1 恋の神様拾いました
ねえ、咲耶。応援するって約束して。
絶対、尊のこと、好きにならないで。
*
がらりと音を立てて教室の扉が開いた。
現れた顔は見慣れない少女。一年生だろうか、と咲耶は思う。
「あの、こちら、恋愛相談部……で大丈夫ですか? 《花の予言》の?」
おどおどとした様子の依頼者に、咲耶は小さくうなずく。昼休み限定の活動で使っている国語準備室。表の張り紙には「心理研究会」と書いてあるのだ。
それは正式名称だ。だけど、通称は今の彼女が言ったとおり。
「あってます。恋愛相談部、です。どうぞ」
咲耶がにっこり微笑むと、少女はホッとした様子で扉を閉めた。
そしてぐるりと室内のメンツを見渡した。
「あの、誰にも内緒でお願いしたいんですけど」
「守秘義務は守ります」
咲耶の後ろで、部長の北川尊が淡々と言った。
身長178センチという長身は威圧感がある。だがそれ以上に、彼の整った顔立ちから放たれる鋭い眼差しを直視できない、といった感じだ。
「とにかく座りなよ?」
椅子を勧めながら浅野晴が言う。こちらは柔らかい雰囲気を持つ、中肉中背の美少年。尊とはまた違ったタイプだが、学内で人気のある男の子の一人。
二人のイケメンに見つめられ、少女はぽっと顔を赤らめる。
「こちらにお名前お願いしまーす」
最後にお菓子とともにノートを差し出したのは、カラッとした雰囲気を持つ唐沢明美だ。猫を思わせるファニーフェイスは、依頼者の緊張を和らげる。
咲耶は依頼者の目を見て尋ねた。
「それで、今日のご相談はどんな内容でしょうか?」
咲耶は心の中で小さくため息を吐いた。
恋愛相談部──それは恋の矢印を診て、恋を叶えるという活動をしている。
なぜそんなオカルトまがいの相談を始めたかというと……、それはそれは長く、複雑な理由があるのであった。
*
透き通った青い空から桜の花びらが舞い落ちていた。
「きれーい!」
桜吹雪とはよく言ったものだ。咲耶は地面に落ちた桜の花びらを極力踏まないように気をつけながら、神社の境内を駆けていく。これは中学の時からやっている自主練の一環だった。
小学校の敷地内にあるこの神社は、咲耶が幼い頃からよく遊んだ場所だ。
どうして神社がそのまま学校の敷地内にあるのかは、高校二年生になった今でも知らないけれど、きっと神社だから取り壊すことができなかったのだろう。
鳥居の前で一礼。その後、石造りの古い階段を昇ると、小さな社があった。
学校の裏からも入ることができるらしいけれど、咲耶はそちらのルートを通ったことはない。
神社に参拝するときはなんとなく正面から入らねばならない気がしているのだ。そうしてちゃんとおじゃましますと挨拶をする。神社は神様の家だと思っていた。
ひんやりとした空気には水分がたっぷり含まれている気がする。この場所が小さな森になっているからだろうか。マイナスイオンなどと言うけれど、見えないものは存在を確かめることができない。
「見えないけれど存在するってのは、神様と一緒だよねえ」
そんなことをつぶやいていると、どこからか、みゃあ、と猫の鳴き声がした。
なんとなくそちらを見やると、猫が社の壁を叩いている。石でできた土台の部分だ。がりがりと爪の音が痛々しい。気になって近づくと、どうやら猫は獲物を捕まえようとしているらしかった。
「のら猫かな? お腹空いてるの?」
咲耶は問いかけながら、そっと覗き込む。すると社の下にある岩の隙間に、一匹の白いネズミが挟まっていた。
(助けてあげるべき? あ、でも、ここでネズミを助けると、猫が食いっぱぐれる? じゃあ、猫に別の餌をあげたらいいのかな……家に、なにかあったっけ?)
咲耶がしばし考えていると、
「ちょっと、そこのねえちゃん! 助けて!」
思わず咲耶は顔を上げてあたりを見回した。だが人影はない。まだ朝の七時前だ。こんなところを散歩するような物好きはあまりいないと思う。
首を傾げながら目線を戻すと、ネズミの口が動いた。
「あんただよあんた! その猫、追い払ってくれよ!」
咲耶は目を見開いた。
まさか、と思いながら、岩の間を覗き込む。そして手を差し伸べると、ネズミがぴょん、と咲耶の手に飛び乗ってきた。
「ひゃあ!」
よく考えたらネズミなど触ったことがない。思わず振り落とそうとしたら、ネズミは必死で咲耶の指にしがみついた。
ぽよんとしたお腹がプルプル揺れている。つきたての餅のよう。太りすぎなのではないかと思う。
だから猫に狙われるのだ――などと考えかけた咲耶だったが、はたと我に返った。
咲耶は自分の頬をつねってみる。痛い。夢じゃない。じゃあ、私がおかしくなってしまったのだろうか?
「ねえ……しゃべったのって、あなた?」
まさかね、そう思いながら問いかける。
「そうだよそうだよ! あ、夢でも精神異常でもないからな? 神様はいるの! いるからおれが喋れるの! って――とにかく守って! おれを! オレサマを!!」
どうやら夢でも精神異常でもないらしい。
落ち着こう、と思う。けれど、叫び出したりしていないし、落ち着いてはいるような。だが現実として受け入れていないからのような気もする。
「んー、うーん……?」
どうすればいいのだろう。目を閉じて開けたら消えたりしていないだろうか、と思ってやってみるけれど、目を開けてもネズミは手のひらの上にいて、偉そうにふんぞり返っている。
咲耶はふと思う。
(それにしても……このネズミ、なんでこんなに偉そうなんだろう……助けてもらった態度かなあ、これ)
咲耶の頭の冷静な部分が、こんなネズミぽいっと捨ててしまえと命じるが、下を見ると猫が足にまとわりついている。
狙いを定めているという感じではないけれど、ここでネズミを放置すればきっと、猫の腹の中に収まってしまうだろう。それも寝覚めが悪い。
どうすべきか悩んでいると、ネズミは切羽詰まった声を出す。
「頼む、たのむよ~! あんたの願い、叶えてやるからさあ!」
「なに……言ってるの?」
次から次へとなんだろう。さすがに荒唐無稽すぎないか。
ネズミが喋るだけでなく、願いを叶えてくれるという。昔話じゃあるまいし。
一体何を信じればいいのだろう。頭が考えることを放棄しているのか、よくわからなくなってきた。
(うん、とりあえず難しいことは切り捨てよう。じゃないと頭が本当におかしくなるし。ええと、ネズミが喋っているけれど、ネズミが普通はしゃべらないから、これはやっぱり夢だよね。さっき頬が痛かったけれど、多分痛かった気がしただけだよね。それなら今は夢の中だから、少しの不思議くらい流さないとだめだよね。うん。きっとそのうち目が覚めるから大丈夫……)
夢の中なら大丈夫と腹を決めると、咲耶はようやく落ち着いた気がした。
だが、そんな咲耶の前でネズミがふふん、と腰に手を当てた。ちょっと押したら転びそうなくらいに反り返っている。
「聞いて驚くなよ! おれは! なんと、あのオオクニヌシ様の神使なんだからな! ほれ、敬え!」
思わず咲耶は手のひらを裏返した。ネズミが落ちそうになって再び指にしがみつく。
「な、なにすんだよ! 無礼者!」
「いや……あの、虎の威を借るなんとかっていうの思い出しちゃって」
威張ってるけれど、それはあなたの手柄なの? と聞きたくなったのだ。手柄を横取りして我が物顔。それは咲耶の嫌いなタイプなのだ。
「……ふふ、そなた、面白い娘よの」
どこからか笑い声が聞こえて、咲耶はネズミから目を離す。
いつの間に現れたのか、社の賽銭箱の隣に男の人が座っていた。
咲耶は一瞬息が止まる。というのも、その男の人がものすごい美男だったからだ。
イケメンと称するのをためらうようなレベルの美しさ。
切れ長の目。通った鼻筋はどこか日本人離れしているのに、髪も目も真っ黒なのだ。肌は透けそうに白く、国籍不明。年齢不詳。そして服装が普段見かけないもの。テレビか何かで見た気がするが、古代のものだと思えた。
(神話から抜け出してきたみたい……なんだけど……)
これは一体なんだろう。急に恐ろしくなって、ぶわり、鳥肌が立った。夢の中でも鳥肌が立つものだろうか。
男性は先程の猫を膝の上に乗せてなでている。猫がひどく気持ちよさそうに喉を鳴らしている。それを見下ろす穏やかな表情を見ていると心が騒いだ。
美しすぎるのだ。ここまでの想像力が自分にあるとは思わなかった。
「おまえも修行が足りぬの。簡単な使いだったのに、猫に食われそうになる神使など初めてだ。しかもなんだ。恩人に対してその態度は。いつも私の威を借るなと言っておろう? その娘の言うとおり、そなたのなしたことでそなたは計られるのだ。心せよ」
男性はネズミに向かって言う。
「も、もうしわけございません」
ネズミが急に態度を変えた。さっきまでの大きな態度は一体何だったのだろう。
「そなた、名を何と申す」
しっとりとした声が響き、まるで歌っているようだと思った咲耶がぼうっとしていると、
「おい、あんただよあんた!」
ネズミが手のひらの上で叫び、はっとする。
「え、ええと、花野咲耶です」
「ふうむ、さくや――良い名だな。では、咲耶。まずは――わたしの使いを助けてくれて感謝する。なにか礼がしたいのだが、あいにく、わたしにできることは限られておってな。なので、その使いをそなたに預ける。わたしが直接縁結びを行うようには行かぬだろうが、うまく使えば役に立つ。なあに恩返しだ。遠慮はいらぬ」
「え、あの――」
男性は咲耶をじっと見つめて、
「うん、これはこれは――まったくもって、ちょうどよい修行になるではないか。一石二鳥とはこのことだな」
と微笑むと、ネズミに向かって話しかけた。
「いい機会だ。しっかり鍛錬しておいで。早く一人前になって役立ってもらわぬと、この社もなかなか栄えぬからな。人と過ごせば、人の心の機微がわかるようになるであろう。さすれば、今はぼやけておる『矢印』もはっきり見えるようになる」
そう言った男性は、咲耶の顔をじっと観察すると、ふっと微笑んだ。
「……うむ、だが、咲耶の『矢印』が見えては簡単すぎて修行にならぬな。ここはあえて消しておこう」
「え、主さま! そんな、わざわざ難しくしなくて良いですから! 『矢印』見て、ちゃちゃっとくっつけますんで!」
「おまえ……規則をわすれたのか? 神は間接的にしか願いに干渉してはならぬ。願いを叶えるのはあくまで人であるからな」
「えっ」
「基本も基本だろうが。教えたことをきちんと復習しておくことだ。無事に恩返しが終わるころにはきっと一人前になっておろう。それまで、もどってくるでないぞ?」
一方的に言って男性は消えてしまった。