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18話




 水銀式の体温計が示した数値はぴったり三十九度。

 カミルの口に銀色の舌圧子が突っ込こまれて喉が晒された末、診断結果は〝風邪〟だった。

 この朝、イヴと一緒にカミルの部屋を訪れた美花は、彼が真っ赤な顔をしてベッドに横たわっているのに気付いて思わず悲鳴を上げた。

 駆け付けたリヴィオが事情を察してすぐさま呼び寄せたのがルークである。

 ルークは医師の資格を持っていて、学園の校医を兼任している。帝王が認識できないというコンプレックス克服しようと奮闘した結果か、彼はいろいろとハイスペックだ。

「昨日、水田に入らせたのがいけなかったんでしょうか……」

「いや、それよりも泥を落とすのに水を被った後、髪もろくに乾かさないでうろうろしていただろう。ミカに注意されても聞かなかったんだから、自業自得だ」

 厳しい言葉を吐きつつも、カミルに上掛けを掛け直してやるルークの手は優しい。

 額に濡れタオルを載せられたカミルは、熱のせいで潤んだ瞳で美花とルークを無言で見上げていた。

「授業はもちろんだが、課外活動も今日は休みだ。後で侍従あたりにカミルの師匠殿への連絡を頼んでおこう」

「はい、先生。よろしくお願いします」

「私は授業があるから学園の方にいるが、もし何かあったら呼んでくれ。すぐに飛んでくる」

「分かりました。ありがとうございます」

 ルークを見送ると、美花はカミルのベッドの側に戻って椅子に腰を下ろした。

 美花と一緒に発熱したカミルの第一発見者となったイヴも、美花の悲鳴に驚いて飛んできたアイリーンとミシェルも突然のことに随分と動揺していたが、リヴィオがすかさず彼らを宥めて朝食に向かわせてくれた。

 食事はよほどの理由がない限り全員が揃って食べるのがこの寮のしきたりだが、今朝の出来事は〝よほどの理由〟に当て嵌まる。体調を崩した仲間に寮母が付き添うことに、異を唱える者など誰もいないだろう。

 学園に向かう子供達の見送りも今日はリヴィオが請け負ってくれたため、美花はこのままカミルに付き添うことにした。

「……俺は、頼んでないからな」

「はいはい」

「別に、メイドに付いててもらわなくたって、養生くらい一人でできるし……」

「うんうん」

「帝王様がいてくれるから、お前なんかいなくったって寂しくなんかないんだからな……」

「そっかそっか」

 ルークが出て行ったとたんに口を開いたカミルの声は普段と違って弱々しく、憎まれ口にも覇気がない。

 実はリヴィオが美花の悲鳴を聞いて駆け付けた時に一緒にやってきて以降、ルークの診察中もずっとベッドの上にいた帝王に、カミルはぐすぐすと鼻を鳴らしながら縋り付いていた。

 素直じゃないのは相変わらずでも、突然熱が出て心細い気持ちは隠し切れないらしい。言葉とは裏腹に一人しないでと訴える薄青の瞳がひどくいじらしかった。 

「かわゆいねぇ」

「かわゆいなぁ」

 たまらず眦を緩めて声を揃えた美花と帝王を、かわゆくないっ! と涙目で睨む様子もやっぱりかわゆい。

 美花は苦笑を浮かべつつ、タオルを冷水に浸して絞り直し、カミルの額に戻してやった。

「……みっともない」

 ぽつり、とカミルが呟く。美花は帝王と顔を見合わし、黙って続く言葉に耳を傾けた。

「風邪くらいで寝込むなんて、みっともない……授業も仕事も休まなきゃならないなんて、情けない……」

 美花に対しては生意気でまだまだ子供っぽい言動も目立つが、カミルは学園の生徒としても王太子としてもたいへん優秀で、真面目で責任感もある。

 微熱くらいならば、平静を装って授業にも課外活動にも出ていただろうし、体調不良を周囲に悟らせないよう取繕えたかもしれないが、今回は熱が高過ぎて上手くいかなかったのだろう。

 そんな自分が歯痒くてやるせない。そう呻いて唇を噛み締めるカミルに、美花は首を横に振った。

「みっともなくたっていい、情けなくたっていいんだよ。授業だって仕事だって、そんなの全部休んだらいいの。一番大事なのは、カミルが元気でいることなんだから」

 そう言って目の前の赤い髪をわしゃわしゃと撫でる。するとカミルはやめろと言いつつも、美花の手を振り払うのではなくぎゅっと掴んだ。

「こんなふうに……誰かにベッドの横に付き添ってもらったこと、今までなかった……」

 身体が弱っている時は心も脆くなるものだ。ぽつりと吐露されたカミルの胸中に、美花は黙って耳を傾ける。

「早く自立するようにって、俺だけ生まれてすぐに母の宮から離れた部屋に移されていたから。フランセンの王太子に甘えはいらない……代々ずっとそうだったからって、父に言われて」

 さほど年の変わらない弟妹は最低十歳までは母の側に置かれていたというのに……そう呟いて唇を噛むカミルの姿はあまりにも痛ましかった。

「そっか……それじゃあ寂しかったよね。王太子はずっとそうだったってことは、カミルのお父様も子供の頃に同じ気持ちを味わったはずなのに、大人になって忘れちゃったのかな?」

「祖父は家族を顧みない人だったらしくて、父は祖父を冷血漢だと言って嫌っていた。ああは成るまいと、母や弟妹のことは確かに大事にしてる。けど、俺は世継ぎだから……」

 ーーフランセンの国王と王太子は代々親子関係がこじれている。

 美花はいつか聞いた図書館長の言葉を思い出していた。大陸一の大国を背負う精神的重圧ゆえか、フランセンの国王は必要以上に世継ぎを厳しく育てる傾向がある、と。

 カミルは王太子としての自分の立場をよく理解しているし、将来良き国王となるべく努力も惜しまない。

 それなのに、大切にされるのは弟妹ばかりで、彼は寂しいと口にすることも許されないなんて、あまりにも不公平だろう。美花はカミルの手をぎゅっと握り返した。

「お前の父も昔、ここで寮母に胸の内を吐き出したことがあったさ。その頃はまだ、父親に振り向いてもらいたい、愛されたいという気持ちはあったのだろうな」

 カミルの枕元で帝王が語り出す。もしも腕があったなら、カミルの頭を優しく撫でてやっていただろうと思わせる、慈しみに満ちた声だった。

「だが、願いが叶わぬまま大人になって王となり、大国を担う気負いに圧し潰されそうになる最中に生まれたのがお前だ、カミル。その時、父は思ったのだろうよ。この子を大国の王にふさわしい人間に育てねばならない。そのためには、親にも誰にも甘えずとも生きていけるだけの強さが必要だ、と」

「獅子は我が子を千尋の谷に落とすってやつね。それ、私の大嫌いな言葉だわ。虐待を正当化しようとしているみたいだもん。這い上がって来た子は親獅子に対して恨みしか抱いていないわよ」

 帝王の言葉に、美花は苦虫を噛み潰したような顔で返す。

 カミルはベッドに横になったままそんな二人を見つめていたが、やがて熱で潤んだ瞳で天井を睨むようにして口を開いた。

「俺は……父みたいにはならない。いつか親になる時が来ても、自分の子供には俺みたいな寂しい思いは絶対にさせたくない」

 美花と帝王に誓うように、あるいは自分自身に言い聞かせるように、カミルはそう告げた。

 それを聞いた帝王は、ますます慈愛溢れる表情をしてうんうんと頷く。腕があったなら、やっぱりカミルの頭がぐちゃぐちゃになるまで撫で回していたことだろう。

 そんな帝王の分も込めて、美花が赤い髪を撫でる。

 やめろ、と弱々しい声が返ってきたが、美花の手が振り払われることはなかった。


「寒い」

「はいはい、上掛け一枚増やそっか? 汗をたくさんかいた方が早く熱が下がるっていうしね」

「喉が痛い」

「よしよし、ええっと、喉にいいものって何だったっけな。大根、生姜、蜂蜜、蓮根、葱、レモン……うん、蜂蜜レモンなら作れそう」

「退屈だ、何か面白い話しろ」

「うーん、面白い話……面白い話……うちの祖父がタヌキに化かされて、延々竹やぶの中を歩かされた話でも聞く?」

 幸いなことに、カミルの熱は正午を回る頃には段々と下がり始めた。

 途中で覗きにきたルークが言うには、この分なら夜までには平熱に戻るだろうとのこと。

 体調の回復に伴って美花に対する要求も増えていったが、甘えられているのだと思えば出来る限り叶えてやりたくなる。

「タヌキ? 何だそれ。詳しく話せ」

「イヌ科の動物だよ。町内会でしこたま酒を飲んでお土産ぶらさげて帰る途中、祖父の少し前を着物姿の女の人が歩いていて、帰る方向一緒なんだなーいいお尻だなーと思って眺めていたら、いつの間にか見覚えのない竹やぶの中にいたんだって。相変わらず女の人は前を歩いているけど行けども行けども追いつかないし出口も見つからず、気がついたら朝になってて祖父は田んぼのど真ん中で大の字になって寝てたらしい」

「それが、タヌキってやつの仕業だと? お前の世界には人間を化かす動物がいるのか……恐ろしいな。それで、お爺様はご無事か? その化け物からどんな惨い仕打ちを受けたんだ?」

「いや、お土産だった餡ころ餅を持っていかれただけなんだけどね」

 ベッドの横に置いた椅子に腰掛けて、美花は正真正銘カミルに付きっきりだった。

 帝王の姿はいつの間にか消えていたが、カミルはもうぐずぐずと寂しがることはなかった。

「このお話の教訓は、お酒は飲み過ぎるなってことと、スケベ心もほどほどにねってこと。カミルも、大人になったらお酒と綺麗なお姉ちゃんには気を付けるんだよ?」

「そんなの、お前に言われるまでもない」

 憎まれ口は相変わらずだが、美花に対して部屋を出て行けとは言わないし、むしろ額を冷やすための水を交換しに行こうと席を立てば、どこへ行くんだと縋るような目で見上げてくる。

 そんな彼を放っておくことなど到底できなくて、ちょうど着替えを持って部屋を訪れた洗濯係の侍女に水桶を託した。泥遊びなんかするからですよ、と昨日のことを蒸し返されても甘んじて受け入れた。

「……一人で養生できるって言ったけど……あれ、取り消す」

「んん?」

 カミルが唐突なことを言い出したのは、シェフが差し入れてくれたリンゴを二人で食べていた時だった。

 六等分にしたリンゴの皮の部分を耳の形に残し、ご丁寧にレーズンの目を付けたそれは、可愛いウサギリンゴ。暇を持て余したシェフの力作である。

 酸味が少なくさっぱりとした甘味で、シャクシャクとした食感のリンゴはいずこかの王国からの献上品らしい。

 ベッドに腰かけ、それを一かけ咀嚼し終えたカミルは、美花から顔を逸らして続けた。

「お前が……ミカが付いててくれて、よかった。一人じゃないから、寂しくなかった」

「お、おおお……」

 いつになく素直な思いを口にしただけでなく、これまで美花のことを頑なにメイドと呼び続けていたカミルが、この時初めて彼女を名前で呼んだのだ。驚きと感動と、それからちょっぴりの照れくささで、美花からはまともな言葉が出てこなかった。

 そんな彼女の反応が不満だったのか、耳まで真っ赤になったカミルが振り返って叫ぶ。

「もし! 今後ミカが寝込むようなことがあったら、その時は俺が付き添ってやるからなっ!!」

「えええっ……どうしたの? なんで急にデレたの? 大丈夫? また熱上がってきたんじゃない?」

「熱なんかもうねえわっ、ばーか! お前に借りを作るのなんて不本意だからに決まってるだろっ!!」

「ああ、はいはい、ばかですよ。そんなに叫ばないの。本当に熱上がっちゃうよ」

 ゼエゼエと息を荒げるカミルを慌ててベッドに横にさせ、額にそっと掌を載せる。

 美花の手が冷たかったのか、カミルは心地よさそうに両目を閉じた。

 そんな彼を見つめながら、今し方告げられた言葉を思い返したとたん、美花の口元がゆるゆると綻ぶ。

 ちらりと片目を開けてそれを見たカミルが、唇を尖らせて言った。

「……何、笑ってんだよ」

「うん、だって……嬉しくて……」

「……は?」

「弱っている時に、誰かが側に付いててくれるって、とても心強いことだよね」

 美花の父はそもそも忙しい人で、自分の都合のいい時しか娘に構わなかったし、母は医者を呼んで診察に立ち合った後は、美花の世話を家政婦に任せてろくに見舞いもしなかった。学校を休まなければいけなかった時などは、せっかくの皆勤賞が……内申書が……と、美花自身ではなく彼女の評価ばかりを心配していたのを思い出す。一度大事な試験の直前に体調を崩した時なんて、熱冷ましの注射を打って学校に行かされたことまであった。

 そんな美花が初めて手厚い看病を受けたのは、祖父母宅に身を寄せてすぐのことだった。軽い風邪だったが、祖父や祖母、伯母達が、代わる代わる側に寄り添い気遣ってくれた時、美花はとても嬉しかったのだ。

 母にとっては何の価値も無くなってしまった自分でも、まだ存在していてもいいんだと分かって、ようやく前を向いて生きていこうと決意したきかっけでもあった。

 そして、この経験があったからこそ、美花は今回寝込んだカミルに寄り添うことができたのだと思う。

「……借りは返す。大船に乗ったつもりでいろよ」

 ぶっきらぼうにそう告げたカミルが、額に乗った美花の手の上に自身のそれを重ねた。

 そんな彼の手は、いつの間にか美花の手を覆えるほどに大きくなっていて、とたんに頼もしく感じられた。


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