7 手のひらの第二ボタン
咲耶は今朝の出来事から順を追って話す。
だけど『咲耶の恋を叶えるまで帰れない』という下りでどうしても苦々しい気持ちになる。それでも変にしんみりするのは嫌だったのであえておどけて言った。
「私の恋愛成就まで帰れないらしいんだよ。おかしいでしょ。いつ帰れるんだって話だよね?」
話し終えると尊は難しそうな顔をして考え込んだ。眉間にしわが寄っている。
「つまり、このネズミは咲耶に彼氏ができないとミッションが終わらなくて、主人に認めてもらえないから帰ろうとしない。だけど、咲耶の父さんがアレルギーだから、咲耶の家では預かれない、そういうことでオッケー?」
咲耶は頷く。きちんとまとまっていると思う。
「まぁ、お父さん、ほとんど家にいないから、その間だけ外に出てもらえれば大丈夫だと思う。尊に迷惑かけたくないし」
咲耶は遠慮を口にした。とにかく尊とはあまり接触したくないのだ。お互いに気まずすぎる。彼の方もそうだろう。
だが、
「……預かってもいいけど」
尊は意外にもそう口にした。咲耶は目を見開く。
「餌さえなんとかしてもらえたら。ネズミって何食うわけ?」
「餌って言うな! 神さまのお供え物! 神饌だ! 神棚くらい家にあるだろ!?」
「ねーよ」
尊は高いところからネズミを見下ろす。どこか刺々しい。モチオの態度が悪いので、気持ちはわからなくもない。
「あ、うちにも神棚はないよ。仏壇はあるけど」
咲耶が言うと、モチオは叫んだ。
「まじで!? どーなってんの今の日本!」
続けてイマドキの若いもんは! などとぐだぐだと文句が溢れ出したので、咲耶は急いで機嫌を取ることにした。
「じゃあ、神饌だっけ――毎日お弁当作ってあげるから、それでいい?」
「べ、弁当!? ご飯だけじゃなくって?」
「私のと一緒に作ってあげるから、それでいい?」
「まじで! いい、いいよそれ! おれ、いつも飯と水と塩しかもらえなくてさあ」
社に供えられたものだけ食べていたということだろうか? だとしたらそれはちょっと味気ないかもしれない。
「うえーい、咲耶の手作り弁当ー!」
なんだか必要以上に浮かれている気がして、咲耶は「言っておくけど、おかずは夕食の残り物だから」と念を押しておく。
「愛妻弁当みたいにしてくれよ。それか、ほら、キャラ弁とかあるだろ! ウインナーをタコにしたりとか~」
「しないから」
調子に乗りすぎだ、そう思いながらため息を吐く。ふと見ると、尊がさらに冷たい眼差しでモチオを見つめている。咲耶は慌てた。
「あ、いいんだよ、嫌になったら嫌って言ってくれて。こんな面倒くさいの預かるの大変だと思う」
「……大丈夫。ってか、弁当なんか作るなよ。こんなのドッグフードでも与えておけばいいんだよ」
「なんだと! 犬と一緒にすんな!」
「あー、尊、めんどくさくなるから、それ以上言わないで」
尊は不機嫌そうだ。ほんとうに大丈夫だろうか?
そう思って見上げると、尊と目が合った。いつもとは違って、なぜか尊は目をそらさない。咲耶も目をそらさなかったから、久々に見つめ合ってしまう。何を言おう、咲耶が動揺していると、尊がややして笑った。笑顔など久々に見た。咲耶はどきりとする。
「おれ、さ。ずっと元に戻りたかった」
「……」
咲耶は驚いて言葉を失う。
「めぐみのことで、ずっとぎくしゃくしてるだろ。だけど、おれたちには関係ない話だろ? だから……前と同じようにしていたい」
その名を尊の口から聞いたとたん、胸の奥が急に氷のように冷たくなっていくのを感じた。
「……うん、そうだ、ね」
咲耶はこらえきれずに尊から目をそらす。
そうなのだ。尊は、咲耶の親友、めぐみの彼氏なのだ。
中学の卒業式で、めぐみは尊に告白をした。そして、その時、咲耶はめぐみを応援し、彼女は見事、彼の第二ボタンをもらったのだ。
誇らしげに見せてもらった瞬間、胸が痛んだ。そのとき咲耶は初めて自分の気持ちに気がついた。――そんな、どこにでも転がっているような失恋話だ。
以降、きっとめぐみに遠慮したのだろう。尊は咲耶をなんとなく避けはじめた。
そして咲耶も尊を避けることにした。
めぐみが、尊と距離が近い咲耶の存在を不安がったからだ。
咲耶がめぐみの立場なら、絶対気にすると思った。たとえ、女子力のない咲耶のような女子だとしても、長年の付き合いには敵わない気がするのだろう。
それに、尊の顔を見ると何をどう話していいかわからなかった。
共通の話題としてめぐみのことを話せばいいのかもしれないけれど、彼の口からめぐみの話を聞くのは怖かった。
めぐみとの仲を素直に祝福できるほど心が広くもなかったし、からかえるほどに強くもなかった。なにより、咲耶はめぐみが大事だったから――万が一にも彼女を裏切ってしまうのは嫌だった。
『わかってるよ。好きになんかならないから』
――咲耶はめぐみの恋を応援すると約束したのだ。
そうして尊を避けるのが当たり前になり、いつしか顔を見ることが怖くなった。
幼稚園から高校まで一緒で。兄妹みたいに仲が良かったはずだったのに、バランスが壊れてしまったら一瞬だった気がする。
それが今、彼の方から手を差し伸べてくれた。
戻りたいと言ってくれた。
咲耶だって同じ気持ちだった。せめて、屈託なく笑っていられたあの頃に、戻りたかった。
「だから、遠慮すんなよ。ネズミくらい預かってやるから」
「ありが、と」
なんだか泣きたくなりながら、咲耶は頷いたのだった。