11話
ハルヴァリ帝国の日の入りは、だいたい午後七時半過ぎである。
にも拘わらず、この日は妙に暗くなるのが早かった。
不思議に思って窓の外を覗いたことで、美花はその原因を知る。
子供達を城門で見送った時は青一色だったのに、空にはいつの間にか暗雲が垂れ込めていたのだ。
「あっ……うそ、雨……!」
美花が気付くのを待っていたかのように、真っ黒い雲はたちまち雫を垂らし始めた。
子供達の課外活動が終わるのは午後七時。美花が慌てて壁掛け時計を見上げれば、終業時間まで残すところ十五分ほどであった。
「おじいちゃーん。皆のお迎えに行くけど、一緒に行くー?」
「行くー」
勉強と課外活動で疲れた子供達を冷たい雨に打たせるのは忍びない。美花は自分用の他に四本の傘を抱え、帝王を誘って寮の外へと飛び出した。
池のある庭園を突っ切って、学園の建物を玄関から裏口へと抜ける。
次いで目の前に聳え立ったのはハルヴァリ皇城の宮殿だ。学園と寮が正面玄関同士向かい合わせになるように建てられているのに対し、学園と宮殿は背中合わせになるような形で立っている。
皇帝の執務室もある宮殿の出入口にはさすがに衛卒が立っていたが、もちろん美花は顔パスだった。
宮殿を出てすぐ見えてくるのが、四時間ほど前に子供達を見送り、ついでにケイトに絡まれたあの城門だ。
雨の勢いはさほど強くないものの、すでに足もとには幾つも水たまりができている。
美花は右手で傘を差し、左手に四本の傘をしっかりと抱え直すと、かかとの低いパンプスで水たまりに突っ込まないよう気を付けながら城門に向かって歩き出そうとした。
「――ミカ」
と、突然背後から馴染みの声で名を呼ばれ、美花は踏み出そうとした足を引っ込める。
振り返れば、傘を差して颯爽と歩いてくるリヴィオの姿があった。
「陛下、どうしたんですか?」
「子供達を迎えに行くのだろう? 傘を貸しなさい。一緒に行こう」
リヴィオの申し出は正直有り難かった。というのも、傘を四本抱えるのは思っていたより大変だったのだ。
美花は二本の傘を彼に預ける。リヴィオは四本全て自分が持つつもりだったようだが、それだと一緒に行く意味がないので、美花が断固拒否した。
帝王はそもそも幽体なので濡れはしないのだが、雨の中に晒しておくのはどうにも寒々しいと思った美花が自分の傘の下へと引っ張り込んだ。
城門に辿り着いた時、先ほどケイトから庇ってくれた門番がまだ、雨を避けつつ門の下に立っていた。
門番はすぐさまリヴィオに気付き、さっと姿勢を正す。明らかに緊張した面持ちの彼に、リヴィオは男でも見惚れるような美貌に笑みを広げて声を掛けた。
「先ほど、ミカが世話になったそうだな。礼を言う」
「い、いえっ、陛下! 自分は当然のことをしたまででっ……あのっ、恐縮ですっ!!」
「また何かあった時は力になってやってくれ。よろしく頼む」
「はいっ、陛下! 仰せのままにっ!!」
すれ違い様に、ポンとリヴィオに肩を叩かれたとたん、門番は真っ赤になった。
直立不動になった彼の横を、美花は会釈だけして通り過ぎる。
門を潜り、濡れた石畳を一歩踏みしめた時、背後から慌てたように「いってらっしゃいませ!」と門番の声が追い掛けてきた。
「……陛下の男たらし」
「待て待て。心外にも程があるぞ?」
「あんな純情そうな門番さんを誘惑するなんて……っていうか、私があの人にお世話になった所、執務室から見えてたんですか?」
「いや、帝王様が教えてくださった。宝石商の娘に絡まれたんだそうだな?」
いつの間に……と、美花は肩にくっ付いている帝王を見遣る。日がな一日美花の傍にいるように思われる帝王だが、幽霊だけあって神出鬼没。一瞬リヴィオの前に顔を出して、次の瞬間には美花の隣に戻っている、なんて芸当も朝飯前なのだ。
そもそもケイトの件は、美花にとってはわざわざ皇帝に告げ口するほどの出来事ではなかった。
暴力でも奮われたのなら話は別だが、彼女に言われた言葉くらいで傷付くほど柔ではない。
それに、万が一ケイトが暴力に訴えてきた場合だって、伝家の宝刀ことハエ叩きが唸るだけだ。
「あの一家には困ったものだ。私の母を養育したのは自分達だからと、どうにかして外戚を気取りたいらしい」
「あら、遠縁だって聞いてましたけど、お母様の育ての親だったんですか?」
雨の街道を行く人々は足早で、並んで歩く美花とリヴィオに構う者はいない。
その類稀なる美貌が傘の下に隠されていることで、ここにいるのが皇帝だと誰も気付いていないのだろう。
だからこそ、リヴィオは珍しく私室以外で完全無欠の皇帝の仮面を剥ぎ取って続ける。
「私の母は早くに親を亡くしたらしくてな。だが、連中が母を引き取ったのはその境遇を哀れんでのことではなく、単に下働きをさせるためさ。散々彼女をこき使っておいて、先帝である私の父に見初められたとたんにころっと態度を変えたそうだ」
「思考回路が単純で分かりやすいですね。嫌な連中ー」
「もともとハルヴァリ皇家御用達の宝石商の一族だったことで、代を重ねる度に驕りも増したのだろう。しかし、母が関わるのを嫌がったために父はあの一家を重用しなかった。その父が退位したから、今度は私に取り入りたいらしい」
「ガッツはあるのにずれてるんですね。陛下、ケイトさんからもめちゃくちゃベクトル向けられてますから、うっかり既成事実でっち上げられないように気を付けた方がいいですよ」
美花の言葉に、リヴィオは決して人前では見せない、心底嫌そうな顔をして頷いた。
ちなみに、リヴィオの両親――先代のハルヴァリ皇帝夫妻だが、二人仲良く健在である。
リヴィオに玉座を譲ったとたん、二人は手と手を取り合って出奔――したわけではなく、普通に大陸一周旅行を満喫している。二十年ぶりの新婚旅行だと言ってウキウキと出掛けて以降、もうかれこれ五年戻ってこないらしい。つまり、リヴィオは今、在位五年目。
毎年多かれ少なかれ各国の王太子を迎えるので、ハルヴァリ皇国の皇帝と寮母が在位中に国を空けることはできない。
その反動か、先帝夫妻や前任寮母マリィのように、隠居したとたんに皇国を飛び出して行ってしまう傾向があった。
「陛下も、退位したら大陸一周旅行とかする予定なんですか?」
「そうだな……しかし、一人で旅をするのは味気ないし、そもそもまずは玉座を譲る相手が必要だ。――というわけで、ミカ。私に嫁いで跡取りを産んでみないか?」
「そんな適当な口説き文句で靡くと思われたなんて心外です。憤慨です。慰謝料を要求します」
「ミカ……最近、私よりがめつくなってきていないか?」
雨はやはりさほど強くはならず、雫が傘を叩く音も案外静かで二人の会話を妨げることはなかった。
辺りには雨の匂いが漂っている。土のような葉っぱのような、独特の匂いだ。
その正体は、晴れている間に植物が発した油分が、湿度が高くなると土壌から放出されて発せられる匂いであると耳にしたことがある。つまりは、図書館の古書の匂いと同様に、化学物質の匂いなのだ。
美花の記憶の中にある元の世界の雨の匂いと、今まさに体験している雨の匂いには、大きな違いはなかった。
しとしとと雨が降り続く中、まず美花達が辿り着いたのは、古びた木の扉の前だった。
軒下で傘を畳み、雫が垂れるそれを壁際に立て掛けてから扉を開く。
とたんに、美花の鼻腔に残る雨の匂いの記憶を凌駕したのは、芳しい紅茶の香り。
こぢんまりとした店内には、四角いテーブルが一つと、入り口から真っ直ぐ奥にカウンターが置かれていた。
壁一面には何段にも仕切られた棚が作り付けられていて、無数のカラス瓶が並んでいる。その一つ一つに味わいの異なる茶葉が詰まっているというのだから、種類の多さに圧倒される。
ここは、ハルヴァリ皇家御用達の紅茶専門店であり、課外活動を行う王太子達を度々受け入れてくれている皇帝陛下のお墨付き。現在、この店で働いているのは……
「――えっ、どうしてここに……?」
扉が開閉したのに気付いてカウンターの奥から顔を出し、訪ねてきたのが美花達と知って驚いた声を上げたのはミシェルだ。
ミシェルが紅茶専門店を課外活動先に選んだ動機は、彼自身が人見知りで話下手なため、美味しい紅茶を振る舞うことで人をもてなし、打ち解けるきっかけを作れるようになりたい、というものだった。
南国の海を思わせるエメラルドグリーンの瞳。それをぱちくりさせている彼に、美花はにっこりと笑って告げた。
「雨が降ったきたから迎えに来たよ、ミシェル」
「迎えにって……僕を? あの……わざわざ、来てくれたの?」
今年度の新入生が本格的に課外活動をするようになって雨が降るのは、今日が初めてだった。
そのため、皇帝と寮母、それから帝王まで揃って迎えにやってきたことに、ミシェルは驚きが隠せない様子。
といっても、代々の皇帝や寮母が雨の度に子供達のお迎えに奔走する、なんて習慣はない。実際、前任寮母マリィの場合は、その時々で手が空いていた侍従や衛卒に迎えを頼んでいたのだから。
それでも美花はこの日、自らが傘を持って寮を飛び出していた。
ケイト相手に順調に寮母を務めているなんて宣ったものの、包容力も経験値も美花は到底歴代の寮母達には及ばないだろう。マリィの真似事をしようにも、たった半年で学べたことは少なかった。
思春期まっただ中。人格形成に大きく影響を及ぼすこの時期の子供達を導くという責任重大な役目に、美花は戦いたことがある。けれどその時、同じ重責を担うリヴィオが言ってくれたのだ。
美花は美花らしく、そのままの寮母であればよい――と。
それでは、〝美花らしい寮母〟とはどういうものだろうか。自らを客観的に見るのはとても難しいことだ。
散々悩んだ末、美花は自分がしてほしいと思うことを、子供達にもしてやろうと考えた。
そしてこの日は、にわか雨に見舞われた自分がかつて母に望んだように、傘を持って子供達をそれぞれの職場に迎えにいこうと瞬時に思い至ったのだ。
美花は、一度でいいから学校まで母に迎えにきてもらいたかった。雨の中傘を差し、他愛のない話をしながら一緒に歩いて帰ってみたかった。
結局叶えられなかった自身の望みを、他人に押し付けているだけなのかもしれない。
自らの手でそれを叶えることで、自分の望みも成就したように錯覚する、ただの自己満足なのかもしれない。それでも……
「一緒に帰ろう」
片手を差し伸べてそう告げた時、ミシェルが心底嬉しそうな笑みを浮かべて頷いたものだから――今後も雨の日は自分が迎えに来よう、と美花はこの時決意した。




