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日常の風景

 ただ今、宙を舞っています、恩田総司です。土橋さんはもりもり加速し、駆ける勢いは止まることを知らないようです。さて、何処まで言ってしまうのでしょうか、楽しみですね。宜しければ、一緒にお付き合いして頂ければと思います。


「どこに向かっているのですか?」

 再び地に足をつけるのはいつになるのでしょうか。

「えーっとねー……」

 と言いながら腕をぐるんと一周まわします。

 私、一回転するのは生まれて初めてだったのですが、一瞬重力を感じなくなるのが不思議な感じでした。

 でも、土橋さん、危ないですから考え事をしながら人を振り回さないでくださいね。

「あそこ!!」

 どこでしょう。目的地に近づくにつれて、更にスピードが増し、呼吸が出来なくなります。土橋さん、苦しいですよ。


 たどり着いたのは美術室……なのですが、様子がいつもと違います。黒幕や鏡、水晶等が至る所に、無秩序に見えて微妙に規則的な配意で、備え付けられています。

「そのままだよ!!」

 そう言って土橋さんは筆を握ります。どうやら、私をモデルに絵を描いていただけるようです。とても嬉しいことなのですが、彼女の真剣な表情が微笑む余裕を与えてくれません。

 抽象的で解釈に飛躍のある作品が多い方なのですが、今回は正確にそこにあるものを写し取っているようです。分析的な目線と、理に準ずる素朴な描き方から伺えます。出来上がりが楽しみですね。

 期待が胸いっぱいにふくらみ、完成を想像し、優しい興奮がこみ上げてきます。この空間で支配的な音源に聞き耳を立て、動きを眼が追ってしまう。彼女はその振動を嫌がることなく自然に、貪欲に、敏感に感じ取り、余すことなくキャンバスの上に描いていきます。


 今、この時間、この場所では、恩田総司は土橋ゆうこの成すがまま。

 しかし、同時に土橋ゆうこもまた自由ではなく、自然に油分を満たしていく。

 そして、見る見るうちに、太陽光の加減が誤差の範疇を越える前に、それは姿を現す。


 呼吸をとめ、激しい動きを正確に制御し、命を削るその筆はあの土橋さんをも疲労させます。その手を止めないように、しかし、同時にその震えが繊細で不安定な平衡系を壊してしまわないように。すり減っていく神経が緊張を呼び起こします。

 「頑張れ!」等と言えるような立場ではございませんが、応援したい気持ちを押さえ切れません。モデルとしては良くない事かも知れませんが、未熟な私では、目線や表情、息遣いが釘付けになってしまいます。

 日々描き続けた彼女はそんな出来の悪い私の全てを豪快に抱きかかえて活き活きします。不備を補うと言うよりは、それも彼女が望んだこと、思い描いたことと、儘のこととであるようです。詰まらない心配を絶大な力と技と安心で塗りつぶし、幸せが密かに見え隠れします。

 完成が待ち遠しい一方で、この長い刹那がずっと続いてほしい。心も体も揺り動かされた私は熱を帯び、火照って来ました。決して嫌いではない苦痛の味。甘臭い油分。水っぽい汗。


 空白。断続した苦楽の隣で待っていたもの。宙に浮いているのに似通った、その親戚の無味と言う表現がしっくりくる感覚。ただ只管に淡々と、全速力の急ピッチで、動的に模されていきます。内臓にかかる重圧を僅かに感じながら、高水準に安定する循環。不思議ととても調子が良いのです。

 垣間見えた余裕はほんのり乱反射の秩序を捕らえ、感じ、一体感を満たしていく。全方位から来る光の膨大な情報量に臆することなく、心地良い粗雑さのスケールで、驚くほど滑らかに応じることが出来る。余裕が感じられるほどでした。


 いつの間にか、彼女の存在を感じることが出来なくなっていました。自分の存在すら分からなくなっていたのだと思います。何も考えないと言うことを意識的に行うのはそれなりに難しいことですが、今回はあまりに容易に無に帰してしまったのでしょう。恐らくは。

 私の意識の内では、次の瞬間視界に入ってきたのは、快楽にまみれた脱力感と共に眠る土橋さんでした。大の字の豪快な寝相は健やかで清清しいですね。満足気に快眠中の彼女を起こすのも悪いので、体が冷えないように毛布を掛け、目覚めの時を待とうと思います。辺りはすでに真っ暗になっていました。


 おっとそう言えば、絵の方はどうなったのでしょうか……、と思って初めて見えてきたのが目の前にある私でした。普通なら真っ先に目に付くものでありましょうが、不思議と気が向かなかったようです。確かに独創的と思わせる形をしてはいるのですが、あまりに想像通りの、驚きの無い、馴染みのあるそれは、私の中では日常の風景に溶け込んでいたのです。

 そんな風に感じてしまっている私はどうかしているのでしょうか……。大満足で健康的な寝顔を見て思うことは、きっとこの”平凡な”作品こそ土橋さんが描きたかったものなのではないか、と言うことです。もしくは、描くことそのものが作品で、絵はそのおまけなのかもしれません。何にせよこれは私にとって特別な、少なくとも他の人と私が見るのでは感じ方に大きな差のある、特殊な作品なのでしょう。

 絵のことも、彼女のことも、まるで分かっていない不味い恩田ではありますが、その特別を真摯に受け取り、僅かでもお返しが出来ればと思います。土橋さん、本当にありがとうございます。



 そんな幸せな時間がゆっくりと流れていたのですが、時間も時間ですので、誠に勝手ながら、今回はここまでとさせて頂きますね。土橋さんへのお礼や、授業をサボってしまったことの埋め合わせは、後に必ず。一先ず今日はお付き合いいただいてありがとうございました。また機会があれば、よろしくお願いいたします。

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