17話
学園は、三日に一度休みがある。この日は放課後の課外活動も休みなので、王太子達は私室でのんびり過ごしたり、城下町に遊びに行ったりと各々好きなように過ごす。
美花が正式に寮母となって二月ほど経ったとある休日、彼女の初めての田んぼではついに田植えが行われることになった。
種もみから発芽させ、育苗培土に移して育てていた苗は、すっかり葉も増えて青々としている。それを一房ずつ丁寧に植えていくわけだ。
大学受験を失敗した美花が身を寄せた祖父母宅は、親戚一同が毎日食べるだけの米の確保を目的とした自給的農家だった。その上で、定年まで地元の小学校で校長を務めた祖父は、各地から不登校や引きこもりの子供達を受け入れ、住み込みで農業体験をさせるボランティアをしていた。美花もこちらの世界にやってくる半年前までは悩める子供達に混じり、田植えも一度だけ体験した。
泥の中に裸足で突っ込むのは最初は抵抗を覚えるが、いざ塗れてしまえばすぐに慣れる。
「……おい、メイド」
「いやだから、メイドさんじゃないってば。なぁに?」
泥だらけになりながら苗を植えていた美花は、曲げていた腰を伸ばして後ろを振り返る。
そこには、脹脛まで泥に塗れて立ち尽くすカミルの姿があった。
今日の田植えは当初、美花は稲作の師であるミシェルと二人で行う予定だった。
ところが、話を聞きつけたイヴとアイリーンがやってきて、前者は袖とズボンの裾をたくし上げて意気揚々と水田に飛び込み、後者は日傘片手に木蔭で優雅に見物を決め込んだのだ。
ちなみに帝王はアイリーンの腕の中。フリフリレースの日傘を差した可愛らしいお姫様が、にっこりと微笑みながら老紳士の生首を抱いて立っている、というシュールでホラーな光景を背景に田植えは始まった。
やがて図書館帰りらしきカミルも通りがかり、帝王やアイリーンと並んで木蔭で傍観するのかと思ったら、いきなり靴を脱いで水田に入ってきたのには美花も驚いた。
ただし、すぐに粘着質な泥に絡まれて身動きが取れなくなったらしい。
「……たすけろ」
「……え、なんて?」
「助けろって言ってるんだ!」
「ええー……」
相変わらず生意気な物言いだが、こちらを睨んでくるのは涙目だわ、生まれたての子鹿のようにプルプルと震えているわで、どうにも憎めない。
美花はやれやれと肩を竦めると、ぐちゃぐちゃと音を立てながら側まで歩いていってカミルの手を掴んだ。
「……うわっ、お前の手、泥だらけじゃないかっ!」
「そりゃそうだよ、当たり前でしょ。田植えしてるんだもん」
「……って、ぎゃあ! やめろ! 俺の腕に泥を塗りたくるなっ!!」
「泥ぐらいで、ぎゃあぎゃあ煩いな。あんたそもそも何をしにきたのよ」
土に触れるというのは、人間にとってとても大切なことだ。
特に幼少期の子供達の泥遊びには、五感を刺激し心の発達を促す効果や、可塑性の高い素材に触れることによって想像力を育てる効果、土の中にいる雑菌に触れることによって抵抗力を養う効果など、様々なメリットがある。また、砂や泥の手触りは、鬱病の予防にも良いとされるセロトニンというホルモンを分泌させるらしく、情緒を安定させる効果があると言われているのだが……
「紳士たるもの、女子供だけに力仕事をさせるのは忍びないから手伝ってやろうとしているんじゃないか!」
「女子供って……まあ、ミシェルとイヴと私だから間違っちゃいないけど……」
「いいから、さっさと苗を寄越せよ。あと、植える場所まで俺を誘導しろ」
「ええ~……やたらと世話のかかる紳士だなぁ……」
足をプルプルさせながらもふんぞり返る相手に美花は呆れる。けれど、せっかくやる気になっているのだから、と言われた通り彼の右手に苗を一房握らせ、えっちらおっちら水田の奥へと左手を引いて行った。
米作りは土作りから、というのが美花の祖父の口癖だった。
稲の発育には、肥料の主成分である窒素、リン酸、カリウムの三元素を含み、有機物が豊富で微生物が住みやすく、柔らかくて酸素が充分、さらに水はけの良い土が適している。
条件に合うよう堆肥を混ぜたり粘土質の土を加えて水はけを調整することによって、バランスのよい土壌を用意するのが美味しい米を作るための第一歩だ。
美花が米作りのためにリヴィオから借りた土地は、寮と学園の間に広がる庭園の一角にあった。
ここを選んだのは、寮からも学園からも近くて足を運びやすいこと、ビオトープとして子供達が生物の観察をするのにも役立ちそうなこと、それから大きな池が近くにあることが主な理由だった。
池を満たすのはミネラルたっぷりの地下水らしく、水田に欠かせない豊富な水が確保できたのは心強い。
美花はまず一面の草を取り除いて土を耕し、それから五十センチほどの深さに掘って水田にする区画を整備した。周囲には土を盛って畦を作り、底をしっかり固めつつ周りには煉瓦を敷き詰めて水漏れを防ぐ。
その後、掘り起こした土を解したものを戻して水を入れ、平らに均してようやく田植えの準備は完了だ。
ここまで力仕事ばかりで、美花一人ではたいそう骨が折れただろう。だが、寮からも学園からもよく見える場所を選んだおかげで、美花が作業をしていると今日みたいに誰かしら寄って来て手伝ってくれたのだった。
「ーーやっているな」
「随分楽しそうじゃないか」
あらかた田植えが終わった頃、連れ立って通りかかったのはリヴィオとルークだった。
続柄は再従弟と従叔父に当たる二人は、互いに思うところはあれどもそれなりに気が合うらしく、割合よくつるんでいる。とはいえ、リヴィオが完全無欠の皇帝陛下の仮面を脱ぐのは、今もまだ美花の前だけだ。
美花が拵えた水田はたったの二坪ーーおおよそ畳四枚分。大した大きさではないので、四人でかかれば隅から隅まで植えてもあっという間。最初は泥の感触におっかなびっくりだったカミルもすぐに慣れ、最終的には肘まで水に浸けて熱心に苗を植えてくれた。
ひんやりとした泥から足を抜いて、畦に上がってきた美花達に、リヴィオとルークが同時に相好を崩す。
こういう時、この二人は驚くほど似ていると感じるのに、実際の彼らには一滴の血の繋がりもないのだ。
薬を盛られたルークが美花の前でうっかり心の内を曝け出してからしばらく経ったが、その時のことについてあれから互いに言及することは一切なかった。
自身にハルヴァリ皇家の血が流れていないことを知らないルークは、帝王を認識できないコンプレックスをこれからも抱えて生きていく。皇帝リヴィオや各国の王太子達といった、当たり前のように帝王と接することができる者達を前にした時の劣等感、この世界の人間でさえないのに帝王に目をかけられている美花に対する嫉妬――今もまだ、きっとこの瞬間でさえ、ルークの心の中には様々な感情が渦巻いていることだろう。
それでも彼はリヴィオの側に立ち、王太子達に学問を教え、それからーー
「ミカ、随分はしゃいだみたいだな。頬に泥が付いているぞ」
苦笑を浮かべてそう告げると、胸のポケットからハンカチを出して美花の頬を拭ってくれた。
そうすると、大学受験に失敗して母に無価値の烙印を押され、どうしていいのか分からず泣きじゃくったあの日ーー美花の人生で一番辛く悲しかった時、同じようにハンカチで涙を拭ってくれた担任教師の面影をどうしても重ねてしまうのだ。
美花はそれを振り払うように、努めて笑みを作る。
「いえいえ、ルーク先生。はしゃいでいたのは、私じゃなくてこちらの坊ちゃま……って、カミル? 何してくれてんの!?」
「さっき、腕に泥を塗りたくられたお返しに決まってるだろ」
「うわっ、ちょっとやだ! どろんこ遊びなら一人でやって! 寮母さんは今日はお休みですよ!?」
「うるせー、お前は年中無休で働け」
せっかくルークが拭ってくれた頬は、何故だか拗ねたような顔をしたカミルの横暴のせいでまたもや汚れてしまった。
ちなみに美花の今日の恰好は、いつものワンピースとエプロンドレスではなく、白い無地のシャツと柔らかな綿素材のズボン。
汚れないようにと袖と裾を捲り上げていたのだが、カミルと戯れ合ったためにすっかり泥だらけだ。当然ながら美花もやられっぱなしではないので、カミルもなかなか悲惨な有様になっていった。
「……お前達、仲が良いのは結構だがな」
やがて、傍観に徹していたリヴィオがため息混じりに口を挟む。
とたんに、仲良くなんてないですっ! と声をハモらせた美花とカミルに、彼は寮の方を一瞥してからお馴染みのアルカイックスマイルを浮かべて告げた。
「せっかくの休みが説教で潰れるようなことにならねばよいがな」
リヴィオの視線を辿った瞬間、美花とカミルは仲良く震え上がる。
寮の玄関には、洗濯係の侍女が般若のような顔をして仁王立ちしていた。
階段の踊り場に取り付けられた窓から、朝日が斜めに差し込んでいる。
強い光は窓枠の輪郭を滲ませ、照らした階段の一段一段に濃い陰影を作り出していた。
窓の向こうには大きな池を備えた庭園が広がり、その一角には小さな田んぼが見えた。
美花はコツコツとパンプスの踵を鳴らして階段を下りながら、前日の田植えの様子を振り返る。さらにその後、衣服を必要以上に泥だらけにした罪でカミル共々洗濯係の侍女から大目玉を食らったのを思い出し、苦笑を浮かべたちょうどその時、一階から二階へと繋がる踊り場から顔を出したシェフと目が合った。
「おはよう、ミカさん! ああっ……朝一番に君の微笑みを目にすることができるなんて、僕はなんて幸せなんだろう! きっと今日は素晴らしい一日になるよ!!」
「おはようございます、シェフ。相変わらずお上手ですね。今日もよろしくお願いします」
芝居がかったキザな台詞にも笑顔で応対。たとえそのレトリックが生理的に合わなくても、シェフが人畜無害な人間であると知っている美花が彼を邪険にすることはない。
その後、朝食の用意ができていると告げて一階へ戻るシェフを見送ると、美花はさて、と呟いて二階の廊下に向き直った。
今日もまた、四つの部屋の扉を朝の挨拶とともに順々にノックしていく。
三つ目の部屋までは、いつも通り順調だった。部屋の中からすぐに挨拶が返ってきたし、一番目の部屋のイヴなんてすでに身支度を済ませていたらしく、わざわざ扉を開けて挨拶をしてくれた。
問題なのは、四つ目の部屋だった。
「おはよう、カミル。起きてるの?」
何度声をかけても返事がない。美花は一緒に付いてきたイヴと顔を見合わせてため息をつく。
カミルが朝に弱いのは相変わらずだが、最近は自力で起きられるように努めていた節があり、ここ幾日かは美花がノックをすればぶっきらぼうな声が返ってきていたのだ。
昨日は初めての泥んこにはしゃいでいたので、疲れが出てうっかり寝坊してしまったのだろうか。
となれば、合鍵の出番である。美花はエプロンポケットから鍵の束を取り出して、慣れた様子で選び取った一本を目の前の扉の鍵穴に突っ込んだ。
ガチャリ、と意外に大きな音を立てて鍵が開いても、扉の向こうでカミルが慌てる気配はない。やはり彼はまだ夢の中らしい。
ため息を吐きつつ、わざと大きな音を立てて扉を開けた美花だったが、そこではたとあることに気付き、慌ててイヴを仰ぎ見る。ちなみに、イヴは美花よりも頭一つ分は背が高い。
「えーっと……あのね、イヴ。カミルってば、その……すっぽんぽんで寝ている可能性が高いんだけど……」
「平気。男の裸なんて見慣れてる。ヤコイラでは風呂上がりや鍛錬の後、筋肉自慢の兄達がいつも裸でほっつき歩いていたし、私も腹筋割れてからは人に見られても全然気にならなくなった」
「いやいやいや! お兄さん達はともかくとして、イヴは気にしようよっ! っていうか、イヴの腹筋割れてるんだ!? 触ってみてもいい?」
「いいよ」
筋肉の質や皮下脂肪の厚さの関係で、女性は男性よりも腹筋が割れにくい傾向にあるが、二つ返事をもらった美花がさっそく触れたイヴのお腹は、申告通り見事なシックスパックに出来上がっていた。
身体能力に優れた種族であるヤコイラ人にとって鍛え上げられた肉体こそステータス。そんな価値観の中で生まれ育ったイヴからすれば、カミルのような華奢な少年の裸体など何の感慨も覚えない代物らしい。
そこまで聞くと、美花はいっそカミルが気の毒に思え、彼の名誉のためにもできるだけイヴの目に晒さないようにしてやろうと決意する。
カミルの部屋の中に踏込むと、カーテンを開くのをイヴに任せ、美花はベッドに直行した。
人一人分こんもりと膨らんだ上掛けからは、少し癖のある赤い髪が覗いている。
ベッドの横に置かれた椅子の背には、今朝もまた脱ぎ散らかしたバスローブが乱雑に引っ掛けられていた。
美花はそれを手に取ると、肩があるだろう辺りを上掛けの上から掴んで揺する。
「カミル、起きなさい。イヴに可哀想なものを見るような目で見られたくなかったら、今すぐ起きて服を着なさい」
「……うう」
ベッドの上でもぞもぞしつつ、カミルが呻く。
そうして、ようやくその顔が上掛けの下から出てこようとしたその時、シャッと軽快な音を立ててカーテンが開いた。
一気に飛び込んできた強い光に怯み、美花までも思わず両目を瞑る。
やがて恐る恐る瞼を開いた先に、上掛けから剥き出しになった白い肩を見つけると、彼女は大慌てでバスローブをかけてやった。
それでもまだ起き上がってこないカミルに、カーテンを開け終わって美花の側までやってきたイヴが、怪訝な顔をして言った。
「ミカ、何だか様子がおかしいよ?」
「……え?」
この時カミルの顔は、その髪と見紛うほどに赤かった。




