19話
「三十六度八分……よかった……」
カミルの脇の下に突っ込んでいた体温計をそっと引き抜いてみれば、ガラス管の中の水銀は平熱を示していた。そっと触れた彼の首筋も、燃えるようだった今朝とは大違いだ。
美花がタオルを絞り直して額に乗せてやった頃には、彼はうとうととし始めていた。
どうやら熱は夜中の内に上がっていたようで、昨夜はあまり眠れなかったらしい。
やがて規則正しい寝息が聞こえ始めると、美花はようやく安堵のため息を吐いた。
その時、コンコンと控えめなノックの音が響く。
せっかく寝付いたカミルを起こしてしまわないかと美花が返事をためらっている間に、ノックの主はさっさと扉を開いてしまった。
「ーーカミルは寝たか」
「陛下、しー」
やってきたのはリヴィオで、その手にはポットとカップが載ったトレイがあった。
足音を立てずに入ってきたリヴィオは窓際の机の上にトレイを置くと、紅茶を注いだカップをソーサーに載せて美花に手渡す。
さらに、自分の分の紅茶も注ぐと、机の前に置かれていた椅子をベッドの方へと移動させて座った。
ただいまの時刻は午後三時を少し回った頃。学園の授業はすでに終わり、子供達が課外活動のために城下町に出掛けたであろう時間だった。彼らを見送るのは本来美花の役目であるが、登校時の見送り同様今日はリヴィオが代わりに務めてくれたのだ。
帝王がカミルの側から離れたのも、彼の回復を見届けて安心した上で、皇城の外に向かう他の子供達を見送るためだったのだろう。
すうすうと穏やかな寝息を立てるカミルの眺め、リヴィオも眦を緩める。
「随分と顔色がよくなったな。熱も下がってきていると帝王様がおっしゃっていたが」
「はい、今計ったら平熱まで下がっていました。ルーク先生も、この調子ならもう心配ないだろうとおっしゃって下さいました」
皇帝が手ずから淹れてくれた紅茶はベルガモットの香りがするフレーバーティだった。爽やかな香りとあっさりとした飲み口に、美花の口からも自然とほっとため息が零れる。
そんな彼女の黒髪を、リヴィオが労うように撫でてくれた。
「よく面倒をみてやってくれたな、お疲れ様。カミルは私が見ておくから、少し部屋に戻って休んできなさい」
美花はすかさず首を横に振る。カミルが目を覚ました時、側にいてやりたいと思ったからだ。
「陛下こそ、お疲れでしょう。今日は私の仕事もいろいろ任せてしまいましたし……」
その時、身じろいだカミルの額から濡れタオルがずり落ちて、目元にペタリとくっ付いてしまった。
不快そうに呻いた彼に、美花は慌てて手を伸ばそうとするも、両手に持ったカップとソーサーに一瞬阻まれる。その隙に、さっさとカップをベッドサイドのテーブルに置いたリヴィオが立ち上がった。
彼は熱を吸収した濡れタオルを水桶に戻すと、そっとカミルの額に手を置く。赤い前髪を優しく指先で梳き、熱の具合を確かめるように頬や首筋に触れる様は慈しみに溢れ、まさに我が子の体調を気遣う父親の姿そのものであった。
「陛下は、いつもそんな風に子供達に寄り添うんですか?」
「そんな風に、とは?」
「子供達のこと、すごく大事にしているでしょう?」
「……ふむ」
美花が水桶の中のタオルを絞って手渡せば、リヴィオがそれをまたカミルの額に載せてやった。
すうすうと、カミルが再び規則正しい寝息を立て始めたのを見届けると、リヴィオは美花の隣に置いた椅子に座り直して、にやりと人の悪い笑みを浮かべて言った。
「ハルヴァリ皇国の収益のほとんどを十六の王国からの上納金が占めている。王太子の留学を受け入れるのは首長国として責務ではなく単なる国家的経済活動であり、王太子達はハルヴァリ皇国を維持していくための大切な金蔓だ。丁重に扱うのは当然だろう?」
「……うっわ、最低……聞きたくなかった」
「その最低な男に雇われて給料を受け取っているのだから美花も同罪だ。私の手駒として今後もしっかり励んでもらおう」
「やだやだ、やめてください! 私は陛下に魂まで売り渡したりしませんよ!」
そう言ってぶんぶんと首を横に振る美花を、リヴィオは面白そうに眺めていた。
美花の目から見て、ハルヴァリ皇国の有様はやはり歪であった。
この国は、かつての帝王の直系が治める首長国であるという肩書だけで成り立っている。
各国が納める上納金はお布施や寄付のようなものであり、あくまで任意。それぞれの国の国王がどれほどハルヴァリ皇国、あるいは死してなおこの世界に存在し続ける帝王に帰依しているかによる。
すなわち、王太子時代にハルヴァリ皇国で過ごす三年間で、どれほどこの国と帝王に心酔するかによって、彼らが国王となった暁に差し出してくる金額が決まるのだ。
だから、ハルヴァリ皇帝であるリヴィオは王太子達をとても大事にする。といっても、上客として媚び諂うわけではなく、彼らが本当に必要とする存在となって導かねばならない。
頭ごなしには叱らない。贔屓はしない。努力を認める。個々を尊重するーーハルヴァリ皇帝は、威厳に満ち、それでいて寛容で頼もしい理想の父親を演じる。
実際、リヴィオの言葉だと、彼がいかにも子供達の父親役をビジネスライクに演じているように聞こえるだろう。
ただ、あどけない顔をして眠るカミルを見守るその眼差しは、金蔓に向けるにしてはあまりにも柔らかく澄んでいるように、美花の目には映った。
窓の外が暗くなり始めた頃、課外活動で城下町に降りていた三人が珍しく揃って帰ってきた。
三人は自分の部屋には入らずに、カミルの部屋に押しかけてきてベッドに腰掛けた彼を囲む。その膝の上に、ぽんと小さな丸い缶を置いたのはイヴだった。
「これ、お見舞いだって。カミルのお師匠様から」
「は? 俺の師匠って……ええっ……!?」
イヴと缶を見比べて、カミルが目を白黒させている。
無理もない。カミルの課外活動の師匠は、イヴが師事する大衆食堂の店主に輪をかけて無愛想な老齢の靴職人だ。そんな男が、弟子がたった一日熱で寝込んだだけで見舞いの品を寄越すなんて、誰が想像できただろう。
大衆食堂の常連でもあるカミルの師は、昼食を食べに寄った際にそれをイヴに託したのだという。
しかも、缶の中には、色とりどりのキャンディが詰まっていた。
「あの気難しい顔をしたお師匠さんが、このキャンディ缶を選んでいる姿を想像したら……めちゃくちゃ可愛いよね!?」
美花の言葉に、その場にいた全員が即座に頷いた。
この後、カミルの熱が下がり食欲も出てきたことから、全員一緒にダイニングで夕食を食べることになった。夕食後は、子供達が湯を浴びている間に美花が全員のベッドを整える。こればかりは譲れない寮母の役目で、リヴィオや侍女に代わってもらうわけにはいかなかったのだ。
子供達が最初に整えたカミルの部屋に集まって消灯時刻まで話すと言うので、美花は慌てずに各部屋のベッドメイキングを済ませることができた。
最後に訪れたリヴィオのベッドで、うっかり片付け忘れられていた紙幣を一枚エプロンのポケットに保護したが、後からやって来た部屋の主にすぐにバレて回収されてしまったのは心底解せない。
もちろん一割を要求したものの、それを硬貨一枚に引き上げる代わりにおやすみのキスを要求された。
あくどい取引を持ちかけられた美花は、報酬をさらに硬貨二枚に引き上げさせるべく交渉を開始したが、リヴィオもなかなか頷かない。硬貨二枚は紙幣一枚と同じ価値だから、当然と言えば当然なのだが。
守銭奴対守銭奴の話し合いは、結局消灯時間まで続いた。
だから美花は、カミルの部屋に集まった子供達が何を話し合っていたのかを知らなかった。
「ーーで、何があった?」
口火を切ったのは部屋の主であるカミルだった。
彼とアイリーンがベッドに腰かけ、その前に置いた椅子にミシェルとイヴが座る。
アイリーンの膝の上には、帝王の生首が鎮座していた。
次に口を開いたのはイヴだ。
「ケイトって女を知ってる?」
とたんに、帝王の飴色の瞳が瞬く。それは、いつぞや城門の前で美花に絡んできた宝石商の娘の名だった。
美花がこの世界にやってくるまで数ヶ月、押し掛け女房的に寮母見習いをしていたケイトを知っているカミルとアイリーンは揃って遠い目をする。一方、ケイトと面識のないミシェルは、帝王と上級生二人の反応におろおろするばかりだった。
小さくため息をついたカミルがイヴに向き直る。
「知っているには知っているけど……そいつがどうかしたか?」
「ミカが、身体を使って陛下を籠絡したって周囲に言いふらしている」
とたんに、は? とカミルとアイリーンの声が重なった。帝王は声を上げなかったが、白い髭を生やした口元が物騒な笑みを作る。
ひええっ、と一人震え上がるミシェルを他所に、イヴが続けた。
「今日は、わざわざ私に伝えに店まで来た。彼女の従妹がホール係をしていて手引きしたらしく、倉庫に食材を取り行ったら待ち構えていたんだ」
ケイトの話の中では、美花はいきなりこの世界にやってきて、婚約間近だったリヴィオとケイトの間を引き裂いた悪女ということになっていた。
もちろん、実際はリヴィオとケイトの間に婚約の話など持ち上がったこともないのだが、いずれ寮母の地位をマリィから受け継ぐつもりだったケイトは、本気でそのままハルヴァリ皇妃の座に収まるつもりでいたらしい。
「ミカは寮母にふさわしくない、彼女のせいで私達も不自由しているだろうって……」
「ふうん……それで? イヴはそいつの言葉を信じるのか? メイドが……ミカが寮母にふさわしくない、身体を使って陛下に取り入ったって、お前は思ってるのかよ」
嘲るようなカミルの問いに、イヴは両目をカッと見開いて吠えた。
「そんなこと思っているもんか! 陛下がミカを重用しているのは、ミカの働きを認めているからだっ!!」
きっぱりと告げられたその言葉に、カミルは一転、満足そうに微笑んだ。帝王とアイリーンも微笑みを浮かべている。ミシェルだけはおろおろとしつつ、ぐっと握り締められたイヴの拳を宥めるように撫でた。
「それが分かってるなら充分だ。他人の言葉になど惑わされるな。人も物も、自分の目で見て評価し判断するんだ。それで、あの女はイヴに取り入ってどうしようというんだ?」
「とにかくミカに寮母を辞めさせたいらしい。私に祖国の父に訴えて、寮母の交代を陛下に進言してもらえと言ってきた」
「へえ……」
とたんに、この場にいる全員が真顔になった。
彼らの祖国を含む十六の王国は、帝王とハルヴァリ皇帝を崇めているが、ハルヴァリ皇国の属国ではない。それなのに、ハルヴァリ皇国の一市民に過ぎないケイトは、自分のために一国の君主を動かせと要求してきたのだ。烏滸がましいにもほどがある。
ケイトが、四つの国の王太子達からはっきりと敵認定された瞬間だった。




