15話
生物学教師ルークの執務室は、学園の三階にあった。
学園の廊下と図書館は、一階と二階は扉で繋がっているというのに、三階には扉が無くて行き来できないようになっている。
そのため、図書館の三階から学園の三階に行くには、図書館内の階段を二階まで下り、廊下に出て学園側の階段を三階まで戻らなければならなかった。
現在、子供達は全員図書館に集まっている。カミルとミシェルの姿はお茶の後は見かけなかったが、図書館内でそれぞれ生物と言語の授業の資料探しをしているはずだ。
他に授業は行われていないこの時間、学園側には美花とルーク以外に人の気配がない。図らずも、広い学園内で二人っきり。
しかも、ルークの執務室というプライベートスペースにて、美花は現状に目を白黒させていた。
「あ、あの……ルーク先生? これはいったい……」
ルークの行動はいきなりだった。
執務室に招き入れるなり、彼は美花の背中を閉じた扉に押し付けるようにして立たせると、その前に両腕を組んで仁王立ちをした。
そうして、熱を帯びた瞳でじっと美花を見下ろしながら口を開く。
「なあ、ミカ。アイリーンが淹れたお茶を飲んでから、だんだんと気が昂ってきたような気がするんだが――理由を知っているか?」
「あー、あのー……えーと、ええーっとっ……」
美花はしばしうろうろと目を泳がせていたが、額が触れ合いそうなほどぐっと顔を近づけられ、とうとう観念する。
「アイリーンはその……ほ、惚れ薬を先生のお茶に混ぜた、と。――申し訳ありません。完全に私の監督不行き届きです。ご気分が優れないようでしたら、アイリーンが師事している薬剤師の方に中和剤か解毒剤がないか聞いて参ります」
「……ほう、惚れ薬とは」
美花の話を聞くと、ルークは何故かくすりと笑った。得体の知れない薬を紅茶に混ぜて飲まされたなんて、憤慨してもしかるべき仕打ちに対し、彼はなおもくすくすと笑う。
思わずきょとんする美花の目の前で、ルークは生物学教師の顔になって口を開いた。
「あのね、ミカ。惚れ薬なんて人の精神を操るような薬が果たして作れると思うか? 私の答えは否だ。惚れた腫れたに関しては、催眠術の方がまだ効果がありそうなもの」
「え……」
「可能性として考えられるのは媚薬の類いだろう。有名なのはイモリの黒焼きだったりマンドラゴラだったりを原料とするものだな」
「びやく」
つまり、ルークの紅茶に入れられたのは惚れ薬という名の媚薬ということだろうか。
美花はそろりと視線を上げてルークの顔を見上げたが、たちまち目を逸らした。
「……ルーク先生はご気分が優れない様子でいらっしゃるので、私は早急にこの場を離れますね。今日の授業はこの時限でおしまいですし、どうかゆっくり休んでください」
「ふふ、ミカ。私は今、どんな顔をしているんだ?」
なおもくすくすと笑うルークの頬は僅かに上気し、青い瞳は熱に浮かされたように潤んでいて――つまり、ものすごく色っぽい。普段の彼のかっちりとしたイメージとの差が、薬の効果を物語っていた。
「まあこの程度の軽い悪戯、目くじらを立てるほどのことではない。この学園は毎年一癖も二癖もある生徒が集まるからな。ここで十年も教師をやっていれば、彼らの悪戯に巻き込まれることもそう珍しいことではないさ」
「うう……先生、なんて寛容な……神ですか」
「ただ、調子に乗って度が過ぎることのないよう、寮母の君がしっかり導いてやりなさい。――あと、アイリーンには特別に宿題を倍にしてあげると伝えておいてくれ」
「わあ、先生! やっぱり怒ってるんじゃないですか!?」
ぱっと顔を上げて叫んだ美花を見て、ルークは珍しく声を上げて笑った。
その笑顔に美花は初恋の人――実の親よりもずっと自分を思い遣ってくれた担任教師を重ねる。
彼も滅多に声を上げて笑ったりしない人だったが、いつだって美花を慈愛に満ちた眼差しで見守ってくれていた。
それを思い出したとたん、美花の胸はつきんと痛んだ。
アイリーンとイヴには初恋の相手とは告げたものの、実際美花の担任教師への想いは恋と言えるほどに成長してはおらず、どちらかというと憧れに近かっただろう。
元の世界に未練はないと思っていたが、もしも許されるならもう一度、彼に会ってみたい。
そんなことを思いつつ、目の前にあるルークの顔に担任教師の面影を重ねる美花の眼差しは、自然と切ないものになる。
ルークはそれに何を思ったのだろうか。彼はふと美花の耳元に唇を寄せ、囁いた。
「そういえば……私が紅茶を飲んだ時、正面に座っていたのは君だったな。もしも惚れ薬が本物で、私が君に惚れてしまっていたらーーどうする?」
「えっ、惚れ……!?」
美花がぎょっと目を丸くするのと、ルークが彼女の囲うようにして扉に両手を突くのは同時だった。
いきなり身動きが取れない状態にされてしまい、さしもの美花も焦り出す。
アイリーンの言う惚れ薬は、生物学教師のルークの認識では媚薬であろうと言う。それが事実だとするならば、効果のほどは様々にしろ多かれ少なかれ性的興奮を覚えさせる作用があるはず。
そんな状態にある男性と人気のない場所で二人っきりになってしまうことが、どのような結果をもたらす可能性があるのか――思い至らなかったのは完全に美花の落ち度だ。
ここで万が一間違いが起こってしまっては、彼女自身の貞操はもちろん、ルークの沽券にも関わる。
美花はごくりと唾を飲み込むと、努めて冷静を装いながら口を開いた。
「ルーク先生、ひとまず落ち着いてください。先生は今、正常な状態ではいらっしゃらないのです。私はすぐにこの場を離れますので、先生は薬の効果が消えるまでどうかしばらく安静になさってください」
「この程度の媚薬に惑わされるほど柔じゃないさ。だがどうしてもというなら……そうだな、監督不行き届きの贖罪として、ミカがこの熱を鎮めてくれるか?」
美花はたまらずひえっと悲鳴を上げた。
インテリな印象が強いルークの口から、皇帝の仮面を脱いだリヴィオ並みのセクハラ発言が飛び出してしまったからだ。
思わず胸の前で両腕に何かを抱えるような仕草をすれば、ぐえっと蛙が潰れたみたいな声が美花の耳に届いた。ーー帝王である。
「こぉら、ミカちゃんや! 何を躊躇っている! 今こそ、その腰に装備した武器を抜かんかいっ!!」
「いやいやいや、ムリムリムリムリ! ルーク先生をハエ叩きでぶっ叩くなんて、そんなの絶対無理だからっ!!」
実のところ、美花はただの一瞬たりともルークと二人きりになどなっていなかったのだ。
図書館の三階から学園の三階まで移動する最中も、ルークの執務室に入ったとたん扉に押さえつけられた時だって、美花の側にはずっと帝王がいたのだから。
ただし、ルークには帝王の存在が認識できない。
彼の目にはこの時、何かを抱きかかえるような恰好をした美花が、何も無い腕の中に向かって喚いているように見えていただろう。そして彼は、自分には見えない帝王の姿が美花には見えているということを知っている。
「……そこに帝王様がいらっしゃるのか」
ルークの掠れた声が耳元に響く。美花が返答に窮する内に、彼はさらに畳み掛けた。
「帝王様に聞いてくれないか。私には、どうしてあなた様の姿が見えないのか、どうしたら、見えるようになるのか、と」
帝王の言葉はルークの耳には届かない。だが、その逆は可能だ。
ただし、ルークの問いに対する帝王の答えは、美花が通訳するが憚られるほど如何ともしがたいものであった。
「ーー諦めろ。それが、自然の摂理だからだ」
美花の顔が一瞬にして強張る。それだけで、ルークには充分な答えだったのだろう。
かっと見開かれた彼の両目は、痛々しいまでの苦渋に満ちていた。
「どうしてーーどうしてだ! どうして私にだけ見えないんだ……!!」
悲痛な叫びとともに、ルークは両の拳で強く扉を叩いた。
ドンッと大きな音が響き、扉に背中を押し付けられていた美花の身体が跳ねるほどの衝撃がきた。
「ハルヴァリの人間でも、ましてやこの世界の人間でもないミカに見えて、何故私にはっ……!!」
ルークがこれほどまでに心をさらけ出してしまっているのは、アイリーンが紅茶に盛った薬の影響か、それとも彼の視覚的には美花と二人きりという状況のせいなのだろうか。
どちらにせよ、我に返った時、ルークはひどく後悔するだろうと美花は思った。
いつも冷静沈着、理知的な教師に徹している彼の面目を保とうとするならば、美花は一刻も早くこの場を去るべきだ。そのためには、帝王の言う通り、相棒ことハエ叩きを振りかざしてこの場を脱する他ないだろう。
美花はついに決意を固め、エプロンのリボンに差したハエ叩きの柄を後ろ手に掴んだーーその時だった。
コンコン
突然扉をノックする音が聞こえ、美花もルークもはっとした。
続いて、扉の向こうから声が掛かる。
「ーー失礼。ルーク先生、こちらにミカはおりますでしょうか」
美花にもルークにも馴染み深い声――その主は、リヴィオであった。




