1話
階段の踊り場に取り付けられた窓から、朝日が斜めに差し込んでいる。
強い光は窓枠の輪郭を滲ませ、照らした階段の一段一段に濃い陰影を作り出していた。
その階段をコツコツと黒いパンプスの踵を鳴らして下りながら、眩い光に茶色の瞳を細めたのは若い女性だった。
白い襟が付いたレトロな雰囲気のえんじ色のワンピースに白いエプロンを重ねている。
顎のラインで切り揃えた髪は毛先だけくるんと内巻きになっており、朝日に照らされて明るい茶色に光って見えるが実際は艶やかな黒である。
三階から二階へと階段を下りてきた彼女が、その黒髪を耳に掛けつつ二階の廊下に足を付けた時、ちょうど一階から二階へと繋がる踊り場から顔を出した人物と目が合った。
ダブルブレストのコックコートにエプロン、背の高いコック帽を頭に載せた壮年の男性は、この建物の一階にある厨房を取り仕切る料理長だ。
「おはよう、ミカさん。昨日も可愛かったけれど、今日はもっと可愛いね。朝一番に君に会えるなんて、今日は僕にとって最高の一日となるだろう」
「おはようございます、シェフ。相変わらずお上手ですね。今日もよろしくお願いします」
さらりと吐き出された歯の浮くような台詞を華麗にスルーしつつ、ミカと呼ばれた若い女性は笑顔で挨拶を返した。息をするようにキザな言葉を吐くシェフには、絶対にイタリア人の血が入っているとミカは思っている。出会って最初の頃は彼の言動に慣れなくて、何か言われる度にいちいち照れたり恐縮したりと忙しかったが、それも今となってはいい思い出だ。
「朝食はもうできているよ。いつも通り、ダイニングに運んでおいたらいいかい?」
「はい、お願いします。お茶のポットは、全員起こしてから私が厨房にいただきに上がりますので」
ミカの言葉に頷いて、シェフは厨房のある一階へと階段を戻って行った。
それを見送ったミカは、さて、と呟いて二階の廊下に向き直る。
茶色と白の市松模様で床を飾った廊下には、階段を挟んでそれぞれ八つずつ、合計十六個の木の扉が並んでいた。その内、現在使用されているのは、階段に向かって右側のフロアにある手前四つの部屋。
ミカはまず、階段から一番遠い四つ目の扉の前まで歩いて行くと、こほんと一つ咳払いをしてからノックをした。
「おはようございます」
しばらくすると、おはようございます、と扉の向こうから挨拶が返ってきた。まだどこかあどけなさを残す、けれど少し固い少女の声だ。
ミカはそれに一人うんうんと満足げに頷くと、身支度が済んだらダイニングに行くよう伝えてから、隣の扉の前へと移動した。
二番目の扉の前でも、三番目の扉の前でも、ミカは同じことを繰り返す。
二番目の扉の向こうから聞こえてきたのは、おずおずとした少年の声。一方、三番目の扉の向こうから聞こえてきたのは、今まさに起きたばかりといった様子の気怠げな少女の声だった。
最後にミカは四番目――つまり階段に一番近い扉の前に立った。この部屋の住人を起こした後は、彼女も一階に下りて先ほどシェフに伝えた通り厨房にお茶のポットをもらいにいくつもりだ。
ミカは一つ大きく深呼吸をすると、他の扉同様ノックをして声をかける。
しかし――結果は、沈黙。
どれだけ待っても一向に返事がない。それどころか、扉の向こうで部屋の主が動いている気配も感じられないことから、ミカは大きなため息を吐き出した。
「まったくもう、毎日毎日、世話のかかる……」
ブツブツと独り言ちつつ、エプロンポケットから鍵の束を取り出して、慣れた様子で選び取った一本を鍵穴に突っ込む。ガチャリ、と意外に大きな音を立てて鍵が開いても、扉の向こうの者が慌てる気配はなかった。
ミカは呆れた顔をしながら、わざと大きな音を立てて扉を開ける。
部屋は、十畳ほどの広さがあった。ちょうど扉の正面にある大きな窓のカーテンが閉まったままで、朝日が遮られた室内はいまだ薄暗い。
窓際にはシンプルな木の机と椅子があり、机の上には乱雑に本が積み上げられていた。
扉から向かって左側の壁際には作り付けの本棚が、一方右側には壁側を頭にして、人一人分こんもりと膨らんだベッドがあった。上掛けからは、少し癖のある赤い髪が覗いている。
「――カミル、朝ですよ。起きなさい」
つかつかと遠慮なく室内に踏込んだミカは、ベッドの膨らみにそう声をかけつつカーテンを開いた。
とたん、暴力的なまでの強い光が飛び込んできて、部屋の中に居座っていた夜の気配を一気に蹴散らしてしまった。
「……うう」
朝日の猛攻は壁際にまで届いたのだろう。ベッドの膨らみが呻き、もぞもぞと動いて上掛けの中へ逃げ込もうとする。
机の上に散らかっていた本を隅にまとめたミカは、今度は肩が上下するほど大きなため息を吐くと、カミル、ともう一度声をかけつつベッドに歩み寄った。
ベッドの横に置かれた椅子の背には、脱ぎ散らかしたバスローブが引っ掛けられている。
それを見つけたミカのこめかみには、ついにピキリと青筋が浮かんだ。
「起きろって――言ってるでしょっ!!」
彼女はそう叫んでバスローブを掴み取り、もう片方の手でもって部屋の主が潜り込んだ上掛けの端を握る。そしてそれを、一気に引っ剝がした。
唐突に光で満たされた空間に放り出された部屋の主は、ぎゃっと悲鳴を上げる。陽光に照らされて身悶えるその姿は、まるで吸血鬼のようだ。
かと思ったら、すぐにまた枕に顔を押し付けるようにしてうつ伏せに丸まり寝息を立て始めたものだから、ミカは片手に掴んでいたバスローブを振り上げ、ごめん寝状態の猫みたいに丸まった背中に思いっきり叩き付けてやった。
ベチンッと景気のいい音が響く。
枕に突っ伏したままくぐもった声で悲鳴を上げた部屋の主は、しかし今度ばかりはさすがに目を開いてベッドの脇に立つミカを見た。
「……っ、痛っ、いった! くそっ、何するんだ!」
「裸で寝るのはやめなさいと何度言ったらわかるの。万が一夜中に不測の事態が起きでもしたら、あなた素っ裸で逃げるつもり? 後、単純にお腹を冷やすから、せめて下着くらい穿いておきなさい」
「うっ、うるさいっ……余計なお世話だっ! 俺がどんな恰好で寝ようと、お前には関係ないだろっ!!」
ミカがカミルと呼んだこの部屋の主は、朝焼けの空のような赤い髪が印象的な十五歳になったばかりの少年だった。ちなみにミカは十九歳。花も恥じらう年頃である。
カミルはどうやら眠る時は解放感を求めるタイプらしく、ミカが引っ剝がした上掛けの下は一糸纏わぬ姿だった。彼がそれを注意されるのも一度や二度ではないのだが、そもそも本人に改めるつもりはなさそうだ。
カミルは背中に叩き付けられたバスローブを無造作に羽織ると、薄い青の瞳で鋭くミカを睨みつける。
彼のそんな反抗的な態度に肩を竦めつつ、ミカは「関係なくなんてないわ」と首を横に振った。
「私の仕事は、あなた達が日々健やかに過ごせるよう取り計らうことなんだから。その貧相な素っ裸を衆人の目に晒すような事態にでもなったら、目も当てられない。あなたがお腹を壊して寝込んだ場合、誰が看病すると思ってるのよ」
「はああ!? 知るか、そんなこと! お前の世話になんかならねーしっ!!」
踏ん反り返って言い放ったミカに、カミルは拳を振り上げんばかりの勢いで怒鳴り返す。
と、騒がしくしたせいか、ミカが開けっ放しにしてきた扉から部屋の中を覗く視線があった。
カミルの部屋は階段の一番近くにある。つまり、先にミカが声をかけた三人は、一階のダイニングに向かおうとするとどうあってもこの部屋の前を通らなければならないのだ。
カミルは見物人の視線にますます煩わしそうに顔を顰めると、まるで親の仇のようにミカを睨み上げた。
「そもそも、どうやって鍵を開けやがったんだ!」
「今更何言ってんのよ。合鍵を使ったに決まってるでしょう。毎日あなた達が出掛けてから、掃除やベッドメイキングするのは私なんだからね。これがないと仕事になりません」
「……っ、くそ、ふざけやがって! 勝手に部屋に入ってくるなっ!!」
「勝手に入って来られたくなかったら、自分で掃除もベッドメイキングもすればいい。っていうか、いい加減自力で起きられるようになってちょうだい」
売り言葉に買い言葉。年下の少年相手に大人げないのは、本人も承知の上だ。
「くそっ……くっそ!」
「くそくそうるさいわよ」
ギリリと奥歯を噛み締めつつベッドを降りたカミルが、胸倉を掴まんばかりの勢いでミカに詰め寄る。
成長途中の彼の身長はちょうどミカと同じくらいなものだから、正真正銘の真っ正面で顔を突き合わす羽目になった。ちなみに、身長がなかなか伸びないことを、カミルは結構気にしている。
「――このっ……くそメイドが! 生意気だぞ!」
「そっちこそ何様のつもり、このくそ坊ちゃま。雇い主でも何でもないあなたに命令される謂れはないし――そもそも私、メイドさんじゃありませんから」
弱い犬ほどよく吠えると言うが、キャンキャン喚くカミルに対し、ミカの態度は至極落ち着いたままだった。
彼女は胸の前で両腕を組んでふんぞり返る。そうすると、同じ位の身長なのに、角度的な事情でカミルを見下ろすような恰好になった。
一瞬たじろいだ彼に、ミカはすかさずふふんと勝ち誇った笑みを向けると、高圧的な態度で言い放った。
「私は――寮母さんですよ」