6 花野家の隣人
「モチオ!」
自室に戻るなり咲耶は小さく囁く。一階にはいなかったから、ここではないかと思っていたら当たりだった。白い塊が咲耶のベッドの上に転がっている。
「ちょっと止めてー! お父さんがアレルギーなんだよ! 外、外に出て! あーもう、毛がついちゃった!」
「なんだと! ちょ、ちょっとおい!」
尻尾をつまみ上げてベランダの外に出すと、モチオは憤った。
「もっと大事に扱え! おれさまを誰だと心得る! オオクニヌシ様の――」
咲耶は思わず遮った。
「モチオ、近所迷惑。あと、オオクニヌシ様は偉いかもしれないけど、モチオはモチオ。モチオが何か自分自身のことで誇れることがあるんなら、それを言って。そしたらちゃんと敬うから」
呆れながら言い聞かせる。
「うっ」
どうやら口にできる実績がないらしい。モチオは黙り込んだ。
「あのね、お父さんがアレルギーで、毛がある動物はだめなんだよ」
「じゃあ咲耶もだめだろ。髪の毛がある」
「だーかーらー」
ああ言えばこう言うだな! 咲耶はうんざりしながらも、静かに言い聞かせる。
「どうしても帰らない?」
「帰れない。今帰っても認めてもらえないから。主にお仕えできないなら意味がない」
モチオはしゅんとする。それを見ていると、気の毒になってしまう。助けたのが咲耶でなければ、こんな面倒なことにはならなかったに違いないのだ。
「でも……ごめんね。私、恋はできない」
「だから、どうして」
耳に蘇る約束。考えると胸がぎゅっと締め付けられる。
「約束したんだ。応援するって」
「はぁ?」
モチオが首を傾げたときだった。
カラカラ、という小さな音がして、咲耶は顔を上げる。そして目を見開いた。
息が止まりそうだった。
「あ」
まさか、ここで顔を合わせるとは思わなかった。だって、彼は咲耶を避けていたのだ。咲耶の声がするというのに、ベランダに現れたのが驚きだった。
「尊……」
「……あぁ、咲耶、……だけか……? 知らない声がした気がしたから、泥棒かと思った」
涼し気な眼差しは相変わらず。あの目で見おろされると、ドキドキするんだよね――と誰かが言っていた気がする。178センチと背も高く、大抵の人がイケメンだと認める容姿。
彼は咲耶の隣人で、この家に入居したときからの幼馴染。北川尊だった。
彼はさっと目をそらすと、
「なんでもないならいいんだ――じゃ」
そう言いながら身を翻す。だが、部屋に入る前にわずかにこちらを振り返った。
「……元気か?」
「あ……えっと、うん」
「って、まぁ、知ってるけど――」
尊は少し気まずそうに言う。
隣人で、学校が同じで、そして――部活も剣道部で同じなのだ。
ただ、男子と女子は別々に練習するため、顔を合わせはしないけれど、どうしても視界には入る。いくら見ないようにしても、視界に入り込んでくる。
「うん……」
「なんか困ったことあったら気軽に言えよ? 母さん、心配してた」
「……うん」
「じゃあ、」
と尊が部屋に戻りかけたときだった。
それまで黙っていたモチオが突然言った。
「咲耶、おれ――こいつんとこ、泊めてもらうわ」
そのときの尊の顔を見て、咲耶は自分もモチオに最初に出会ったときはこんな顔をしていたのかもしれないと思う。
動揺を隠すことなく尊はしばらく口をぽかんと開けていたが、やがて何度も目をこする。
「……ネズミが、しゃ、しゃべ――」
「夢じゃないよ。多分。今、尊が驚いてるところまでが全部私の夢っていうなら、ありえるかもしれないけど」
だとしたらどれだけリアルで長い夢なのだろうか。
「――って、モチオ、泊まるとか言ってたけど、だめだよ! うちにいなよ」
尊のところに預けるなんて冗談じゃない。今でさえ気まずいのに、モチオを預けたり返してもらったりで顔を合わせるなんてとんでもなかった。
「だけど、おまえの父ちゃんアレルギーとか言ってただろ」
なんでもないようにモチオは言う。咲耶は必死で抵抗した。
「だから、ベランダにいてよ」
「はぁ? 冗談やめろ、おれに野宿しろって言うのかよ!」
「もともと社に住んでたでしょ? 野宿みたいなもんでしょーが。あ、虫かごが何処かにあったと思う!」
「虫かごだと!?」
「……あの……さ」
そこで、尊が口を挟む。彼は戸惑いを隠せない顔で尋ねた。
「ちょっと理解が追いつかないから……事情、聞かせてもらえたら、ありがたいんだけど」