14話
美花の母は、多くの官僚や弁護士を輩出する名門一家に当主の後妻として入った。
母方の祖父と変わらない年齢の父には前妻との間に三人の息子がおり、全員一流大学出の超エリート。
娘は美花一人だったので、父は随分可愛がってくれたように思うが、今思えば我が子というよりは愛玩動物に接するような態度であった。すでに成人した優秀な息子達を持つ父は、最初から美花には何の期待もしていなかったのだ。
けれども母は違った。
父の前妻に対して異様とも思えるほどの対抗心を抱いていた彼女は、美花を身籠ると同時に、腹違いの兄達が通ったのと同じ国内最高峰の大学に進学させる目標を定めていたらしい。
美花は幼稚園から高校まで一環の進学校に通い、常に学年トップの成績を収めるよう求められた。付き合う友達も精査され、放課後の時間は毎日習い事の予定で埋まっていた。
そんな毎日を、当時の美花は嫌だと思ったことはなかった。期待に応えれば、母が嬉しそうな顔をしたからだ。
自分のためではない。母のために、あの頃の美花は生きていた。
そんな日常が崩壊したのは、美花が大学受験に失敗した時――今から一年近く前のことだ。
内申書は完璧だったはずだし、直前に受けた模試の結果も充分合格ラインに達していた。
それでも、結果的に美花は希望の大学から合格通知をもらえなかった。原因として心当たりがあるとしたら、受験当日に少々熱っぽかったことくらいだろう。
とにかくこの時、美花は物心ついて以来初めて、母の期待を裏切ってしまったのだ。
合否の結果を知ったとたん、母は凄まじく怒り狂い始めた。
これまで手塩にかけて育ててきたのが無駄になったと美花を詰り、腹違いの兄達に劣る美花など無価値だと罵倒し――そうしてついに、母は決定的な言葉を口にした。
「――あんたなんか、生まなきゃよかった!」
初めての挫折を味わったその日。
自分は母にとって自尊心を満たすための道具でしかなかったのだと気付かされ、美花は絶望した。
美花が生まれ育った世界と、ハルヴァリ皇国を含む大陸があるこちらの世界。
この二つは並行世界ではないかと美花は推測しているわけだが、その根拠の一つとなっているのは太陽軌道や朔望周期の一致だ。
さらにハルヴァリ皇国には、過去にも美花のように世界を越えてきてしまった人間がおり、その明確な証拠が本人達の手記として存在していた。
手記は日本語で書かれている上に、所々に美花が身を寄せていた祖父母の家がある田舎の地名が出てくる。かの地域にはいくつもの神隠しの伝説が残っていて、もしかしたらその内の何人かは、美花のようにイレギュラーな現象に巻き込まれてこちらの世界に来てしまったのかもしれない。
手記は現在、他の多くの重要参考資料とともに図書館の三階にて厳重に保管されていた。
「――ミカは、元の世界に戻りたいと思わないのか?」
そんな質問が降ってきたのは、美花が先人の手記を読んでいる時だった。
椅子に座った美花を背後から囲うように机に両手を突き、彼女の頭越しに手記を覗き込んだのは、生物学の教師ルークである。
思いがけない距離の近さに美花は少しばかりどぎまぎしつつ、それを誤魔化すようにこほんと一つ咳払いをしてから口を開いた。
「えっと、そうですね……こちらの世界で仕事を任されたばっかりですし、幸いここは居心地がいいですし……とりあえず、今すぐ戻りたいとは思っていないかもしれません」
「かもしれない、とは自分のことなのに随分と曖昧な答えだな」
「元の世界に戻る方法は現状見当たりませんが、実際戻れる可能性が出てきた時に自分の考えがどう変わるか分かりませんから。ただ如何なる場合でも、寮母の仕事を途中で放り出すような無責任な真似はしたくないと思ってはいます」
「それはそれは……高尚なことだ」
称賛なのか、それとも皮肉なのか。
どちらともとれる言葉を吐いたルークは、机に突いていた手を外して美花から離れていった。
「……あの男は、ミカちゃんよりもよっぽどこの世界で生き辛いのかもしれんなぁ」
とたん、美花の手元からそんな呟きが上がった。帝王である。
美花にべったりの帝王は、今日も今日とて彼女の側に貼り付き、今もまた机の上に転がって手元の手記を一緒に覗き込んでいたのだ。
しかし残念ながら、父親である先代寮母の夫と似たルークの青い瞳には、帝王の姿は映っていなかったのだろう。
認識できない者にとって、帝王の存在は幽霊そのものだ。見えないし触れられない。
それを証拠に、何も知らずにルークが机に突いた手は、美花の目には帝王の脳天から顎までを貫通しているように見えていた。だが、ハルヴァリ皇族に生まれながら帝王が認識できないことに、ルークが少なからずコンプレックスを抱いていると知っている美花は、その光景には一切コメントしなかった。
「帝王様が当然見えてしかるべき血筋に生まれた自分にできないことが、本来この世界に存在するはずのないミカにできるんですもの。ルーク先生にとってはミカの存在そのものが不条理なんでしょうねぇ」
「かと言って、行き場のない苛立ちをミカに打つけて八つ当たりするほど、子供じゃない。さっきの質問……ルーク先生はミカに〝元の世界に戻りたいと思う〟と答えてほしかったんじゃないかな」
さらに口を挟んできたのは、アイリーンとイヴだ。
アイリーンら二年生はルークが教師を務める生物学の授業の一環で図書館に調べ物をしに来ていた。イヴら一年生も、言語学で古代文字を習うに際し図書館に資料を探しにやってきたらしい。
二人は何故か美花を挟むようにして、彼女の席の両側にそれぞれ陣取った。
「私はミカが、ルークが先生相手だと妙に畏まる……ていうか乙女っぽくなるの、前から気になってたのよね。ねえ、ルーク先生ってミカの好みなの?」
「ミカは……ルーク先生が好きなのか?」
アイリーンの質問もイヴの質問も結局はどちらも同じ内容だったのだが、その際の表情が正反対だった。
前者は面白い玩具を見つけたとでも言いたげな満面の笑みに対し、後者は聞くべきか聞かざるべきか葛藤の末とでもいった様子で真剣そのもの。
共通しているのは、二人とも美花からの回答を得るまで引き下がらなさそうだということだ。
両側から詰め寄られ、美花は肩を竦めて苦笑する。
そうして、別段隠し立てするほどのことではない、と口を開いた。
「ルーク先生ってね、似てるのよ――私の初恋の人に」
とたん、アイリーンの瞳が好奇心で輝いた。イヴも、興味深そうに身を乗り出してくる。
彼女達に詳しく聞きたいと強請られた美花は、手記を閉じて机の端に寄せ、変わりに帝王の生首を両腕に抱き込むようにして続けた。
「私がさ、大学受験に失敗したって話をしたでしょ。その前後ですごくお世話になった先生がいたのよ。年頃もちょうどルーク先生と同じくらい。髪の色とか顔の雰囲気とかも結構似てて……あと、声もそっくりなのよね」
「その先生が、ミカの初恋の人なんだ?」
確かめるようなアイリーンの言葉に、美花は黙って頷く。
流れ星が降り注ぐ夜空の下で、大学受験に失敗したことを打ち明けた時、アイリーンとイヴを含めた子供達やリヴィオ、帝王だって別段驚いた風ではなかった。
そもそもこの世界には受験という概念がないのでピンと来なかったのだろう。
ただし、それに失敗したせいで母に見捨てられたと聞いて、大学受験が美花にとって人生を大きく左右する重要なものであったのだろうと理解はしたようだ。
それでもあの時、美花の失敗談を誰も笑わなかった。失敗した美花を可哀想だと同情する者もいなかった。
その失敗も、今ここにいる美花を作り上げた要素の一つであると認め、ただただ受け入れてくれたのだった。
「高校……って、ちょうどこの学園の子達と同じ年代が通う学校なんだけど、そこで私が三年生の時の担任だったんだ。偶然母とは同郷だったこともあって、私に目をかけてくれてたんだと思う。受験に失敗して行き場を無くした私が祖父母のもとに身を寄せられるよう取り計らってくれたのも、その先生だった」
けれども、担任教師とはそれっきりだと告げると、アイリーンもイヴもとたんに不満げな顔になった。
「えー、ミカったら告白しなかったの? おじいさまとおばあさまの所じゃなくて、その先生の家に転がりこんじゃえばよかったのにー」
アイリーンの言葉に、イヴもうんうんと頷いて同調しているが、今度は美花が唇を尖らせる番だった。
「だって――その先生、既婚者……しかも新婚だったんだもん」
とたんに、アイリーンとイヴが声を揃えて「ああ……」とため息をついた。二人して、そりゃあしょうがないと言外に告げる。美花も苦笑いを浮かべるしかなかった。
美花に無価値の烙印を押した母は、彼女が別の大学に行くことも浪人生になることも許さなかった。
母の敷いた人生のレールに沿って走っていた美花は、ただ一度踏み外しただけで、その先のレールを全て外されてしまったのだ。自分の力ですぐさま新しいレールなんて敷けるはずもない。
右も左も分からずその場で立ち竦んでいた美花のために、そっと新たな道を指し示してくれたのが件の担任教師だった。
彼の知る美花の母は三人姉妹の末っ子で、小さい時から都会に憧れていたらしい。田舎を嫌い高校卒業を機に上京し父と結婚。それから一度も実家に戻っていなかったため、祖父母も伯母達も、美花が生まれたことさえ知らされていなかったという。それでも担任教師から事情を聞いた彼らは、美花を家族として温かく迎え入れてくれた。
それから半年後――今現在から遡るなら半年前、いきなり現れた母に結婚を言いつけられるまで、美花はのどかで幸せな日々を送ることができたのだ。
「ミカが、今すぐ元の世界に帰りたいって強く思わないのは、お母様のせい?」
「うん……そうだね。もう母の言いなりになるのは嫌だけど、母のことを完全には嫌いになれない。だからこそ、物理的に距離が置けている今はすごく落ち着いていられる。母から逃げてるみたいなのは、ちょっと癪だけどね」
アイリーンの問いに笑ってそう返した美花の肩に、トンと黒い頭が乗る。イヴだった。
突然の甘えるような仕草に美花が驚いていると、イヴはくっ付いたまま口を開いた。
「ミカを大事にしない母親からなんて、逃げたらいい。他にもっとミカを大事にしてくれる人がいるはず……」
だから、逃げたっていいんだ。イヴはそう続ける。
「私も、王太子に選ばれてからヤコイラでは生き辛かった。兄弟には妬まれて、食事に毒を盛られたことも一度や二度じゃない。でも、ハルヴァリでは誰も私を傷付けたりしない。帝王様のご加護のもとにあるんだって、三年間は安堵していられるんだと思うと嬉しかったんだ」
ハルヴァリ皇国で過ごす三年間は、王太子達は祖国の柵から解放され、帝王とハルヴァリ皇帝によって庇護される。その間に、彼らは力を身に着ける。三年後に祖国に戻った時、そして玉座に座った時に、あらゆる妨害や悪意に打ち勝てるよう、強くなるのだ。
イヴはこの時、課外活動先として大衆食堂を選んだ理由も教えてくれた。
「毎食毒を盛られるのを恐れるくらいなら、自分で食事を作れるようになりたい。大事な人に、自分の手で美味しくて安全な食事を用意してあげられるようになりたいんだ」
健気な言葉に胸が熱くなり、美花は自分の肩に乗ったイヴの頭を撫でた。
すると、反対の肩に今度は金色の頭が乗っかった。アイリーンだ。
ふふ、と笑う彼女に合わせて美花の肩も揺れる。
「二人の話を聞いたんだから、私も打ち明けないと不公平よね。私は別にハルランドで居心地が悪いと思ったことはないけど、不満がないわけじゃないのよ。あの国の男達は、女王は人形みたいにしゃべらず飾られておけばいいと思ってるんだから」
女王の国ハルランドの実権は、現女王の兄であるアイリーンの伯父が握っているという。ここ何代も女王は時々の権力者の傀儡だが、アイリーンはそう成り下がるつもりはないらしい。
「私が奴らの言いなりになるってことは、次の女王となる私の娘にもそんな人生を強要することになるんだもの。――そんなの、絶対に嫌だわ」
楽天主義の典型的お姫様キャラは彼女の隠れ蓑。腹に一物抱えながら、周囲の大人達が油断をするよう御しやすい女の子を演じているのだ。
そんなアイリーンは薬局を課外活動先として選び、日々薬草の知識を深めている。
薬草と毒草は紙一重。その知識をどこでどう使うつもりなのか……尋ねるのには少し勇気が要りそうだ。
美花は黙って、アイリーンの頭を撫でた。
「――ミカ、少しいいだろうか」
その時、ふいに本棚の向こうからルークが顔を出して美花を呼んだ。
アイリーンとイヴをくっ付けた彼女に一瞬目を丸くした様子だったが、美花がはいと返事をすればすぐに我に返る。
「ライスに関する資料をまとめていたのを思い出したんだ。栽培の参考になるかもしれないから、君も読むか?」
「わあ、ありがとうございます、先生! 是非拝読させてください!」
そう言ってアイリーンとイヴの間から立ち上がった美花は、もう一度二人の頭を撫でた。
数日前、実験室で選別された種もみは無事発芽し、育苗培土に移されてすくすく成長中だ。
美花の初めての稲作には生物教師のルークも興味津々のようで、苗の様子を頻繁に観察している。
資料はルークの執務室にあるらしく、それを借りたら一度寮に戻ろうと思った美花は、彼と一緒に図書館を出ることにした。
さっさと階段を下りていくルークを追い掛けようとするも、ぐっと手を掴まれて一度その場に踏みとどまる。美花の手を掴んでいたのはアイリーンで、彼女はにっこりと腹に一物ありそうな笑みを浮かべて口を開いた。
「昨日、おばあちゃんに習って惚れ薬を作ったの」
「え、惚れ薬……?」
「で、その惚れ薬ね――さっきお茶の時間にルーク先生のカップに盛っておいたから」
「……は?」
この授業の直前、図書館三階に集まった面々は館長の計らいでお茶の席を囲んだ。
その時、率先して紅茶を淹れたのはアイリーン。
さらに、アイリーン曰く惚れ薬を盛られたルークの正面に座っていたのは、美花だった。
「そろそろ薬が効いて来る頃だろうから、ルーク先生にどんな気分か聞いておいてね」
「ミカ――早くおいで」
もはや、は? しか言葉が出てこない美花を、おそらく何も知らないだろうルークが階段の下から呼んだ。




