16話
ハルヴァリ皇城の宮殿は、六本の尖塔を備えた一際大きな建物だ。
学園と寮をその広い背に庇うように立つ様は、実に頼もしく雄大であった。
皇帝執務室はそんな宮殿二階の中心にあり、正面には城門越しに城下町を臨む巨大な窓とバルコニー、背面には学園と寮が窺える出窓が作り付けられている。
壁一面に飾られているのは歴代のハルヴァリ皇帝の肖像画だろう。
ざっと三十人分。どれもこれも見目麗しいご尊顔だが、おおよそ六十個の飴色の瞳に見つめられるのは圧迫面接を受けているようでどうにも居心地が悪い。
作曲家達の肖像画に囲まれて落ち着かない気分になった、学校の音楽室を彷彿とさせた。
「こういう肖像画ってどうして皆真顔なんでしょうね。笑顔の方が絶対イメージいいですのに。陛下の肖像画はもっとポップな感じにしましょうよ」
「ぽっぷ、とは?」
「大衆迎合的ってことです。一般の方々が気軽に家を飾れるようなのがいいと思います。幸い、陛下顔だけはいいですから」
「ミカはもう少しくらい私に対して言葉を選んでも罰は当たらない思うぞ。……いや、しかし大衆受けする肖像画か。レプリカを量産して売る、というのも手だな……」
美花と二人っきりなのをいいことに、普段は隠している守銭奴の顔を覗かせたのはこの皇帝執務室の主であるリヴィオだった。
いや、この部屋だけではなく皇城や城下町を含め、ハルヴァリ皇国の端から端まで全てが、今現在彼の所有物である。
もちろん、学園の立っている土地も建物自体もーーつい先ほどまで美花がいたルークの執務室だって、厳密に言えばリヴィオのものだ。
美花をその執務室の扉に押し付けていたルークは、リヴィオの登場によって一気に我に返ったらしい。
とたんに自身の言動を顧みてひどく狼狽し、消え入りそうな声ですまないと謝る彼を、美花は一言だって責めようとは思わなかった。
ただお互いどうにも気まずかったものだから、元来の目的であった米作りに関する資料を受け取ると、美花は挨拶もそこそこにルークの執務室から飛び出した。
扉をノックしたリヴィオが美花に用があると告げていたために、ルークに引き止められることもなかった。
彼はしばらく執務室から出られないであろうと察し、帝王はその旨を図書館にいる二年生に伝えに向かってくれた。ルークからの伝言として宿題二倍の刑を言い渡されたであろうアイリーンは、今頃悲鳴を上げてカミルにでも泣きついているに違いない。
美花はというと、扉の向こうで待っていたリヴィオにより、今度は彼の執務室に連れて来られて今に至る。
こちらの世界にやって来て、ハルヴァリ皇城内に住まうようになり半年以上経つが、美花が皇帝執務室に足を踏み入れるのはこれが初めてのことだった。
「それで、陛下。私に用って何ですか?」
壁一面に飾られた肖像画はさておき、殊更立派な調度が揃う広い部屋を興味深そうに眺め回しながら問う。
部屋の中央にはこちらも立派な革張りのソファセットが置かれていた。
四人並んでも余裕で座れそうな大きなソファの一脚に、美花はリヴィオと並んで座っている。彼との距離が近いのはいつものことなのでさほど気にならなかったが、その口が別段用はなかったとのたまったのには驚いた。
「えっ……ない?」
「用があると言ったのは、ルーク先生の前からミカを穏便に連れ出すための方便だ」
リヴィオにとってルークは従叔父だが、皇太子時代に生物学を教わった相手でもあるため、今もまだ〝先生〟と呼んでいる。対するルークはリヴィオを〝陛下〟と呼び、すでに一線を引いている様子。
ルークが薬を盛られたことを把握していながら、美花が彼と二人っきりになったことを、リヴィオは何故か知っていた。その上で、いくらなんでも迂闊だろうと彼は顔を顰める。
どうやったって嫌味なほどに整った相手の面相にいっそ感心しつつ、美花はお言葉ですがと口を開いた。
「ルーク先生ってば執務室までの道中は全然普段とお変わりなかったんですよ? まさか、部屋に入ったとたん豹変するなんて思わないじゃないですか」
「それが浅慮だと言っているんだ。こっちは、ミカがルーク先生にうっかり手篭めにされそうだと帝王様がおっしゃるものだから、慌てて飛んでいったんだぞ」
他の者の前では決して見せない苦虫を噛み潰したような顔をしたリヴィオは、美花からすれば存外おかしなことを言う。帝王はずっと美花と一緒にルークの執務室にいたというのに、その彼から話を聞いて飛んできたとはいったいどういうことなのか。
その上、〝手篭め〟だなんて馴染みのない言葉が飛び出してきたものだから、美花はきょとんとして首を傾げる。
それを見て何を思ったのか、リヴィオはその美貌に珍しく苛立ちを滲ませると、並んで座っていた美花の肩をぐっと掴んだ。
「ミカには危機感というものが足りない。今し方、ルーク先生との間で間違いが起こりかけたというのに、懲りずにのこのこ私の執務室に入ってきて……言っておくが、この部屋の扉を私の許可なしに開けられる人間は、今現在誰もいないんだぞ。私が今ここで変な気を起こしでもしたら、お前はいったいどう対処するつもりなんだ」
リヴィオがそう畳み掛けると同時に、美花の身体はぐいっと押されてソファの上に倒される。
そのまま伸し掛かってきた、壁一面を飾る歴代の肖像画のどれよりも麗しい皇帝を、美花はぽかんと口と開いた間抜け面で見上げるという失態を犯してしまった。
ただ、彼女が惚けたのも一瞬だった。
すばやく腰の後ろに伸ばされた右手が、自身の身体とソファの間に挟まっていた相棒ーーハエ叩きを抜き取る。
右手を勢い良く振りかぶった美花は、次の瞬間、少しのためらいもなく目の前のお綺麗な顔に向かってそれを振り下ろした。
ブンッ、と鈍い音を立てて平たいヘッドが空を切る。細い柄は大きく撓ってばねのようだ。
ところがそれが完全に振り下ろされる直前、とっさのところでリヴィオが美花の手ごと柄を掴んで止めた。
「私に対しては相変わらず容赦がないな、ミカは。ルーク先生相手には、得物を抜きさえしなかったというのに」
「ルーク先生をハエ叩きでぶつなんて無理ですってば。あの人繊細そうですもん。それに比べて陛下はメンタル最強だし……っていうか、そもそも危機感が足りないとか、毎朝私に寝室まで起こしに来させてる人が言う台詞じゃないですよね」
「確かにそうだな。私がミカを手篭めにする機会なら今までいくらでもあったーーこれからもな」
「うわっ、うっわ! 明日の朝からは、金属バット持って起こしにいきます!」
美花の相棒たるハエ叩きはひとまず取り上げられ、ソファの前のテーブルに載せられた。
そうして空いたリヴィオの手が、美花の背中とソファの間に滑り込んだかと思うと、押し倒した時とは裏腹に丁寧に抱き起こしてくれる。
自然と間近に迫った彼の顔は、やっぱり何度見ても感心するほど整っているが、そんな中でも特に印象的なのは帝王と同じ飴色の瞳だろう。
こちらの世界では青系や緑系が主流の中、日本人の茶色にも近い色合いの瞳にはどこか親近感を覚える。
そこでふと、美花は改めて壁一面の肖像画を見回した。
「そういえば……歴代の皇帝陛下は、皆さん瞳の色が同じなんですね」
「ハルヴァリ皇帝の瞳は帝王様の瞳そのものだからな。同じ色にもなるさ」
「ふーん、おじいちゃんからの遺伝ってことですか? じゃあ……もしかして、ルーク先生は瞳の色がハルヴァリ皇族の血筋ではないお父様譲りだから、おじいちゃんが見えないんでしょうか」
「……いや、ルーク先生は……」
帝王の存在が認識できない劣等感に苦しむルークの姿を、美花は先ほどまざまざと見せ付けられた。
彼にとっては美花からの哀れみも同情も余計なお世話だろうが、せめて原因が分かれば少しは吹っ切れるのではないかーーそう思って呟いた言葉に答える形でリヴィオの口から語られたのは、美花の予想だにしない内容だった。
「ルーク先生には、そもそもハルヴァリ皇家の血は一滴も流れていない。彼はーー大叔母夫婦の実の子供ではないからな」
「えっ!? じゃ、じゃあ……実のご両親は……」
「母親は、ハルヴァリ皇国に留学中だったとある国の王太子。父親も、別の国の王太子だ。ルーク先生は、二つの王国の王太子達の間に私生児として生まれた」
「私生児……」
ーー諦めろ。それが、自然の摂理だからだ。
何故自分には帝王が見えないのか、どうすれば見えるようになるのかと問うルークに、そう帝王が答えた理由がこれで分かった。
ルークにハルヴァリ皇族としての欠陥があったのではない。そもそも、帝王が認識できる血筋の人間ではなかった、ただそれだけのことなのだ。
ハルヴァリ皇国としては、留学中の王太子同士の恋愛自体を禁止しているわけではないが、将来それぞれの国の君主となる彼らが添い遂げることは現実的には非常に困難である。
ルークの両親も結局は卒業とともに破局した。それぞれの祖国に戻って君主となった後、各々に伴侶を迎えて、すでに我が子に玉座を譲っているという。
彼らの間に生まれたルークは、当時寮母を務めていたマリィが監督不行き届きの責任をとる形で引き取ったらしい。
「寮で消灯時間後に互いの部屋を行き来したり泊まったりするのが禁止されたのって……」
「ルーク先生の両親の件があったからだろうな」
幸いと言っていいのかどうかは分からないが、ルークの瞳の色合いが義父となったマリィの夫のそれとそっくりだった上、髪の色もよく似通っていたおかげで、事情の知らない者には実の親子に見えていた。また、子供のいなかった夫婦は、ルークに深い愛情を注いで大切に育てた。
帝王のことさえなければ、ルークの人生は充分に幸せなものになったはずだ。あるいは、帝王の言う通り、彼が認識できないことを自然の摂理だと思って諦められれば、もっと楽に生きられるだろう。
いっそ、出生の秘密を本人に知らせてやるべきなのでは、と美花は思う。
自身が抱き続けてきた劣等感が不可抗力なのだと悟れば、今後の人生に対する気の持ちようも変わっていくだろう。それに比べれば、成人して随分と経つルークにとって実の両親が別にいるなんて事実は些細なことではなかろうか。義理の両親に愛されて育った自覚があるならば尚更である。
けれども、リヴィオは美花の提案には頷かなかった。その理由を、彼はこう語る。
「事実を知ってしまえば、実の両親が誰なのかも必ず知りたくなる。いかにルーク先生が理性的な方であろうとも、その欲求には抗えないだろう。彼が両親の国の王位継承権に係う可能性は、帝王様を認識できない時点で無いに等しいが、現在片親の違う兄弟がそれぞれの国の君主として立っている以上、ハルヴァリ皇国としてはわずかにもその治世を脅かすわけにはいかない」
もしも、ルークが真実を知るとすれば、それは彼自身の死の間際だーーそう告げられ、美花はひゅっと息を呑んだ。自分がとんでもない事実を聞かされてしまったと気付いたからだ。
「……陛下、どうしてルーク先生本人にも言えないようなことを私に話したんですか?」
おそるおそる美花が問う。新米寮母に国家レベルの機密なんて荷が重いどころの話ではない。
そんな美花に対して珍しく完全無欠の皇帝陛下の顔になったリヴィオは、厳かな声で告げた。
「王太子達の将来のためーーひいては大陸の泰平とハルヴァリ皇国の立場を末永く維持するため、寮内の風紀を徹底しなければならないが、要となるのは皇帝ではなく寮母だ。ミカには過去の事例とその結果を把握することによって、責任重大な立場にあることを自覚しておいてもらいたい」
たちまち両の肩に重い物が伸し掛かってきたような気がして、不安になった美花は俯いた。
そんな彼女の肩に、並んで座っていたリヴィオがするりと腕を回し抱き寄せる。
美花がはっとして見上げれば、すぐ目の前にあった美しい顔には先ほどとは打って変わって実に人間臭い笑みが貼り付いていた。
「ーーというのは建前で」
「え……?」
きょとんとする美花の耳もとに、リヴィオがにやりと口の端を上げて囁く。
「本当は、ミカと秘密を共有することによって、それをルーク先生本人に隠し続けることへの罪悪感を軽減させたかったんだ。今日から我らは共犯だな、ミカ」
「ーーは? いや、ちょっと待って! いくらなんでも一方的過ぎやしませんか!?」
「しかも、機密厳守を理由に合法的かつ半永久的に、ミカをハルヴァリに縛り付けることができる。ふふふ、この大陸にもはや逃げ場はないぞ、ミカ」
「ひえっ……やだやだやだ! 国家権力振りかざしてくるの、こわいっ!!」
不穏な言葉を囁きながらも、美花の肩を撫でるリヴィオの手はひどく優しい。
そうとも知らず、彼の胸に両手を突っ張って逃げ出そうとする美花を、両腕を背中に回すことによってすっぽりと抱き込んだリヴィオは、さらなる不敵な笑みを浮かべて言った。
「そういうわけだから、今後も末永くよろしく頼むぞ、ミカ」
「いや、頷きませんけどね!?」
そんな二人の押し問答は、書類を持ってきた侍従によって皇帝執務室の扉がノックされるまで続いた。




