12話
ミシェルが世話になっている紅茶専門店の店主は、物腰の柔らかな老紳士だった。大陸中の紅茶に精通し、広い人脈を持つ彼をミシェルは師と呼んで尊敬している。
店主に見送られて店を出た一行が次にやってきたのは、先ほどの紅茶専門店のものよりも、さらに年季の入った扉の前だった。
美花が傘を置いて取っ手を引けば、ギイイッと軋んだ音を立てて扉が開く。とたんにむわっと鼻腔を刺激したのは、紅茶よりもずっと癖のあるエキゾチックでスパイシーな香りだった。
「あらー? お揃いでどうしたの?」
ミシェル同様、店の奥のカウンターからひょっこり顔を出したのはアイリーン。
彼女が前年に引き続き課外活動先に選んだのは、こちらもハルヴァリ皇家御用達、老舗の薬局だった。
壁一面、所狭しと並べられた箱に入っているのは薬草で、店主の薬剤師はまさしく魔女のような老婆だ。
「おばーちゃーん。お迎えきたから帰るわねー」
「ふん、こんな雨くらいでぞろぞろと大層なことだね。気を付けてお帰り」
皮肉屋だが根は優しい薬剤師を、アイリーンは実の祖母のように慕っていた。
傘をくるくる回して上機嫌なアイリーンを加え、次に一行が向ったのは、城下町でも最も賑わう大通り――その一角で営業している大衆食堂だった。
雨が煩わしかろうと腹は減る。ちょうど夕食の時間に差しかかっていることも手伝って、店の前は中に入ろうとする客でごった返していた。
そのため、美花達はこっそり路地に入って店の裏へと回ると、勝手口をノックする。
「……おう、こりゃお揃いで」
やがて、のっそりと勝手口から顔を出したのは壮年の男性だった。白髪交じりの髭面で、人相も悪ければ愛想も悪い。シャツの上に着けたエプロンなんて、寮のシェフが見たら卒倒しそうなほど油で汚れていた。
男性の向こうからは、美味しそうな料理の匂いが漂ってくる。美花は思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。
「おい見習い、迎えだ。今日はもう上がれ」
美花やリヴィオの顔をじろりと眺めた男性は、中に向かってそう声をかけると、さっさと中に引っ込んでしまう。そして、彼と入れ替わるようにして勝手口から出てきたのはイヴだった。
イヴは外に居並ぶ面々に、両目をぱちくりさせる。
「お迎え……?」
「うん、イヴ。お疲れ様。一緒に帰ろうね」
美花の言葉に、イヴはたちまち小麦色の頬をほんのり赤らめ、うんと頷く。
すらりと背が高く大人びて見えるイヴだが、中身はまだまだあどけなくて可愛らしい。
先ほどの無愛想なコックはこの大衆食堂の店長だ。ああ見えて実はハルヴァリ皇家の傍系で、おそらくは帝王の存在も認識できているだろうと思われる。
さてはて、ミシェル、アイリーン、イヴの三人を回収し、残るはカミル一人。
カミルの勤め先は、イヴが働く大衆食堂から大通りを少し行った先、細い路地の奥にある工房だった。
彼が師事しているのは、腰の曲がった老齢の靴職人だ。昼間は大通りの隅に陣取って、道往く人々の靴の修理を請け負っている。弟子入り二年目に突入したカミルが担当するのは主に靴磨きだが、少しずつではあるが修理の手伝いもさせてもらえるようになってきたらしい。
雨はまだ降り続いている。雨足が強くなる前にカミルを連れて寮に戻ろうと、彼の傘を抱えた美花は自然と早足になり、一行から抜きん出てしまう。
そんな彼女が、一足先に路地へと続く角を曲がろうとした、その時だった。
パシャパシャと水が跳ねる音が近づいてきたと思ったら、突然ぱっと誰かが路地から飛び出してきた。
「わわっ……」
「――は? メイドっ!?」
現れたのはカミルで、びっくりしてよろけた美花の腕を咄嗟に掴んで支えてくれる。
おかげで、雨の中でひっくり返らずに済んだ美花はほっとしたものの、腕に触れたカミルの手は濡れて冷たく、心なしか頬もいつもより白く見えた。どうやら彼は、濡れて帰る覚悟で工房を飛び出してきたらしい。
「ああもう、せっかちなんだから! 迎えが来るまで工房で待たせてもらえばいいのにっ!!」
美花は慌てて自分の傘を差し掛けてやりながら、ワンピースのポケットから取り出したハンカチで、カミルの赤い前髪からポタポタと垂れる水滴や涙のように頬を濡らす雫をそっと拭ってやった。
「え、は……? 何だこれ……?」
「何って、皆でカミルを迎えに来たんでしょ。とにかく、早く帰って着替えなきゃ。風邪引いちゃうよ」
思ってもみないメンバーに迎えられ、カミルは随分面食らっている様子。それを証拠に、彼にしては珍しく美花に世話を焼かれてもされるがままだ。
すっかり水滴を拭われ、自分用の傘を受け取ってようやく、カミルは美花が差し掛けていた傘の下から少しだけ名残惜しそうに出た。
雨が降り止んだのは、皇城の門まで後少しという所まで帰ってきた頃だった。
もう間もなく山際に沈むという時間になってやっと雨雲を追いやった太陽が、辺り一面を真っ赤に染め上げてしまう。城下町から戻ってきた場合は皇城が西の方向になるので、建物の隙間から差し込む西日でかなり眩しい。
強い光を直接目に入れないよう、お役ご免となった傘を畳みながら俯き加減で歩いていた美花だったが、
突然前から聞こえてきた声にぱっと顔を上げた。
「――あっ、ねえ! 見て見て、皆! あそこっ!!」
はしゃいだ声の主は、いの一番に城門に続く石畳の坂を駆け上がったアイリーンだった。
坂の途中で立ち止まって振り返り、青空のような色合いの瞳をきらきらと輝かせて城下町の方を指差している。
美花達も一端足を止めると、彼女の指先が指し示す方向へと視線を向けた。
とたん、誰ともなしに、わあっ……と感嘆の声が上がる。
美花の視線も、その光景に一瞬にして釘付けになった。
「虹だ……すごい……」
城下町の上には、大きな大きな虹がかかっていた。
皇城から見て城下町は東の方角だ。西から東に流れていった雨雲は、遠くでまだ雫を垂らしているのだろう。
西から差した夕日の光がその水滴の間で屈折し、雨雲が去った空の下に立つ美花達に見事な虹を見せてくれていた。
「夕方に虹が出ると、翌日は晴れるんだって」
「なんだ、それ。迷信か?」
美花が誰に聞かせるともなしに呟いた言葉を拾ったのはカミルだった。
自然と横に並んだ彼の言葉に、美花はううんと首を横に振る。
「迷信じゃなくて経験則だから信憑性はあるよ。夕方に虹が出るってことは、雨雲が東の空に去って西からはっきりと夕日が差している――つまり、西の空はよく晴れているってことでしょ? 天気は基本的に西から東に移り変わるから、明日やってくるのは今私達が西に見ている空ってことになる」
美花の解説に、子供達は興味深そうに聞き入る。先に行っていたアイリーンまで、坂を下って彼女の側まで戻ってきた。
ついでに、虹はどうしてできるのかと問われたため、光の屈折と反射について詳しく説明する。
その延長で、虹には色の濃い主虹と色の薄い副虹があるという話まで及ぶと、子供達はとたんに分かったような分からないような顔になった。
すると、それまで傍観していたリヴィオがくすりと笑って口を挟む。
「ミカは随分と物知りなんだな」
「でしょう、陛下。こう見えて私、元の世界ではいっぱい勉強してたんですよ」
「それはそれは……勉強が好きだったのか?」
「え……どうでしょう。そもそも勉強をしないという選択肢がなかったから、好きか嫌いかなんて考えたことなかった……」
かつて母は、美花に多くの期待を寄せていた。学校でも塾でも、一番の成績をおさめることを求められていて、美花はいつだって懸命にそれに応えようとしていた。
だって、母に褒めてもらいたかったから。自慢の娘だって言ってもらいたかったから……。
ふと、美花の顔から表情が抜け落ちた。
はからずも揃ってその変化を目の当たりにした一同は、はっと息を呑む。
一番に我に返ったのは、さすがは年の功。帝王だった。
「ミカちゃんは頑張り屋さんなんだなぁ」
「うん、そう……私、頑張ってたんだよ、おじいちゃん」
帝王が殊更優しい声をかければ、美花はすぐにいつも通りの明るい表情に戻った。
そして、何となく気まずくなった空気を払拭するように、まだ隣にいたカミルに話を振る。
「ちなみに、朝に虹が出ると後々雨が降るそうだよ。どうしてだか分かる?」
「……朝は太陽が東にあるから、虹は西側に見える。ということは、西の空で雨が降っていることになり、その雨雲はやがて東に流れてくる」
「そうだね、正解。よくできました。カミル、えらいえらい」
「ばかにすんな」
美花がカミルの赤い髪をわしゃわしゃと撫でると、彼はぷるぷると頭を振ってその手を払った。
まるで水滴を払う犬のような仕草が可愛く思えて、美花はくすりと笑う。
カミルはそんな彼女をちらりと横目で見てから、ぼそりと呟いた。
「雨も、別に嫌いじゃない」
「ん?」
「雨が降ったら……今日みたいに迎えにきてくれるんだろ?」
「あらま」
この時、カミルの顔が真っ赤に見えたのは、皇城の向こうから差す夕日のせいなのか、それとも――。
「雨の日のお迎えもいいもんだね、おじいちゃん」
美花はスキップしたいような気分になって、傍らに寄り添っていた帝王に笑ってそう言った。




