り上げようとする。しかし、図書館長の許可がないままそれを彼に持たせておくわけにもいかない美花は、伸びてきた手をひょいと躱した。

「……っ、くそっ、返せ! 返せよ!!」

 カミルはそれが気に障ったらしい。彼の大人になりかけの骨張った手が、あろうことか美花のワンピースの胸元を鷲掴みにした。乱暴で短絡的な行動に、さすがに美花が顔を顰める。

 すると突然、小麦色の手が二人の間に分け入ってきて、カミルの手首を掴んで引き剥がしてくれた。

 ミシリ、と骨が軋むような音がし、カミルがぎゃっと悲鳴を上げる。美花は目を丸くして、小麦色の手の主の名を呼んだ。

「イヴ?」

 イヴは、階段から最も離れた部屋――美花が最初にノックをした部屋を使用している十四歳の少女であった。

 美花が言い付けたにも拘わらず、まだ一階に下りていなかったらしい。扉の方を見れば、他の二人も――少女は面白そうな顔をして、一方少年はおろおろした様子で、まだその場に留まって部屋の中を覗いていた。

 けれども、そんな外野の視線にかまうことなく、新緑のような艶やかなイヴの瞳がぐっとカミルを睨み付ける。

「――将来国王になろうという人が、女性に乱暴しないで」

 イヴは、かつて他の大陸より渡ってきた移民の末裔、ヤコイラ王国の王太子である。何代混血を繰り返しても小麦色の肌と並外れた身体能力を持つ子供が生まれてくる、超優性遺伝子の一族だ。

 女の身で立太子したことにより、男兄弟やその取り巻きからのやっかみに苦しめられてきた彼女は、美花に対して乱暴な口をきき、あまつさえ手荒い扱いをしたカミルに彼らを重ねて黙っていられなくなったのだろう。

 明るい髪色が主流なこの世界では珍しい黒髪のイヴは、美花にとって他より少し親近感を覚える相手だ。

 一方カミルはというと、イヴの剣幕に一瞬ぽかんとした様子だったが、すぐに我に返って眦を吊り上げる。自分の手首を掴んでいた小麦色の手を乱暴に振り払い、殴り掛からんばかりの勢いで叫んだ。

「うるさいっ! お前には関係ないだろ! 余計な口出しをするなっ!!」

「ちょちょっ、ちょっと待って、カミル。落ち着いてっ……」

 カミルの苛立ちの矛先がイヴに向いたことで、初めて美花が焦りを見せる。

 もちろん、寮母として寮生同士のトラブルを看過できないし、ましてやその原因が自分に関わることとあっては仲裁しないわけにもいかない。

 ただでさえ、一つ年下で女性のイヴの方が背が高いという事実が、カミルのコンプレックスを刺激する。それに、武術にも長けているイヴ相手では、ガチンコで喧嘩をすれば負けるのは確実にカミルだ。その結果、プライドを傷付けられた彼が臍を曲げてますます扱い辛くなることが目に見えている。

 美花は、自分を放ったらかしにして睨み合い始めた二人を何とか宥めようとするも、すっかり頭に血が上ってしまった彼らは耳を貸そうとしない。

 それどころか、ついには互いの胸倉を掴み合い、それぞれ拳を振り上げる始末。

「二人とも、落ち着きなさいってば!!」

 美花はとっさに自分の身体を二人の間に捩じ込むことによって、彼らが殴り合うのを阻止しようとした。

 そのせいで、自分が拳を食らおうとも致し方ないと覚悟を決める。ぎゅっと両目を瞑り、せめて口の中を切らないようにときつく歯を食いしばった――その時だった。


「――やめなさい」


 低く威厳に満ちた声が、突如その場に響く。

 とたん、美花の両側から聞こえてきたのは、カミルとイヴの拳が彼女を打つ音ではなく、はっと息を呑む音だった。

 美花が恐る恐る瞼を開いてみれば、目の前には振り上げた二人の拳を掴んで止めた男性の姿。

 カミルやイヴといった子供達はもちろん、美花よりもまだいくらか年上に見えるその人は、一度見たら忘れられなくなるほど――とにかく桁外れに端整な顔立ちをしていた。

 カミルとイヴは、それぞれ利き手を彼に捕えられたまま硬直している。

 扉の前で見物していた残り二人の子供達も、何故か緊張した面持ちで姿勢を正していた。

 美花だけは、その男性を見上げて困ったような顔をすると……

「――お騒がせして申し訳ありません、皇帝陛下」

 ハリヴァラ皇国の元首――自らの雇い主に向かってぺこりと頭を下げた。


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